第39話 遠い空の下から
隆也とシュウが去った後、学校の下校時刻になったのか、家路に向かう生徒たちが続々と公園を通り過ぎて行った。
制服姿の中学生が、学校の話や好きな人の話などで盛り上がりながら通り過ぎて行く姿は、いつも見慣れた光景であり、今も昔も全く変わっていない。
そんな中、セーラー服姿の二人の中学生が、ケビンの目の前で突然足を止めた。
「あれ?ここに小さな木があるよ。今日来たばかりなのかな?」
「そうだね、昨日までは無かったよね、この木……」
二人は地面にしゃがみ込むと、しばらくの間じっとケビンを凝視していた。
「かわいい!まだ小さな葉っぱがいっぱいついてる~」
「これからぐんぐん大きくなるのかな?昔ここにあった木みたいに」
「え?昔、ここに木があったの?」
「うん。私ね、小学校の写生会で、ここにあったケヤキの木を描いたんだ。クラスの他の子達はみんな、この後ろに立ってる木を描いてたんだけど、私一人だけ、ここにあった木をひたすら描いてたんだ。あの木には、私の心をぐっと惹きつける何かがあったの」
「へえ……燐花らしいなあ。他が何と言おうと、気になったものにとことん向き合うのは。ニキビだらけの美術部長の菅井先輩を好きだっていう話もそうだし。うちの部の女子はみんなあの人苦手なのにさ~」
「ど、どういう意味よ、美央!?菅井先輩って、何事にも一途で一生懸命じゃん!その姿が私にはすごく愛おしいんだよ」
慌てふためいているセーラー服姿の中学生は、小学生の時、写生会でおじさんの絵を一生懸命描いていた燐花だった。
もう、中学生になったんだ……背も伸びて、顔つきも大人っぽくなっていたので、全く気が付かなかった。しかも、好きな人が出来たなんて、羨ましい。
すると、燐花は何かを思い立ったように鞄の中を手で探り、一冊の大きなノートを取り出した。
「どうしたの?燐花。突然スケッチブックを取り出したりして」
「これからこの子を描くのよ。この小さな木が愛おしくて、どうしても描きたくなったの」
「んも~……どうして燐花はいつもそうなのよ?私そういう所が付いていけないんだけど」
「じゃ、美央は先に帰って。私はこの子をじっくり描いてから帰るから」
「はいはい。テストが近いんだから、燐花も早く帰って勉強しなよ」
友達の美央と別れ、一人残された燐花はケビンの前に座ると
「私、燐花っていうんだ。よろしくね」
と言い、軽く頭を下げて微笑んだ。
そして、しばらくの間ケビンの姿を凝視した後、一心不乱にノートの上に鉛筆を走らせた。
この地にやってきた当日に突如として絵のモデルになってしまったケビンは、ひたすら鉛筆を走らせている燐花を前に、どうしたら良いか分からず、すっかり固まっている様子だった。
『ねえ、ルークさん……僕、どうしたらいいんだろ?このお姉さん、僕のこと睨みつけていて、怖いんだけど』
『大丈夫だよ、このお姉さんはケビンの絵を描いてるだけだよ。そのまま、じっとしているだけで良いんだからさ』
『そうなんだ。でも、怖いなあ……』
その時、楽器を抱えた若い男女二人組が現れ、燐花が一心不乱に絵を描く様子を真上からじっと見つめていた。
僕の記憶が正しければ、おじさんに捧げられた楽曲『大きなケヤキの樹の下で』を演奏していた啓一と万里子である。
「お姉ちゃん、何描いてるの?」
万里子は、好奇心に満ちた様子で燐花のノートを見つめていた。
「この木を描いてるんです。まだ小さくて可愛いから、どうしても描きたいって思って」
「へえ、私たちにも、ちょっとだけ見せてくれる?」
燐花は描くのを止め、ノートを二人に手渡した。
「すご~い!こんな小さな木なのに、細かい部分までしっかり描けてるわね」
「はい、この木の事、何だかすごく愛おしくて。だから、細かいところまで、きちんと丁寧に描いてあげたいって思うんです」
「愛おしい、か……。そういう気持ち、わかるなあ」
「え、そうですか?すごく嬉しいかも。クラスの友達は、この気持ちをなかなか分かってくれなくて」
