第97話 信じて待とうよ
「行ってきます!」
まぶしい朝陽が差し込む中、マンションの玄関で両親に見送られて手を振る剛介の姿があった。
竹刀の入っている長い袋を担ぐ剛介の顔は、緊張しているのか笑顔はないものの、これまでの激しい練習に耐え抜いた自信のようなものが感じ取れた。
公園に入って来た剛介は、僕の前で立ち止まると、一礼し、幹の周りを何度も撫でまわした。
「ごめんよ。毎晩竹刀で叩かれて、痛かっただろ?今までありがとう。今日はおまえの分もがんばってくるからな」
そう言うと、剛介は手を振って僕のそばから走り去っていった。
市大会が近づくにつれ、剛介の剣道の練習は激しさを増していた。僕の身体は、剛介の打ち込みの練習台として何度も何度も激しく叩かれた。そのたびに僕は悲鳴をあげたが、剛介は容赦なく僕に竹刀を打ち込んできた。
早く大会が終わってほしい……僕は内心、剛介を恨めしく思っていたが、今の剛介にはどうしても達成したい目標がある。
「闘病中の隆也のために、市大会で優勝すること」……そのために、僕が出来ることは剛介の練習台になり、ひたすら歯を食いしばって耐えることである。
これで剛介が目標を達成したら、僕もここまで叩かれた甲斐があったといえるかも
?しれない。
太陽が徐々に真上にせり上がっていく頃、公園の中にシュウと隆也が現れた。これから試合を見に行くのだろうか。
「じゃ親父、俺、剛介の試合見てくるからな。親父はここで剛介の活躍を祈っててくれよ」
「ああ。本当は行きたかったけど、さすがに医者に止められたからな」
「しょうがないよ。会場は空調良くないから、親父が行ったらあっという間に体調崩しちまうぞ」
「そうだな。ちょっと前の俺ならば意地でも行ったけど、今は……もうそんな元気もないよ」
「どうしたんだよ?やけに弱気だな?」
「もう歳なんだよ。最近、さすがにちょっとは自覚するようになったんだよ」
隆也はむくれた表情でシュウをにらみつけた。
「ところでさ、親父の夢を壊しちまうような話ですまないんだけど」
シュウは頭をかきながら真っ青な空を見上げ、きまりの悪そうな顔で口を開いた。
「こないださ、剛介、親父のために市大会で優勝するって言ってただろ?」
「ああ、そうだな」
「たぶん……難しいと思うんだ」
「難しい?」
「俺、最初は剛介にも十分チャンスがあるかなって思ってた。でも、下馬評では優勝候補は
「……そうか」
「だから、万が一剛介が優勝できなくても、剛介を責めないで欲しい。もちろん、今回ダメでもいつかは勝てるよう鍛えなくちゃいけないけどさ」
シュウはきまりが悪そうに何度も頭を掻いた。
「シュウ、お前は剛介の優勝はありえない、と言いたいのか?」
「い、いや。ありえないとは言わないけど、可能性はかなり小さいよ」
「じゃあ、そのわずかな可能性を信じなくちゃダメだろ。試合もしないうちにダメだと決めつけるなんて、それでもお前は指導者かよ?」
「そりゃ俺も剛介のことは信頼してるよ。でもな、現実を考えた時、俺は親父が変に期待してガッカリしちゃうんじゃないかって思ってね」
すると隆也は車椅子に座ったまま、頭をもたげて目の前に立つケビンの姿を見つめた。
「俺はな、こいつらが伐採されそうになった時は、たとえ決定がくつがえる可能性が低くても、絶対に守ってやろうと必死で戦った。可能性が低いから諦めるなんてこれっぽっちも思わなかったよ」
そういうと、隆也はシュウの方へ目線を変えた。
「お前に剣道を教えた時だってそうだ。どうせやるならてっぺんを目指せって、何度もお前にも言っただろ?だから、練習は決して手を抜かなかった。負けるとかやってもムダだなんて、一度も思ったことは無かった」
「……」
シュウは隆也の言葉の前に、何も言い返すことは無かった。
「シュウ、剛介の可能性を信じろ。負けるだろうなんて思うんなら、練習なんてやめちまえ。勝つためにここまでやってきたんだろ?」
「そうだよ。剛介の優勝のために、ここまで毎日必死にやってきたんだ」
「だろ?ならば今は、剛介を信じることだ」
隆也は笑顔を浮かべると、自分の手で車椅子を動かし始めながら話を続けた。
「まあ、シュウの心配も分からなくはない。でも、もし負けたのであれば、辛くて悲しいのは俺じゃなくて剛介だと思うぞ。優勝を信じて、今まで毎日必死に練習してきたんだからな」
「親父……」
「そろそろ体が辛くなってきたから、俺は帰るぞ。剛介のこと、最後までしっかり見届けてこいよ、シュウ」
そう言うと、隆也は車椅子から手を振ってシュウを送り出した。
「行ってくるよ。必ず勝つと思って、応援するから。親父も家で応援しててくれよ」
