第92話 樹木医はつらいよ
今年の夏は、これまで経験したことのない猛暑だった。
朝から強烈な日光が降り注ぎ、気温がぐんぐんと上がっていった。雨は何日も降らず、水分が不足する中でじっとこらえながら立ち続ける日々が続いた。
今日も強烈な日差しが降り注ぐ中、晴れているのに白い傘を差した女性が大きなケースを引きながらこちらに近づいてきた。花柄のワンピースを着込み、耳までのショートカットの髪型に眼鏡をかけ、いかにも都会からきた女性という雰囲気を醸し出していた。
「わあ、帰ってきたんだね、私。久しぶりだね、この公園も」
女性は気持ちよさそうな顔で青空に向かって大きく背伸びをした。
「あなた達は昔からずっと変わってないわね。あら、こんな所に小さい木がいっぱい。いつ植えられたのかな?」
僕たちを懐かしむあたり、この女性はどうやらこの町で生まれ育った人なのだろう。ただ、苗木達とは初対面の様子だった。
「これからはあなた達のお世話をすることになるから、よろしくねっ」
え?僕たちの世話?この若い人は僕たちに一体何をやるというのだろう?
色々謎めいた言葉を言い残し、女性は鼻歌を唄いながら傘を差して遠くへと歩き去っていった。
『あんな若い娘に何ができるの?この猛暑の中でじっと耐えてる俺たちの気持ちを分かってんのかよ』
ケンは苛つきながら毒づいていたが、どんな形であれ、僕たちのために頑張ってくれる人たちが出現したことは素直に嬉しかった。
★★★★
強烈に暑かった夏が過ぎると、雨の降る日もあり、徐々にさわやかな風が公園の中を吹き抜け始めた。
無限と思えるほど暑い日が続いたこの夏は、僕たちケヤキの木にとっては受難の日々だった。
僕とケビンはそれなりに身体がしっかりしているのでそれほど問題は無かったものの、まだ小さい苗木達は辛かったことだろう。
特に身体の小さいキングはその影響を受けてすっかりヘタってしまったようだ。
『おい、キング。大丈夫か?何とか息できるか?』
『はい、大丈夫……だと思います』
『と思います?ちょっと、本当に大丈夫なの?みんな心配してるんだよ、キングのこと』
ナナがキングの力のない答えにしびれを切らし、金切り声を上げた。
『ありがとうございます。何とか……がんばります』
『無理はするなよ、もうすぐ樹木医の先生が来る時期だと思う。もうちょっとがんばれよ。それまではみんなで声を掛けて支えていくからさ』
僕はケビンに声を掛けると、ケビンは申し訳なさそうな表情を見せた。
『そういえば今月はまだ樹木医の先生が来てないよな。どうしたんだよ、こんな時こそ一刻も早く来るべきなのに、呑気だよなあ』
ケンは、いつまでも来ない樹木医にいらだちを見せていた。
『しょうがないわよ。人間は太陽の当たらない家の中でぬくぬくと暮らしてるんだもん。私たちの叫びなんて全然届いてないわよ』
ナナは、ケンに同調しながら、人間達に対する不信感を募らせている様子だった。
次の日も、その次の日も樹木医は姿を見せなかった。キングの様子は、徐々に悪化しているように見えた。
『おいキング、大丈夫か?もうちょっとの我慢だぞ。がんばれよ、俺たちが付いてるからな』
『は、はい。何とか……』
息が絶え絶えのキングを、僕たちは必死に応援した。僕たちだって今年の暑さで体力を使い果たしているけど、キングのことを黙って見ていることはできなかった。
『ちっくしょう!何やってんだよ樹木医の先生は。俺たちは見殺しにされるのかよ?』
ヤットが大声で叫んだ。他の苗木達もヤットに同調し、樹木医への、そして人間達への不満をぶちまけていた。
その時、ミルクが突然甲高い声を上げた。
『あ!あれ、理佐先生だよね?』
他の苗木達は、その声を聞いて一斉に公園のはるか向こうを見つめた。
そこには白髪交じりのの長い髪をなびかせる理佐の姿があった。そしてその隣には、眼鏡をかけたショートカットの若い女性がいた。
『あの眼鏡の女の人って……こないだここに来た人じゃない?』
『ホントだ!樹木医だったんだね。あの人』
理佐はケビンの下にあるベンチに到着すると、カバンを開き道具を取り出した。
「
「はい、理佐先生!」
「あら櫻子ちゃん、何だか嬉しそうだね。他の場所ではいまいち元気なかったのに」
「だって、私、子どもの頃はこの公園を通って学校に通ってたんですもん」
「そうなんだ?」
「この木と向こうに立ってる木の傍を通って小、中、高校に通ってたんです。いつもこの木たちを眺めて、元気をもらって学校に行ってたような気がします。だから今度は私がこの木たちにいつまでも元気でいられるよう役に立ちたいと思って、樹木医になったんです」
