第9話 表記の選択(文章全体) ネコチャンとリア充
その日の午後3時、気がつくと当たり前のような顔をして、オジサンが我が家に上がり込んでいた。
「勝手に入ってくるのはやめてくださいと言ったでしょうが」
「これは失礼しました。しかし、ネコチャンにお許しをいただいたもので……」
「私がこの家の主人ですから」
ネコチャンがもふもふの胸を張って主張した。
「いや、世間的には私がこの家の世帯主です」
「しかし主人は私です」
ネコチャンはあくまで、自分の方が偉いと譲らない。
「これはつまらないものですが」
オジサンは私に何か紙袋を渡してきた。なんと、ひとつ600円の水羊羹ではないか。
「まったくもう、お土産を渡せばいいというものではありません! 緑茶でいいですか?」
「恐縮です」
私はオジサンと自分のために緑茶を淹れた。元より、ネコチャンは水羊羹に興味がない。
「今日はネコチャンに会いに来たんですか?」
私はオジサンにお茶と水羊羹を出しながら尋ねた。
「いえ、先日、ウェブ小説の表記について話し合ったでしょう。名詞は平仮名がいいか、片仮名がいいか……という話です」
「それが何か?」
オジサンは一口緑茶をすすってから続けた。
「いえ、名詞だけでなく文章全体について、平仮名を多めにしたり、漢字を多めにしたりすることで、ある程度印象を変えることができると思いまして」
「そうでふね」ネコチャンが前肢を舐めながらモゴモゴと言った。「では下僕よ、どうやって検証してみましょうか?」
シリーズも9話になれば、こんなときの我々のやり方は大体決まっている。
「とりあえず例文を作って、それを調整してみるのはどうでしょう?」
「よろしい。ではやってみなさい」
ネコチャンがやたらと上から目線で言った。
===例文===
(あのおばさんはどこに行くんだろう)
晴菜は、見覚えのない中年女性が小走りに駆けていくのを、ベンチに座ってぼんやりと見送った。
もう春なのに、やたらと寒い日だった。ベンチはひんやりと冷たかった。
「ここにいたんだ。あっちかと思った」
桜の木の向こうから、恵太がやってきた。
「待った? ごめんね」
「ううん。大丈夫」
「そうだ。これ、来る途中で見つけたんだ」
そう言って彼は、摘み取った一輪の菫の花
を晴菜に差し出した。
「それ、紫色がきれいだと思って」
「ありがとう。でも紫色じゃなくて、菫色っていうんじゃない? 菫なんだから」
そう言ってしまってから、晴菜ははっとして口を抑えた。
「ごめんね、いつも水を差すようなことばっかり言って」
「ううん。僕はあなたのそういうところ、好きだな」
恵太はそう言って、にっこりと微笑んだ。
ふたりは手をつないで、春の小道を歩いて行った。
======
「ギニャア!」
私は奇声をあげながら床に倒れた。
「この例文は誰が作ったのですか?」
「私です」
オジサンが挙手した。
「だろうと思いました。下僕はこの……何と言いますかこの、キラキラ感? リア充? これにアレルギーがあるのです。哀れな生き物なのです」
「そうでしたか……心中お察しいたします」
そうは言ったものの、二人は例文を取り下げるつもりはさらさらないようだった。私はしばらく、床の上で痙攣した。
===平仮名多め===
(あのおばさんはどこに行くんだろう)
はるなは、見覚えのない中年女性が小走りに駆けていくのを、ベンチに座ってぼんやりと見送った。
もう春なのに、やたらと寒い日だった。ベンチはひんやりと冷たかった。
「ここにいたんだ。あっちかと思った」
桜の木の向こうから、恵太がやってきた。
「待った? ごめんね」
「ううん。だいじょうぶ」
「そうだ。これ、来る途中でみつけたんだ」
そう言って彼は、つみとった一輪のすみれの花をはるなに差し出した。
「それ、むらさき色がきれいだと思って」
「ありがとう。でもむらさき色じゃなくて、すみれ色っていうんじゃない? すみれなんだから」
そう言ってしまってから、はるなははっとして口を抑えた。
「ごめんね、いつも水を差すようなことばっかり言って」
「ううん。ぼくはあなたのそういうところ、好きだな」
恵太はそう言って、にっこりとほほえんだ。