シュウは手を振りながら公園の向こうへと走り去っていった。
★★★★
真っ赤な夕焼けが空を覆い、僕たちのてっぺんに止まっていたカラス達が次々と夕陽に向かって飛び去っていったその時、剛介が向こうからゆっくりとした足取りで僕の方に近づいてきた。
剛介は僕の前で立ち止まると、しばらく僕のてっぺん辺りをじっと見つめていた。その表情は「やりきった」という爽快感というより、どこか悲壮感があった。
『どうしたの?剛介君、ちょっと悲しそうね』
『そうだよな。なんか嫌な予感がするな……』
苗木達はいつもと違う剛介の様子に気づくと、ひそひそと噂話をし始めた。
剛介はしばらく気の抜けたような様子で僕を見つめていたが、やがて目の辺りを拭うと、荷物を地面に放り出し、僕の根元を思い切り蹴りつけた。
「ちくしょう!僕、どうすればいいんだよ!」
いきなり蹴りつけられた僕は、痛さとともに普段はおとなしい性格の剛介が振るった暴力に驚かされた。
『ルークさん、大丈夫?おい剛介、ルークさんに何するんだよ!』
ケンは僕を気遣いつつ、剛介の行為に怒りをあらわにした。
しかし剛介はこれで収まるどころか、拳を握りしめて何度も僕の幹を殴りつけた。
「僕、ここまで一生懸命やってきたのに!どうして、どうして……ちくしょう!」
僕は全身を駆けめぐる痛みにじっと耐え続けた。
剛介の目には涙があふれ、僕を殴りつけるたびに光を帯びて地面にしたたり落ちていった。
しばらく殴り続けた後、剛介は僕の根元に座り込んでしまった。
「こんな結果で……隆也さんに何て言ったらいいのか。本当に情けないよ」
剛介は座った姿勢で、地面を殴りつけながら号泣し続けた。
その拳は赤く腫れあがり、血が滲んでいた。
日が暮れ、辺りが真っ暗になった後も剛介は自宅に帰らず、僕の下でしゃがみこんだままだった。
「おい、剛介?そこにいるのか?」
暗闇の中から、誰かが剛介に声を掛けた。
「はい。そうですけど……」
暗闇から姿を見せたのは、シュウと車椅子に乗った隆也だった。
シュウは車椅子を押す手を離すと、剛介の隣に座り込んだ。
「泣いてるのか?」
「……」
「悔しいか?」
「はい」
「決勝の相手、強かったよな?池上君。手も足も出なかったな」
「はい」
「でもな、準優勝だぞ?すごいよ!以前のお前なら考えられなかったよ。県大会も出られるんだし、またここから頑張ればいいじゃないか?」
「だけど……隆也さんに見せる顔が無くて。隆也さんとの約束、守らなかったから」
すると隆也は、車椅子を動かしながら剛介の元へと近づいた。そして、手すりにつかまりながら、ゆっくりと立ち上がった。
「親父!無理すんなよ。こんな暗闇の中、危ないって!」
シュウは驚き、慌てて隆也の身体を押さえつけようとしたが、隆也はシュウを手を制し、立ち上がるとよろめきながら剛介の元へと歩み寄った。
「今日はよくやった。俺に優勝の報告をするために、剛介がここまで必死にがんばってたことを、俺はちゃんと分かってるよ。またここから練習して強くなればいい。準優勝だとしても、俺はすごく嬉しかったよ。ありがとう、剛介」
そう言うと、隆也は満面の笑顔で何度も剛介の頭を撫でた。
すると剛介は隆也の胸の中に顔をうずめ、声を上げて号泣し始めた。
「隆也さん、本当に、本当に……申し訳ありませんでした」
隆也は剛介の身体を、両手でそっと抱きしめた。
「親父……」
シュウはその場面を、片手で涙を拭きながら見守っていた。
僕も、ケビンも、そして苗木達も、こらえていた樹液が止まらなくなった。
やがて隆也は剛介から手を離すと、よろめきながらゆっくりと歩き出し、車椅子に座り込んだ。その時、微弱ながら、隆也が辛そうに息をしているのが僕の耳に伝わってきた。
「じゃあな、剛介。今夜はゆっくり寝ろよ。ご両親に準優勝の賞状、ちゃんと見せるんだぞ。辛い気持ちはわかるけどさ」
「はい!」
剛介は涙を拭きながら立ち上がると、深々と頭を下げ、地面に置いた荷物を手にして
マンションへととぼとぼと歩き去っていった。
シュウはため息を付くと、隆也の乗った車椅子に手をかけた。
「さ、俺たちも帰ろうか、親父……親父?」
隆也から何の反応も無く、驚いたシュウは車椅子を覗き込んだ。
「なんだ……寝ちゃったのかよ、驚かすなよ」
僕の耳にも、車椅子から気持ちよさそうないびきが聞こえてきた。
隆也は車椅子の上で、すっかり眠り込んでいた。
約束は果たせなかったけれど、隆也としては「愛弟子」の活躍と健闘に、心から満足していたのだろう。
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