第90話 約束の日
寒く強風が吹き荒れる冬を越え、温かな日差しが降り注ぎ少しずつ春を感じられるようになった。苗木たちはこの冬も無事しのぎ切り、また一つ立派に成長したように見えた。
今日は人通りも少なく、おそらく仕事も学校も休みの日なのだろう。誰も居なく静まり返る公園に、中学の制服を着込んだ剛介が姿を現した。その手には、竹刀と道具の入った袋を手に公園の中に入って来た。
『あれ?剛介、今日は学校休みなんじゃないの?』
『いや、多分今日は剣道の試合なのかもね。昨日までシュウと一緒に遅くまで練習してたじゃないか』
『ああ、そうだったね。でもシュウはすごいよな。剛介の足りないところを的確に見抜いて、丁寧にアドバイスしてるもの。隆也は大声で剛介を叱咤激励するのは得意だけど、技術的なところはちょっと……な』
『こら、今の話を隆也が聞いたら怒られるぞ!』
その時、僕たちの真後ろから隆也の家の玄関が開け放たれる音がした。そこには、車椅子に乗ったタキシードを着込んだ隆也と、着物姿の怜奈の姿がった。
『やばい!だから言っただろ?今の僕たちの会話、しっかり聞かれちゃったかもな』
苗木たちは隆也に怒られるのを覚悟しながら、通り過ぎて行く姿をじっと見届けていた。しばらくして隆也と怜奈の後ろ姿が見えなくなると、苗木たちからは安堵したような声が聞こえてきた。
『ふう、何も無くてよかった。でもさ、二人ともどうしてあんなに着飾ってるのかしら?』
確かに二人とも、いつものようなラフな服装ではなく、着慣れない服装を無理やり着込んでいるように見えた。一体どこに行くつもりなんだろうか?
その時、公園のすぐ横にタクシーが止まり、二人の若い男女が降りてきた。
一人は黒い着物に縞模様の袴をはいたシュウ、その隣にいるのはカラフルな着物姿で顔に濃い化粧を塗ったシュウの彼女・芽衣の姿があった。
『シュウだ!シュウも着慣れない着物なんか着ちゃって、どうしたんだろ?』
シュウは芽衣の手を引き、ケビンの前で立ち止まった。
たくましい身体と精悍な顔のシュウ、以前会った時よりも大人の女性の色気が漂う芽衣の二人は、お互いに手を握り、じっとケビンを見つめていた。
「おい盟友、今日は大事な報告があってここに来たよ」
そう言うとシュウは、芽衣の背中を押してケビンの前に立たせた。
「覚えてるか?俺がまだ学生だった時、芽衣と一緒にここに来たこと」
ケビンはその問いかけに対し、感慨深げに『覚えてるよ』と答えた。
「あの時、芽衣と約束したんだよ。もしうちの両親に何かあったら、この町に芽衣と一緒に戻ってくるって。あれから大分経ったけど、ついにその日がやってきたんだ」
「シュウのお父さんが重い病気になったって聞いたから、私が背中を押したのよ。最初シュウは戻る気がなくて、その後もダラダラと決断を先延ばしにしてたの。だから私、『あの時私に言った「その時」が来たんじゃないの?』って言ったのよ」
芽衣は苦笑いしながら、シュウの顔を見つめた。
「いくら剣道が強くても、面倒見が良くても、そういう優柔不断なところは治した方がいいわよ、ホント」
「う、うるさいなあ。俺だってずっと仕事が忙しくて、なかなか決断できなかったんだよ」
「それって仕事に逃げてただけじゃん。そうやって結論を先延ばした結果、大変な思いをしてた人がいっぱいいるんだよ?両親とか、私とか」
「私とか?」
「そうよ……いつ結婚を決意してくれるんだろうって、ずっと待ってたのよ」
芽衣はハンドバッグからハンカチを取り出すと、目元を拭った。
「ごめんな。でも、芽衣のことを忘れたわけじゃない。いつかは結婚したいと考えていたんだ。ずっと待たせてしまって、本当にごめんな」
「本当よ、もう!どれだけ寂しかったか……」
シュウは芽衣の背中をそっと抱き寄せた。芽衣はシュウの胸に身体を寄せながら、何度も涙を拭っていた。
「さ、式の時間ももうすぐだ。親父達はもう先に行っちゃったみたいだし、俺たちも早く行かないとな」
「うん」
シュウは芽衣の身体をそっと抱き起すと、再びケビンの方を向いた。
「盟友よ、これから俺たちは近くの神社で式を挙げて来るよ。親父は俺たちの晴れ姿を見るのを誰よりも楽しみに待っててくれてたんだ。二人とも普段着慣れない和服だけど、たった今結婚式場でちゃんと着付けしてもらってきたから、すこしはサマになったかな?じゃあ、また後でな」
シュウは片手を振って公園の外へと歩き出した。
「盟友」であるケビンは、二人の背中を見つめるうちに、徐々に樹皮の隙間から樹液が染みだしていた。
『おい、ケビン。樹液が染みだしてて、みっともないぞ』
『え?な、何でもないよ!気のせいじゃない?僕、こんなことで泣いたりしないよ』
