第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(後編・その3)



「えーっと、何でしょうか?」


 割り振られた二年生部屋に着く前に、カレンさんは足を止めた。ちらっと周囲を見渡し、そして目線をまっすぐ私に向ける。


「まず、あそこで観た物の検討……かな。私は無駄に知識こそあっても、ああいった異常死体の臨床はサッパリだし、大子たちはその逆。摺り合わせる上で、巴の意見も聞きたいの」


 いやあの。私、そのどっちも無いじゃないですか。ていうか、お部屋でなく廊下で立ち話……?


「保全済みってことはすぐ気付けたよね。問題は、そのレベルなんだよ」


 綺麗に保たれていたことはわかる。扱いも丁重。でも、ただそれだけじゃないとすると……?


「殺菌、除菌は確実でしょうけど……いわゆるホルマリン臭は、しませんでしたよね」

「そこなんだよ。現状、ホルムアルデヒドを使わない遺体衛生エンバー保全ミングは考えられないんだ。まあ、業者の場合はね」

「業者に発注ってわけないですもんね、さすがに。……あと、確かホルマリンって劇毒物じゃなかったですか? シックハウス症候群の原因物質だったり、あと発癌性とか」


 中一の私の化学知識でも理解できる、ホルムアルデヒド水溶液……通称ホルマリン。理科室の標本でお馴染みの、防腐に優れた劇毒物で、確か死体の保全にも使われている。

 医薬用外劇物だから、購入には身分証や印鑑も必要だし、研究や教育機関じゃないと、そう簡単に手に入れられる物じゃないとも思う。


「まあ焼却する分には問題ないんだけどね、焼けば無毒化するし。どっちにしろエンバに使うのはリン酸 緩衝バッファーで中性化した希釈物だろうし」

「つまり今回、ホルマリン……に限らずですけど、業者の扱うような処方は使われていない、という判断でしょうか。安定二酸化塩素の薬剤の入手方法は……」

「ああ、そっちはむしろ簡単。簡単ゆえに、まあ濃度にもよるけど……ドラッグストアでも買えるし特定のしようもないかな。総合して考えるに、特殊な試薬は使われていないっていうか、使えなかったんじゃないかって思うけど……推定が難しい状況なのも確かだと思うよ」

「防腐の殺菌、乾燥、それにクーラーで低温にも保っていたと思いますけど……正直、それだけでミイラ化は、普通ならちょっと考え難いですよね」

「何を根拠に『普通』といえるのか、って話も、まあこんなケースじゃ臨床のデータが圧倒的に足りないんだよ。ただの偶然で綺麗にミイラになっちゃったケースだってこの世には何件も存在するし、同様の条件下で腐乱したケースだってその何十何百倍も存在する。だからこそ、あり得るか、あり得ないか。そこは、ぶっちゃけ何ともいえない」


 ……う~ん。カレンさんがわからないとなると、私だってお手上げだ。


「推定しようにも、もうお婆さんのご遺体には、何の手出しもできませんしね……」

「目視以外の検討、できなかったもんなァ。まあ、後は科警に任せるしかないとして」


 ……そこも。

 う~ん、どうなるんだろう……。


「焼却といえば……結局お婆さんのご遺体、あの後どうなっちゃうんでしょう。やっぱり火葬でしょうか。ミイラを焼くってのも、おかしな話ですけど。……いえ、ミイラ化で放置されたままにしておくわけにもいかないとして」

「現行法じゃ、普通はそうなっちゃうだろうなぁ。カタコンペにそのまま置く、なんてやり方はさすがに日本ではあり得ないだろうし」

「気候風土的にも無理でしょうねえ……」

「でもまあ、お婆さんの状態を見ちゃった我々からしてみれば、そのままイケそうにも思えるんだけどね。綺麗だし丁寧だったし。とはいえ……結局ナニ葬になるの? ミイラの安置って」

「さー?」


 ひょいっと背後から双子が会話に入る。


「土中入定なら土葬に入るんじゃないかしら?」

「でも、三年三月の後に掘り出しちゃうわよ?」


 えーとー。

 いや大子さん福子さん、即身成仏じゃないんですから……。

 ――ん?


