第3話 夢とロンドンの朝
夢を見ていた。まず初めに空が目に映った。いつもは海原と同じように真っ青な空が血をぶちまけたような真紅に染まっている。自分は仰向けに倒れているらしい。
次に自分の身体に意識を向けると熱を失っていくのを感じた。胸元は空の色と同じで真紅の鮮血が流れ出ている。どうやら自分はこのまま死ぬようだ。それにしては焦燥も恐怖も襲っては来ない。死とはこんなにも穏やかなものなのか、と不思議に思った。
時が経ち身体から命が抜け出ていくのは変わらないが、幾分か視野が広がる。自分の周りを何者かが取り囲んでいる。誰もが悲哀の表情を浮かべ声も発さない……いや、何か話してはいるが聞こえない。やけに静かだと思っていたが耳はすでに聞こえていなかったようだ。
晩春の若葉を思わせる緑髪の女性が自分の腹部に何か術を施してくれているが死の足音は穏やかに確かに聞こえなくなった耳に響いてくる。
緑髪の女性が俯いて首を横に振ると豊かな髭を蓄えた老人が一歩前に出て誰かに語り掛ける。眼も見えなくなっていているのか老人の顔はぼやけてよく見えない。老人は自分の隣にいる誰かに語り掛けているらしい。
隣の何者かの存在はずっと感じていた。深い悲しみに暮れているその思いを感じていた。自分の顔に零れている涙を感じていた。
「我を置いていかないで……お願い!」
すでに聞こえなくなった耳にも届いた少女の声。ほとんど見えなくなった目に確かに映った黄金の瞳と白銀の髪。
(ああ……どうか泣かないで………私のかわいい“―――”)
伝えることのできない言葉をどうにか紡ごうとする最中、意識は堰を切ったような闇の濁流に押し流され、沈んでいった。
冬のロンドン、七大国の一角であるグレート・ブリタニア=イングランド王国(通称“ブリタニア王国”)の首都は近年まれにみる寒さに見舞われ市内を流れるテムズ川は凍てつき、普段行き来している舟の影は見えない。
そんな川縁に建つ赤レンガ造りの古風なアパートの一室から湯気が上がっている。アパートの台
所にしては少し広いキッチンでブリタニアには不似合いな小袖姿に割烹着の美女が後ろで一本にまとめ上げた黒髪を忙しなく揺らしながらパタパタと朝食の準備に勤しんでいる。
「ご飯は炊けましたね、お味噌汁も大丈夫。卵焼きは坊ちゃまを起こしてからにしましょうか」
そう言って味噌汁の鍋にかけていた火を消してキッチンを出るとリビングの電話が鳴り響く。掛け時計を見ると長針は七時ぴったりを指している。見計らったようなタイミングだ。
美女はまたもやパタパタと足音をたてて電話に向かう。
「はい、こちら伏見宅ですが………はい……はい、かしこまりました。主にはそのように伝えておきますので……はい、それでは失礼いたします」
受話器を置くとそのまま階段を上がり家主の書斎兼自室のドアをノックする。
「坊ちゃま、失礼いたします」
部屋に入るとベッドの上で蓑虫になっている家主を優しく揺さぶる。
「お目覚めのお時間です。起きてください」
声を掛けると蓑虫がもぞもぞと動く、しかし中身は出てこない。代わりに
「……あと五分」
などとある種お決まりの返事が返ってくる。
「左文も寝かせておいて差し上げたいのですが本日は学園がありますのでそのようにも行きません……あまり左文を困らせないで下さい」
美女、左文と名乗った女が整った柳眉を曲げた表情を見てか、それとも見なかったのかそれは本人にしか分からないが、仕方なさそうに蓑虫の中身は出てくる。
「………おはよう」
布団から這い出てきたのは黒髪と銀髪が入り混じった緩い癖っ毛の端正な顔をした少年だ。なお、顔色は血の気がなく病人のように白い。まだ眠そうに細く開かれた瞼からは青い瞳が覗いている。
「おはようございます、坊ちゃま。今日のお加減はいかがでしょうか?」
「ん……なんとか、学園には行けそうだ」
ボソボソ呟くと気怠げにベッドから立ち上がると右のこめかみを親指でグリグリと刺激する。
「俺ももう十七だぞ?そろそろ坊ちゃまはキツいんだがな」
「何をおっしゃいますか!坊ちゃまはいつまでも左文のかわいい双魔坊ちゃまなんですから」
なぜか得意げに胸を張った左文を見て何とも言えない顔でぼりぼりと頭を掻く少年、双魔は「……はぁ」とため息を一つ。
「とりあえず着替えるから下で待っててくれ」
「かしこまりました、洗濯物はそのままで構いませんよ」
「ん、わかったから」
「それでは失礼いたしました」
左文が部屋を出たのを確かめてから双魔は寝間着を脱いできっちりとたたまれて置かれていたシャツに腕を通す。次に黒のスラックスを履き、ベルトを締める。最後にタイを適当に締めて着替えは完了。昨日の内に用意しておいた鞄と洗濯物をもってフラフラと部屋を出る。洗濯物はそのままで構わないと言われたがそれくらいは自分でやらなくてはと思い持って行った。
洗面所の洗濯カゴに洗濯物を放り込んでから顔を洗って髪を整える。母の北欧の血を引き継いだ銀髪の部分の癖っ毛が緩い癖に頑固で中々思う通りにならないので諦めて櫛を置いた。
それからリビングの食卓に向かう。椅子を引いて新聞を手に取る。一面にはIMFのオブザーバー枠にロシア皇国が正式に加入したことや世界中の魔導学園でカリキュラム改正がされること、神秘至上主義団体の過激派が起こしたテロのことについてが書いてある。
次のページを捲ろうとすると左文が朝食を運んできたので新聞を置く。急須で入れた緑茶が入った湯呑を受け取って一啜り。
「いただきます」
「はい、どうぞ召し上がってください」
いつも通りにまずは味噌汁をゆっくりと口に流し込む。豊かな出汁の風味と温かさがじんわりと体中に広がっていく。
「……はぁ」
「今日はいつにもましてお顔の色が優れないようですが何ありましたか?大丈夫でしょうか?起こしておいてなんですがやはりお休みになりますか?」
心配そうに見つめてくる左文。いつもの心配性が出たらしい。
「いや、大丈夫だ。変わったことと言えばはっきり覚えていないけど珍しく夢を見た気がする」
「どのような夢でしょうか?」
「んー……赤い空と………泣いている女の子?駄目だな、よく思い出せない。まあ、さっき言ったように学園には行けるから」
「左様でございますか……どうか無理はなさいませんように」
「分かってるよ」
それっきり会話が途切れる。黙々と朝食を食べる。ニコニコとこちらを見ている左文の視線がこそばゆいが無視して食べ続ける。
食べ終わり少しぬるくなったお茶を飲んでいると玄関のチャイムが鳴った。
「あら、オーエンさまがお迎えにいらっしゃったようですね」
「そうだな、じゃあ、行ってくる。ごちそうさまでした」
学園指定の紺地に金糸の刺繍の入ったローブを羽織り玄関に向かう。パタパタと左文が見送りについてくる。
「あ、坊ちゃま。明日、魔術科の授業に入ってほしいという旨のお電話をいただきましたのでご帰宅の前に事務課に寄ってくださいね」
「ん、分かった」
愛用のウエストポーチを着けながら返事をする。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
左文ににこやかに見送られて玄関を出た。
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