第169話 厳重注意
時は数時間遡り、講義の終わりを告げる鐘が鳴った頃、オーギュストは少し前に後にしたはずの学園長室に再び呼び出された。
部屋に入った瞬間、オーギュストは異変を感じた。
室内の空気が異常に重い。一歩踏み入れ、そこからもう一歩、足を進めることが出来ない。
つい数分前によく分からない少年に感じたものと同等、否、それを遥か上回る底の見えない魔力に全身を包まれる。
まるで、胸を切開され直接心臓を掌に収められたような感覚に襲われ、動悸が以上に激しくなる。
ヴォーダンは先ほどと変わらず口元に笑みを浮かべていたがその身に纏う雰囲気が全くといっていいほど違っていた。
オーギュストを見る視線が恐ろしく冷たいのだ。片目から放たれる眼光は全身を射抜き、全てを見透かしているようだった。
「…………シャトリエ君」
ぎこちない動きで何とか書斎机の前まで歩み出たオーギュストにヴォーダンは声を掛けた。
「は、は…………はい!」
ゆったりとした口調のヴォーダンと対象にオーギュストは口が強張って上手く返事が出来ない。
背筋が自然と真っ直ぐに伸び、身体が凍ったように動かない、一方で少しでも気を抜けば口の周りと顎の筋肉が痙攣して歯がカタカタと鳴りはじめそうだ。
「まあ、人は各々胸の内に抱えているものが在る……それは大概譲れぬものじゃ……が、それを御し切ることが多くの場を乗り切るには必要なこと…………分かるかね?」
学園長は眼を閉じて髭を撫でながら子供に諭すようにオーギュストに語り掛ける。
「は、はい!」
「うむ、君はまだ若い……しかし、君が就く職業は魔術師であり、そして、教育者でもある。思慮分別はただの魔術師とは違って必要なものじゃ…………それをよく考えて欲しい。いいかね?私も君には期待をしている…………今言ったことをよく反芻して頑張ってくれ」
「わ、分かりました!…………父祖に誓います!」
「うむうむ、それなら良い。では、今日はもう帰りたまえ」
「し、失礼いたします…………」
「うむ」
ヴォーダンが椅子をくるりと回して背を向けるのを見て、オーギュストは全身に汗を滲ませながら扉に手を掛けた。
重い扉を開けて部屋の外に出ると自分を止めに来た、講師が神妙な面持ちで立っていた。
確か名前はケルナーと言ったか。
自分の顔を見ると少し心配したような表情を浮かべた。
「…………気をつけて帰りなさい」
「……………………」
オーギュストは弱弱しくも恨めし気な視線を老講師に向けると、言葉もなくその場を後にした。
ケルナーはエレベーターの中に消えていった新任講師を見送ると丁寧に三回ノックをして扉に手を掛けた。
「失礼いたします、ロバート=ケルナーです」
「どうぞお入りください」
学園長の契約遺物であり侍女でもあるグングニルの澄んだ声を確認してから重い扉をゆっくりと開いた。
「お呼びでしょうか?学園長」
「うむ、よく来てくれた、ケルナー君」
「いえ」
そう言いながら椅子を回してこちらを向いた学園長の顔には珍しく微苦笑が浮かんでいた。
「君を呼んだのは他でもない、新しく赴任することになっているオーギュスト=ル=シャトリエのことじゃが…………」
ケルナーの脳裏には顔を真っ青にして去っていった青年の姿が思い浮かぶ。
「おっしゃりたいことは分かりました。彼はまだ若いですし、名門出とこれまでの経歴から中々プライドも高いようです……確か、来週から正式に着任と記憶しておりますので、よく見ておくようにします」
魔術科主任講師の淀みない言葉に学園長は髭を撫でながら満足そうに頷いた。
「流石、ケルナー君、よく分かっておるな……やはり、給料は上げた方がよいのではないか?のう?」
「はい。ご主人様のおっしゃる通り、ケルナー様は魔術師としてだけでなく教育者として優秀ですので、よろしいかと」
「そんな、滅相もない!私はこの学園で働かせていただいているだけで十分です…………若者の成長を見守るのが楽しみなだけの年寄ですので…………」
学園長だけでなく幾星霜存在している神話級遺物にまで褒められてしまったケルナーは両手を胸の前で振って慌てている。
「フォッフォッフォ……まあ、君より儂の方が歳はいっているがのう!フォッフォッフォ!」
「これは……なんとも失礼しました」
学園長は楽しそうに高笑いを上げた。少々機嫌を損ねていたようだが、いつもの好好爺然とした雰囲気にすっかり戻っている。
「それと、もう一つ、君には気をつけておいて欲しいことがある」
「…………なんでしょうか?」
「うむ、どうやら彼は伏見君との相性が非常に悪いようなのでな…………もしもがあっては敵わん。余り両者が近づかないように気を配っておいて欲しい」
学園長の言葉にケルナーは少し前の場面の記憶を呼び起こす。
確かにあのようにあからさまな殺気を放った双魔は初めて見た。
普段はよく言えば温和で過分な干渉は避ける。少し悪く言えば消極的で事なかれ主義の双魔があのようになるのだから、あの二人は引き合わせないのが最善だろう。
「分かりました……そのように配慮します」
重々しく首を縦に振ったケルナーを見て、学園長もまた頷いた。
「うむ、よろしく頼むぞ……さて、仕事の話はここまでじゃ。ケルナー君、この後時間はあるかね?」
学園長の口調が突如明るくなり、部屋の中の空気が一気に軽くなった。
「は?はあ……一時間ほど空いていますが…………」
「そうかそうか!それならば少し話に付き合ってくれ」
「ハハハ……学園長のお誘いなら断れませんな。それでは失礼して……」
ケルナーは苦笑を浮かべるとゆったりと来客用のソファーに腰を掛けた。学園長も席を立ってケルナーの前の席に移動してくる。
「そう言えばこの間孫が生まれたと聞いたが……どうじゃ?可愛いかね?」
「これはこれは、ご存知でしたか……ええ、勿論!娘に似た女の子で……」
紅茶のいい香りが部屋に漂いはじめる。
ヴォーダンとケルナーの談笑はしばらく続くのだった。
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