燐花は満面の笑みを浮かべると、再びケビンの方に視線を集中し、鉛筆を走らせ始めた。
万里子は腰をかがめると、ケビンの幹に手を触れ、微笑みながらそっと優しく撫でた。
「この木、この場所に来たばかりなのかな?これから、どうぞよろしくね」
ケビンは燐花に見つめられ続けて、相当緊張していたようだが、万里子に優しく撫でられるうちに、心なしかリラックスしてきたように感じた。
「ねえ啓一さん、以前ここに立ってたケヤキって、本当に撤去されちゃったんだね……」
「そうだよ、僕の目の前でね。その時僕は、レクイエム代わりに『大きなケヤキの樹の下で』を一人で演奏したよ。急に撤去が決まったから、学校の講義で忙しい万里子さんをわざわざここに呼ぶのは悪いと思ってね」
「そうなんだ…私、最後に一目、会いたかったな。そして、このCD、聴かせてあげたかったな」
「ああ、僕らのデビュー作としてリリースが決まったのにな。あともう少し早く決まれば良かったね」
万里子は、バッグから小型の正方形のプラスチックケースを取り出した。
ケースには、大きな木の写真の上に、筆文字で大きく『大きなケヤキの樹の下で』と書いてあった。
どうやら二人は、この曲を引っ提げて念願だったプロの音楽家としてデビューを果たしたようである。
二人をずっと見守ってきたおじさんが聞いたら、きっと大喜びしただろうな。
その時、燐花が絵を描き上げたようで、息を切らして万里子の元に駆け寄ると、そっとノートを手渡した。
「まだまだ下手なんですけど……何とか描き上げました」
「ふーん、どれどれ……」
万里子はしばらく目を凝らして絵を眺めていたが、時間が経過するうちに徐々に驚きの表情へと変っていった。
「すごい!まるで……スケッチブックの中にこのケヤキ君が生きてるみたい」
万里子は啓一にノートを手渡すと、啓一も目を大きく見開き、
「すげえ……」と、一言だけ呟いた。
僕も勝手ながら、二人の脇からそっとノートを覗いたが、幹全体だけでなく、枝や葉に至るまで、ケビンの姿そのものを見事に描き切っていた。
「お姉ちゃん、将来の夢は?」
「絵描きになりたいです。今も美術部に入って、毎日デッサンの練習してるんです」
「きっといい絵描きさんになれるわよ。がんばってね」
「ありがとうございます!私、あなた達に会えて良かった。自分の好きなことに、自信が持てた気がするから」
そう言って燐花は一礼すると、嬉しそうな顔を浮かべながら鞄を抱えて、公園を去っていった。
「嬉しそうだったね、あの子」
「ああ、あの子はきっと、自分の夢を叶えると思うよ。自分の気持ちにとても素直だからね」
そういうと、啓一はギターの弦を弾きながら、ネジを巻いて音を調律し始めた。
「僕たちもあの子に負けないよう、まだまだ夢を追い続けないとな。今日は久しぶりに二人揃ってこの場所にきたんだし、折角だからここで演奏しようか?」
「うん。そうそう、新入りのケヤキ君にも、私たちの曲を聞いてもらわなくちゃね」
二人はケビンの前に設置されたベンチに座わり、演奏を始めた。
ギターとピアノの音色に合わせて響く、万里子の澄み渡った声が、真っ赤な夕焼けに染まる空いっぱいに響き渡った。
『彼はいつも見守ってくれてる ぼくたちのことを
何も言わないけど 何もしないけれど……』
おじさん、今はどこにいるんですか?
どこか遠い空から、僕たちのことを見てくれていますか?
聞こえますか?『大きなケヤキの樹の下で』の歌と演奏が。
不安は尽きないけれど、僕はこの公園で元気に生きています。
おじさんの味わった苦しみも、多くの人達に支えられてきた喜びも、自分がそれを受ける立場になって、やっと分かったつもりです。
この場所に来たばかりの頃、都会の有名な公園に植えてもらえなくて愚痴ばかり言っていたけれど、今、僕はここに来て本当に良かったと思っています。
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