一章 神籬町
―――なんだかなぁ、と
ホームルームが終わり終礼のチャイムが鳴り響いた後の教室は、空気が緩んで、ざわざわと一気に騒々しくなる。
机を囲んで楽しそうにお喋りに興じる女子生徒や、スポーツバッグを肩にかけ競い合うように部活へと走っていく男子生徒などが目に付く中、宏行は一人静かに帰り支度を始めた。「このあと暇?」だとか「また明日な」だとか、宏行に言葉をかけてくる者は一人としていない。
それどころか、転校して一週間以上経つというのに、宏行はいまだに同級生とまともに口をきいてすらいなかった。けして宏行自身がそれを望んだわけではない。同年代とコミュニケーションをとることが極端に苦手というわけでもない。
むしろ人付き合いは得意な方だ。良くも悪くも主張し過ぎず、他者のペースに合わせることに困難を感じない性格が幸いし、これまで友人を作ることに苦労したことはなかった、のだが。
『
古くからそこに住まう母方の祖父のもとに身を寄せる事が決まり、荷物を積んだ軽トラックに揺られ、山越え谷越え到着に半日以上かかった。
軽トラックの運転を買って出てくれたのは宏之の父方の叔父だ。それほど親しい間柄でないのにも関わらず申し出てくれたことは、宏之にとって心から有難かった。だがあまりに長い道中に次第に両者の口数は減っていき、途中からふたりきりの車内は気づまりで仕方なくなっていた。
運転手に申し訳ないと思いつつ、宏之はいっそ助手席で寝てしまおうかとも考えた。しかし山道に入ると道の舗装がとにかく悪く、少し進むたび、天井に頭をぶつけそうなほど車内が大きく揺れるため、とても眠れそうにないのだった。
細い一本道の周囲一帯は、延々見渡す限りブナだの杉だのの木々ばかりで変わり映えなく、本当にこの先に人が住んでいるのかと不安になってくる。空を覆うほど伸ばした冬の黒い枝葉が重なり合うさまは、まるで異界へ続くトンネルのように見えて、宏行は空恐ろしくなった。
しかし
ぽっかり開けた場所に出たと思ったら、その先に道がない。切り立った崖の上にいるらしく、万が一車がスピードオーバーで突っ込もうものなら比喩でなく洒落にならないだろうが、防護柵どころかカラーコーンすらも設置されていなかった。
だが宏行は冷や汗をかくよりも先に、眼下に広がる景色の美しさにあっという間に目を奪われた。
そこにはなだらかな傾斜地が広がっていた。周囲を連山で囲まれているため森や林が目立つが、水田や田畑だろう整備された区画も多い。川が流れ、遠くに目を凝らすと沼のようなものも見える。そこかしこに家が密集しており、水田周囲は昔ながらの茅葺き屋根の家が多いようだった。気候的に大雪に見舞われる事が少ない地域だが、山間のためか全体的に白く覆われており、あとは茶色と、杉の重く濃い緑色が目立つ。
雪に音が吸収されてしまったように静謐で、どこか寂しげな風景だが、宏行はそれをとても美しいと感じた。
軽トラックが左折し勾配に沿って道なりに下ると、今度は木々の間から市街地が見下ろせるようになってきた。
無医村のような集落を想像していたのだが、これは全く違っていた。
自然に囲まれた中にも、野球場やテニスコートなど娯楽設備や、広く面積をとる施設、近代的なデザインの建物まで目に付く。
きちんと整備された道路が縦横無尽に入り組んでおり、コンクリートの網目の中を敷き詰めたように様々な色かたちの屋根を認める。ほとんどが金属屋根や瓦屋根で、住宅地と思われる地帯には一軒家が多く、新築からそう経っていないような綺麗な住宅も多いように思われた。
もっとも、そこから更に車を走らせた祖父の家は住宅地の外れにあり、年季の入った平屋の古民家といった風情だった。もしやボロ家なのかと心配したが、中に入ると存外きれいで温かく、テレビの中でしか見たことのなかった障子や畳敷きの部屋に、宏之は調子よく気を取り直したのだった。
初めて対面した祖父は寡黙で気難しそうだったが、使っていない部屋を片付けて宏行の部屋を用意してくれていた。