「ん~……土葬ってなると、日本国内じゃハードル高いよなぁ。墓埋法で土葬を禁止してるのは主要都市三箇所くらいだけど、事実上どこもほぼ禁止みたいなモンだし」

「うちのお寺にも時々相談あるわよね、さすがに無理だけど」

「お父様もおっしゃってたけど、一応は国内でも土葬を可能にする施設や自治体、土葬許可証のための任意団体もあるそうだけど、だいたいは宗教上の必要性とかの特殊な事情がある方のためで、ごく限られた物でしかないものね」


 ああ、ムスリムの人とかだと火葬は禁止か。私にはさすがに、そんな墓埋法だの施設だのまでは知識が無いから、こういうヘンなことに詳しい先輩たちは少しありがたい。とはいえ、今重要なのはそこじゃなくて。そもそも、お婆さん土に埋まってたわけでもないんだし。


「……ええっと。カレンさん、ご遺体の状況に、腕と腿以外には何か不審な痕跡って、ありませんでしたか?」

「ん? ……衣類全部脱がせて調べたわけじゃないから、そこは何ともいえないけど」

「腿は衣類をはだけさせて見たんですね。それは……」

「はは、よく気付くな。うん、頸動脈、右鎖骨上部に少切開の痕跡が無かったから、って思って」

「つまり、痕跡の確認、ですね」


 双子姉妹もさすがに少しひるむ。


「血って……」

「血って……」


 永久死体化の基本処理といえばだろうし。


「うん。やっぱあのは、おかしいと思ってね」


 腐敗――微生物の餌となるに十分な、鉄分と脂と血漿タンパクの高濃度の液体で、全身に張り巡らされている「悪臭の源」ですもんねぇ、血というのは。

 カレンさんの述べた通り、遺体が偶然で綺麗にミイラ化するケースだって、なくはない。でも、偶然でないなら? 最初からそうなるよう「処理」していたなら、俄然、ミイラ化のハードルも低くはなる。ただ、その痕跡も確認できなかったのではお手上げだ。


「血と……あと、脳ね。腐敗し易さっていえばさ。本来大腸菌の温床でもある消化器内でも、絶食でもして中がカラッポになってたらまだ抑えは効くかもだけど、頭部の腐敗だけはどうにもなんない。頭蓋骨でほぼ密閉はされていても、そもそも複数枚の板で構成されてるんだ。弛緩も、死後には緩むわけだしさ」

「エジプトのミイラみたいに針金で鼻からカキ出しちゃうのが正解でしょうか」


 そ、それはちょっと……とばかりに、私の言葉に大子さんが顔をしかめる。


「正解、って言い方もどうなのかなぁ?」

「うん、最適解っていうべきだね」

「だからカレンもちょっとおかしいのよ、それ」


 倫理(?)的な面で、私とカレンさんが宝堂姉妹とはちょっとズレてるのも、色々仕方ない所はあるかもしれない。バチ当たりと自称しながらも、姉妹は仏教に根付いた道徳観を幼少の頃から身につけているのだから。


「ん~……おかしいかどうかは永遠の水掛け論になるから、そこは置いとこうか」


 まあ、この場では二対ニですもんね……。

 コホンと咳払いし、カレンさんはここまでの考えをまとめるように切り出す。


「ともあれ、乾燥し易いご老人で、かつあの環境なら、脳の腐敗より先にミイラ化が完了できた、と判断するのが正しいかな。腐敗臭は殆ど漏れ出していなかったし。そこが故意か事故か、自然にか人為的にかってなると……」

「カレンさんの検分では、どうなんでしょうか。私にはサッパリですし……」

「結論からいえば私も『サッパリわかんない』ってのが現状かな? 成分分析でもしなきゃ、何ともいえない。傷でも残ってりゃまだしも、部分的に腐敗してたから目視で断定ができないんだよ」

「……つまり、乾燥し易い環境でありながら、腕と腿の一部だけはしていたわけですね?」

「……あ!?」


 ハっと気付いたかのようなカレンさんに対し、ん~、と双子は考え込む。




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