『でもさ、シュウの立派な姿を見て、色んなことが頭によぎったんだろ?小さかった頃のこととか、ずっと剣道の練習相手になったこととかさ』
『ちょっと、ルークさん、ヘンなこと言わないでくれよ!僕を泣かせて何が楽しいんだよ?』
『無理しなくていいぞ。僕だってさ、おじさんがここを去った時、色んなことが頭をよぎって、その日は一晩中樹液が止まらなくなったからさ』
必死に強がろうとするケビンを、僕は自分の経験をもとに、無理をするなと言ったつもりである。僕たちは決して僕たちの力だけでここに立っているわけではない、周りからの力添えがり、思いを寄せられて、こうして生きていられるのだ。
だからこそ、自分を支えてくれた者たちが旅立っていく姿、成長していく姿に自然に感動を覚えるのである。それをごまかし、抑えつける方が無理があるように感じる。
夕方、陽が傾き始めた頃に、怜奈の引く車椅子に乗った隆也が再び公園に姿を見せた。隆也の表情を見ると、どことなく安堵しているように感じた。
「ねえお父さん。シュウ、カッコよかったよね。招待客の前で『この人を幸せにします。そして、お父さんの大事にしてきたこの公園を奥さんと一緒に守ります』って言ってくれてね。私、年甲斐もなく大泣きしちゃったよ」
「あいつ……あんなに生意気になりやがって。まだ若いのに……何言ってるんだよってね」
「そんなこと言っちゃダメよ。大体、シュウにこの公園を守ってくれって電話で言ったのはお父さんでしょ?」
「ばかいえ……確かに電話でそう言ったけれど、まだ俺はやるよ……こんな病気、絶対治してやる」
「もう、お父さんは本当に強情なんだから」
隆也は怜奈からたしなめられても表情を変えず、車椅子から僕たちの様子を眺めていた。
やがて太陽が沈み、闇に包まれた公園に一人で剛介がやってきた。
試合が終わり、朝出かける前に比べるとちょっと疲れているようで、竹刀や道具を入れた袋を地面に投げ出すように置くと、ベンチに座り、無言のままうつむいてしまった。
その時、ベンチ座り込んだまましばらく黙り込んでいたシュウの背後から、ゆっくりと近づいてくる人影があった。
「よう剛介君、待たせたな」
「シュウさん!」
人影の正体は、結婚式が終わったばかりのシュウだった。
「剛介君、どうだった、試合は?」
「結果は……」
剛介は左手の指を二本立てて、シュウの目の前に差し出した。
「二つ、勝ったのか?」
「はい。二つ勝って、ベスト8にまで行きました」
「やった!おめでとう!一つ壁を越えられたな!」
「でも、その先はダメでした。準々決勝は一本も取れずに負けちゃって」
「いいんだよそれで。こないだも言ったろ?高い所に目的を持っていこうって。今度は目標に向けて、その次の壁を越えるための練習をすればいいんだ」
シュウは剛介の前にしゃがみ込むと、頭に手を置き、白い歯を見せて微笑んだ。
「でも……本当はシュウさんの結婚をお祝いするために、優勝旗を持ち帰りたかったんです。すみません、もっと練習します!」
「アハハハ、優勝旗か!ありがとう。その気持ちだけでもすごく嬉しいよ。いつか俺のために、持って帰ってきてくれよな」
「はい!」
ケビンの前で夢を語り合う二人の後ろから、一人の女性がダウンコートを着込んで近づいてきた。よく見ると、今日シュウとの結婚式を挙げたばかりの芽衣だった。
「シュウ。ここにいたの?結婚して初めての夜なのに、私一人を置いてどこに行ってたの?ずっと探してたのよ」
「アハハ、ごめんよ。男同士の話があったんでね。すぐ帰るから心配すんなよ」
「へえ……男同士、ねえ」
芽衣は二人の顔を呆れ顔で見ていたが、やがてクスクスと笑い出した。
「男同士の友情もいいけど、私との愛情も大事にしてね。じゃ、お先に」
芽衣が笑いながら公園から立ち去ると、剛介は突然真剣な顔つきになり、シュウの方を振り向いた。
「シュウさん、早く帰ってあげてくださいよ。奥さん、寂しいんじゃないですか?」
「ば、バカなこと言うな。まだ中学生なのに」
「だって、僕も昔、同じようなことして相手を心配させちゃったから」
「はあ?」
「さ、早く帰ってあげてください。僕はもう帰るんで」
剛介は頭を下げ、そそくさとマンションへと走り出していった。
「おい!同じようなこと?相手?一体何があったというんだ?」
一人公園に取り残され、あっけに取られたまま立ち尽くすシュウを見て、僕たちは笑いが止まらなかった。
『アハハハ、そりゃあ剛介は、あいなちゃんとの苦い経験があるもんな』
『女心については、剛介がシュウの先生になれるかもね』
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