「へえ、じゃあ夢が叶ったんだね。きっといい樹木医になれると思うよ、櫻子ちゃんは」
櫻子は理佐の言葉に照れながらも、念願だった僕たちの世話ができることへの嬉しさがみなぎっているように感じた。
二人は道具を手に、ケビンの幹や根の様子を確かめていた。
「櫻子ちゃん、もっと木に寄り添って!樹皮の状況、根っこの張り方、葉っぱや枝の一つ一つにもちゃんと目を配るんだよ」
「は、はい」
櫻子は、理佐の言う通りに葉っぱや枝を手に取り、さらに樹皮の様子もしっかり確かめた。
「うん、葉や枝が枯れて地面に落ちていたり、樹皮が乾燥して触るとポロポロ落ちてきますね」
「今年の夏は暑かったから、ちょっと元気ないかもね」
そう言うと、理佐は活力剤をケビンの根元に撒いた
「理佐先生、ここに立ってる小さな木も、元気がない様子ですね」
「そうなんだ……考えていたより影響は深刻みたいね」
理佐と櫻子は、苗木達の様子を一本ずつ見て回った。一本一本の診察にじっくり時間をかけ処置を行っているので、いつもよりは時間がかかっているように感じた。なるほど、だから今月はなかなか診察に来れなかったのか。
「先生、この木が特に具合が悪そう……」
櫻子は、キングの異変に気付いたようで、慌てた様子で理佐を手招きしていた。
理佐はキングに近づくと、枝や幹、根元に目を配ると、大きなため息をついた。
「この子はちょっと様子がおかしいかもね。急いで応急処置するわよ」
「は、はい!」
理佐はかばんから剪定ばさみを取り出すと、キングの枯れた葉や枝を除去し始めた。
「何ボケっとしてるの?土の栄養が足りないかもしれないから、肥料を入れないと。公園の入口に車が置いてあるから、そこから取ってきて!」
「す、すみません」
櫻子は急ぎ足で公園から出ると、すぐさま大きな肥料入りの袋を抱えて理佐の元へとやってきた。
理佐は櫻子の手から袋を奪い取ると、切り開き、土の中に散布し混合させた。
最後には活力剤と、薬品の入った液体を根元に注ぎ込んだ。
「すごい、先生。よくそこまで素早く処置できますよね……私にはそこまで出来ないですよ」
「経験だよ。色んな木の色んな病気を診てきたからね。今のは単なる応急処置だから、これだけじゃ全然ダメよ。あとは市に掛けあって、この木を一時的に隔離して『療養』させてもらおうかな」
「……」
どうやらキングは僕たちの想像以上に衰弱しており、この場所から隔離されることになりそうだ。確かに今のままでは、見ている僕たちも心配で仕方が無かった。
「さ、後はそこに立ってる大人のケヤキの木だけだよ。他の公園の木もあるんだし、時間が無いんだから手早く、かつ正確にね」
理佐はタオルで額の汗をぬぐいながら、櫻子とともに僕の身体を丁寧に確認した。
「うん、この子はさすがに大人のケヤキだけあって、しっかりしてるわね。活力剤だけで十分よ」
理佐はしゃがみ込むと、僕の根元に活力剤を撒いた。
厳しかったこの夏、僕の身体は限界まで追い込まれていた。だからこそ、活力剤を吸収した後、心なしか生き返ったような気持ちになった。
「さ、この公園の木は全部終わり。櫻子ちゃん、もう次の公園に行くわよ。何ボケッとしてるの?」
「だって、あの木……かわいそうだなって思って」
「大丈夫よ。一時的に生育環境のいい場所に植え替えれば徐々に回復するわよ」
「そうですか?無理やり移植させるなんて、もっとかわいそうじゃないですか?」
「櫻子ちゃん、ここの公園が忘れられなくて、そしてこの公園の木たちを守りたくて樹木医になったんでしょ?」
「そうですけど……」
「じゃあ、もっと木のことを勉強しないと。そして木を守るためには何が大事か考えないと。今のままじゃまだここを任せられないわよ」
「はい……すみませんでした」
理佐は憮然とした表情でかばんを持つと、そそくさと歩きだした。先ほどまで元気いっぱいだった櫻子は、すっかり自信を失くし沈んだ表情でその後を付いていった。
「何というか、若かった頃の自分を見ているみたいだわ」
僕の前を通りすぎる時、理佐はまるで僕に聞こえるかのような声でつぶやき、公園の近くに停めた車に乗り込んだ。
『キング、しばらくお別れになるのかな?でも、しょうがないよね。キングの命を救うのが最優先だもんね』
キングは何も言い返さず、元気なくうなだれたままだった。
理佐は樹木医として非情だけど最善の方法を提言していた。僕としては、どんな形でもいいからキングの命を救って欲しい、そして櫻子がいつの日か僕たちの樹木医として一人前に成長してほしいと願っている。
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