その晩泊っていった親戚は父の妹の旦那という人だったが、部屋に段ボールを運び入れるのまで手伝ってくれた。夕食の卓の片づけが終わると、宏行は自分の知っている言葉を駆使し、丁寧にお礼を言った。叔父はどこか困ったように笑いながら、慣れない地で不便だろうが頑張れと励ましてくれた。
叔父の言葉は素直に有難かったが、言われるまでもなく、宏行は以前から、ここがたとえどんな場所だったとしても、うまくやっていこうと決めていた。
中学3年の終わりという、やや時季外れなタイミングの転校ではあるが、豊かな自然に囲まれた地域に、勝手におおらかな住民性を期待してもいて、冬休み明けから新しい学校で生活することにさほど不安はなかった。
それが実際このありさまである。
編入試験を受けて入ったのは共学の中高一貫校で、まるで大学みたいに大きな学校施設だった。とはいえ、学校生活なんてのはカリキュラムを除けばどこも大して変わりがなく、転入時に貰った校内の見取り図が載ったプリントさえあれば、移動教室の場所に迷うこともない。
無理してクラスメイトに聞かなきゃならないような用事なんて、実はほとんどないのだということを、宏行はこの状況に置かれて初めて知った。
別に嫌がらせを受けているわけではないのだが、なんとなく疎外されているような空気に耐え切れず、転校して数日で周囲と交流を図ろうとするのは止めてしまった。
下校しようと教室の出入り口に差しかかったところで、宏行は廊下から教室内をそっと覗いている男子生徒と、ぱっと視線が合った。
「どうかしました?」
思わず声をかけてから、しまったと思う。状況的におそらく教室内の誰かを探しているのだろうが、先生以外、同級生の名前すらよく知らない宏行が役に立てるとは思えない。
よく見ると廊下にいたのは男女の二人で、長身の男子生徒の背後には、重たげな前髪と少し濃いめに施された化粧が特徴的な女子生徒が隠れるようにして立っていた。
二人とも身に着けている制服が宏行らのデザインと異なっており、おそらく別棟で学ぶ高等部の生徒なのだろう。
最初に目が合った男の先輩は、突然話しかけた宏行に少し驚いた顔をしたもののすぐに柔らかく笑いかけてくれたのだが、これが品よく目鼻立ちの整った、おそろしいほどの美形なのだった。
「ありがとう。実は弟を探しに来たんだけど、いないみたいだ」
よく通る凛とした声音に同性ながらどぎまぎしつつ、宏行がはぁそうですかと気の抜けた返事を返そうとしたところで、突然背後から押し退けるように前に出る影があった。
宏行の目に体格の良い背中と角刈りの後頭部が映る。先輩らとの間を遮るように立ちふさがったその男子生徒は、必要以上に快活な声を張り上げた。
「
宏行は戸惑ったが、その人物のことは知っていた。名前は忘れたが、転校初日に職員室でクラス委員だと担任に紹介されたことがある。その時もよろしくな、と同じく頼もしい調子で声をかけられたのだが、その実、宏行を値踏みするように上から下まで眺めている事に気付いていた。
宏行との交流はそれっきりだ。だがクラスのリーダー格らしく、同級生には頼りにされているようだった。生徒同士の会話を小耳に挟んだところでは、なにやら霊感まで持つらしい。よく分からないが。
ふと教室内の空気が色めき立つのを感じた。教室の後ろの出入り口で話していたのだが、委員長の声で先輩らの存在に皆気が付いたらしい。女子の飛び跳ねるような囁き声があちらこちらで聞こえてくる。各務と呼ばれた先輩を、頬を紅潮させじっと見つめている子もいる。
どうも中等部で随分人気のある先輩らしい。
扉と角刈り頭の隙間から、先輩の少し困ったような笑い顔が見えた。
「
「
委員長が教室内に体を向けると小鼻の膨らんだ横顔が見えた。大きな顔を悔しそうに歪めている。さっきからどうにも仕草が大仰で、拳にした右手を胸の前で固く握りしめてすらいる。
「彼は授業をさぼってばかりなんです!ここ数日は姿すら見ません。不真面目にも程がある!委員長として何もできず、悔しいばかりです!」
