プロ馬券師剣崎順子の備忘録
加賀美優/中岡潤一郎
第1話
会えばわかりますとメールに記してあったので、その人影が視界に飛び込んできた時、僕はすぐに気づいた。
とにかく背が高かった。二メートルを超えているのではないだろうか。人混みに入っていても頭が丸々一つ抜けていて、遠くから見てもひどく目立った。
サングラスに赤のTシャツ、薄紫のジャケットという格好も特異だった。周囲の人たちが引くのもよくわかる。
僕が頭を下げると、男性は気づいて、こちらに歩み寄ってきた。
間近で見ると、肩幅は異様に広く、胸板もかなり厚い。さながら肉の塊のようで、どこぞの格闘家と言われても十分に納得できた。
「あんたが三好さんかい」
「は、はい」
「馬券指南希望の」
「そうです。今日はよろしくお願いします」
低い声に押されるようにして、僕は頭を下げた。
返事はなかった。人混みの中にいるのに、妙な静けさが包みこむ。
何か変なことを言っただろうか。見当違いとは思えないが。
気になった僕が顔をあげると、ちょうどその男性が腰に手を当てて首を振るところだった。
「よく言われるんだが、勘違いだ。俺は単なる付き添いで、あんたが本当に本当に会いたい相手はこっち」
男性が見おろすと、その背後からぴょこんと人影が現れた。
うさぎを思わせる動きだったが、よく見ると、立派な人間だった。
ひどく背が小さな人で、男性の胸にも達していない。標準より低い僕ですら、見おろす形になってしまう。
ネイビーのマウンテンパーカーに、グレーのパンツといういでたちで、さして大きくないショルダーバッグを提げている。
丸顔で、髪はショートボブ。身体はきゃしゃで、手足も細く見えるが、胸の辺りだけが妙にボリューミーだ。
スクエアの眼鏡がよく似合っていたが、どこか独特の雰囲気を醸し出していたのは、その大きな瞳のせいだろう。見ていると、吸い込まれそうになる。
「はじめまして」
アルトの声が響く。
言い忘れていたが、その背の低い人物は女性である。
「私が剣崎です。馬券指南役の」
「えっ、あなたが?」
「はい。今日はよろしくお願いします」
剣崎さんは、ぺこりと頭を下げた。
正直、驚いた。ネットでのやりとりから、男性だとばかり思っていた。まさか、女性だとは。
しかも、こんな雰囲気の人とは……。
僕は改めて剣崎さんを見る。
正直、これといって特徴はない。
顔立ちは幼く、髪がショートボブなこともあって、見た目の年齢を思いきり引き下げている。10代といっても通用しそうで、横の男性とは対照的に、人混みに入ったら流されて消えてしまいそうだ。
この人が本当に伝説の馬券師なのか。
馬の善し悪しを完璧に見抜き、客に馬券の買い方を教え、とんでもない高額配当を獲得できるように仕向ける、真のプロ馬券師なのか。
にわかには信じられない。
呆然とする僕の前で、剣崎さんは男性に話しかけた。
「ここまでで結構です。今日も付き添いありがとうございました」
「イイって事よ。お前さんには世話になっているからな。じゃあ、またな」
「あ、この先、しばらく付き添いは結構ですよ。誤解を招きますから」
「そうはいかねえよ。ネジがぶっ飛んだような奴が来たら、面倒だろ」
「自分の身は自分で守れますよ」
「それはわかっているさ。ただ、叩きのめした後で、いろいろと事情を訊かれるのは面倒だろうって言っているんだ。ここの場長さんには迷惑をかけたくないだろう」
諭すような言葉に、剣崎さんはうつむいた。
「だったら、俺が出てきて、面倒な奴は追っ払った方がよかろう。だから、しばらくはついてくるからな。じゃあな」
男性は剣崎さんの頭をなでると、歯を剥きだしにして笑った。
その迫力にひるんでいるうちに、男性は僕たちの前を立ち去った。
「すみません。ご迷惑をおかけしまして」
剣崎さんが頭を下げた。
「いい人なんですが、過保護なところがありまして。私がトラブルに巻きこまれたことがあったのですが、それにちょっとだけ関わっていたのです。それで責任を感じて、大丈夫だと言っているのに、付き添ってくれているのです。仕事もあるのに、申し訳ないかぎりです」
「仕事って何をしているんですか」
「パン屋です。自分の家で焼いていて、とてもおいしいのです。凝ったデザインが子供にも大人気です」
なんとまあ、あの
「さて、行きましょうか」
すたすたと歩きはじめるので、あわててその後を追う。
混雑していることもあって、すぐに見失いそうになる。
確かに会えばすぐにわかるかもしれないが、会えるまでが大変だし、会ってからもなかなかの面倒だ。
「どこへ行くんですか」
「パドックです。競馬場に来たのですから、馬を見に行くのは当然のことです」
淡々と剣崎さんは語る。
「間違っていますか」
「いえ、別に」
「私はやるべきことをやるだけです」
剣崎さんは歩くペースを落として、僕と並んだ。
「確認します。三好さんは、私の指南で馬券を買い、大儲けするため、この中山競馬場に来た。そうですね」
淡々としていて、どこか突き放すような口調だ。
僕の声は自然とうわずった。
「は、はい」
「確か借金の返済でしたね。いったい、いくら必要なのですか」
「……一五〇万円です」
「少ないですね。それぐらいなら家族や友人に頼んでかき集めれば、どうにかなったのではありませんか」
予想できた質問だったので、僕は用意した答えを返した。
「いろいろあって、回りには知られたくないんです。サラ金や他の金貸しに手を出すと、どうしても知られてしまいます。それだけは避けたくて」
「とにかく人に知られたくないと」
「時間もないんです。手っ取り早く稼ぐには、これしかないと」
馬券で借金をどうにか使用なんて間違っている。それは、十分承知の上だ。
それでも、他の方法を使うわけにはいかなかった。競馬でできた借金は競馬で返すしかない。
「そうですか……」
剣崎さんは黙り込んだ。表情に変化はなく、それがかえって気になるほどだった。
「あの、何か問題があるんですか」
意識しなかったが、声は少し強くなっていた。
「メッセージのやりとりでは、条件はつけないって書いていましたよね。なら……」
「あ、いえ、大丈夫です。まったく問題はありません」
剣崎さんは僕を見あげた。
「私の力で、150万、きっちり儲けるようにします。ご安心ください」
眼鏡の下の瞳は、不思議なほど醒めていた。
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