ふと、後ろから覗き込んでいた女の先輩が鼻白んだように小さく笑う気配がした。もっとも熱弁している角刈り頭の委員長は気付いていないようだが。
そして今しがたの委員長の発言のおかげで、宏之は話の渦中の人物が誰なのか見当がついた。
窓際の一番前の席の持ち主だ。近くはないが、斜め後ろの方に位置する宏行の席からはよく見える。大体いつも空席なのだが、それを気にする者はいないようで、担任すら出席をとる際に返事がなくても、気にせずさっさと次に行く。
ごくたまに授業に出ていても、教科書も開かず窓の方を向いていることがほとんどで、教師の話に集中しているようには見えない。所謂不良生徒らしく、いつもオーバーサイズのパーカーを着た小柄な背中を丸め、ピリピリとした空気を発していた。
(この先輩は彼のお兄さんだったのか)
ついに各務先輩に申し訳ないとまで言い出した角刈りの背後から、宏行はそっと横をすり抜け廊下に出た。どうもお役御免のようだ。そもそも先輩はすでに弟が居ないことを確認していたようだし、最初から役目などないようなものだったが。
「ねぇ」
教室を過ぎ廊下の真ん中あたりまで進んだ所で、突然宏行は呼び止められた。
振り返ると、各務先輩という人の背中を離れ追いかけてきたらしい女の先輩が、宏行に向かい何か含みのある顔で微笑んでいる。
「はい?」
「あなた、なんだか良くない気配がするよ」
「は?」
あまりに思いがけない科白に宏行が二の句を継げずに固まっていると、ようやく会話を切り上げたらしい各務先輩が寄ってきて、女の先輩に声をかけた。
「巴、遅くなって悪い。行こうか」
ふと中途半端に振り返った状態で呆けた顔の宏行に気が付くと、先程と同じように笑いかけてくる。
「君、さっきは気にかけてくれてありがとう。もしかして転校生かな」
え、あ、とようやく正気に戻った宏行は慌てて先輩方に向き直り頭を下げた。
「少し前に転校してきた古賀宏行です」
「
まるで少女漫画の登場人物のように爽やかな自己紹介だ。
こちらこそよろしくお願いしますと急いで返し、ふと疑問を口にする。
「先輩、弟さん探してましたけど家で会いますよね?そんなに急ぎの用なんですか?」
「…あいつどこで何してるんだか、家になかなか帰ってこなくてさ。気づかないうちに帰ってきても、すぐ部屋に閉じ籠ってしまうからつかまらなくて。急ぎというか…どうしても伝えておきたいことがあったから、授業終わってすぐ駆けつけてみたんだけどね」
湍先輩は少し寂しそうに笑った。
「あいつもちょっと色々あるやつだから…、でも根は悪いやつじゃないんだ。よかったら古賀くんも仲良くしてやってくれると嬉しい」
弟思いのお兄さんのようだ。だが宏行は目下の悩みを思い出し、周囲を見回し誰にも聞かれていないことを確認してから、苦笑して頬を掻いた。
「僕も弟さんによろしくお願いしたいんですけど、クラス自体に馴染めてなくて」
「クラスに?」
湍先輩はきょとりと目を瞬かせてから、何か思いついたことがあるようだったが、うーん、と言い渋るように小さく唸った。
そんななか、巴先輩がずばっと突き刺すように言い放つ。
「あなたが
宏行は思わずぎょっとしたが、それは湍先輩も同じだったようで巴、と慌てた様子で窘める。
巴先輩は湍先輩を見やり、しまったというように口を覆った。
湍先輩はごめんね、と宏行に一言詫びてからとりなすように続ける。
「
言葉を選ぶようにゆっくり話す様子に、宏行は好感を持った。容姿端麗な上に初対面の後輩にまで優しいだなんて、人柄も完璧じゃないか。
「独自の風習みたいなものもあって、君自身慣れないこともあると思う。もし困ったことがあれば、遠慮なく言ってくれれば力になるからね」
優しい。巴先輩がうっとりした眼差しで隣に立つ湍先輩を見ている。
宏行までファンになりそうだった。
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