ふたりは手をつないで、春の小道を歩いていった。
======
「ギニャアァァ」
「こいつは床に転がしておきましょう」
まだ痙攣している私を見て、ネコチャンが吐き捨てるように言った。
「オジサン、人物名が女性だけ平仮名なのはなぜですか?」
「初めはどちらも平仮名にしてみたのですが、男性名を平仮名で書くと、何となく小学生以下の男の子みたいに思えてしまうのです」
「なるほど。女性名はともかく、平仮名表記の男性名は、なかなか見かけませんからね」
「まったくいないとは限りませんが、私も会ったことはありません。ペンネームくらいでしょうか? いがらしみきおとか」
「平仮名だと、ホワホワした感じになりますね。暖かい雰囲気です。さてオジサン、次は片仮名の方をやってみましょうか」
===片仮名多め===
(あのオバサンはどこに行くんだろう)
ハルナは、見覚えのない中年女性が小走りに駆けていくのを、ベンチに座ってボンヤリと見送った。
もう春なのに、やたらと寒い日だった。ベンチはひんやりと冷たかった。
「ココにいたんだ。アッチかと思った」
桜の木の向こうから、ケイタがやってきた。
「待った? ゴメンね」
「ううん。ダイジョブ」
「そうだ。これ、来る途中で見つけたんだ」
そう言って彼は、摘み取った一輪のスミレの花をハルナに差し出した。
「それ、ムラサキ色がキレイだと思って」
「ありがとう。でもムラサキ色じゃなくて、スミレ色っていうんじゃない? スミレなんだから」
そう言ってしまってから、ハルナははっとして口を抑えた。
「ゴメンね、いつも水を差すようなことばっかり言って」
「ううん。ボクはアナタのそういうところ、好きだな」
ケイタはそう言って、ニッコリと微笑んだ。
ふたりは手をつないで、春の小道を歩いて行った。
======
「なんというか……ライトな感じになりますね」
ネコチャンは伸びをしながら言った。私もさすがに慣れてきたので、ゆっくり起き上がることにした。
「今度は男性も女性も、名前が片仮名表記ですね」
「そうなんです。片仮名だと何と言いますか、仮名、という感じがしますね。こちらは男性女性、どちらにも適用させました」
「あー、相手の名前の漢字がわからないときに、とりあえず片仮名で書いておくみたいな雰囲気ですね」
「そういえば、『限りなく透明に近いブルー』がこんな感じですね。登場人物の名前が皆片仮名です」
オジサンはしんみりと言った。
「懐かしいなぁ。高校生のときに読みましたよ。ちょうどあの頃、私は初めて妻に出会ったのです……」
「オジサン、奥さんいたんですか」
私は今更ながら驚いた。そういえばオジサンの個人情報について、私たちは何も知らないではないか。
「オジサンにはご家庭があるのに、この家に入り浸っていていいのですか?」
ネコチャンの言葉に、オジサンは「さ、さぁ、漢字多めも見てみましょう」と返して、強引に話題を変えた。
===漢字多め===
(あの小母さんは何処に行くんだろう)
晴菜は、見覚えの無い中年女性が小走りに駆けて行くのを、ベンチに座って茫然と見送った。
もう春なのに、矢鱈と寒い日だった。ベンチはひんやりと冷たかった。
「此処にいたんだ。彼方かと思った」
桜の木の向こうから、恵太がやって来た。
「待った? 御免ね」
「ううん。大丈夫」
「そうだ。此れ、来る途中で見つけたんだ」
そう言って彼は、摘み取った一輪の菫の花
を晴菜に差し出した。
「其れ、紫色が綺麗だと思って」
「有難う。でも紫色じゃなくて、菫色っていうんじゃない? 菫なんだから」
そう言ってしまってから、晴菜ははっとして口を抑えた。
「御免ね、何時も水を差すような事許り言って」
「ううん。僕は貴女のそう云う所、好きだな」
恵太はそう言って、莞爾と微笑んだ。
二人は手を繋いで、春の小道を歩いて行った。
======
「……重いですね。『にっこり』とか読めませんし」
私がそう言うと、オジサンも頷いた。
「おまけに内容が軽いので、無理に重々しくした感が否めませんね。漢字多めは人を選ぶと思います」
「これだと、無理して頭がいいふりをしてるみたいに見えますよ。私は一番初めのものが好きですね」
ネコチャンが毛繕いをしながら言うと、オジサンは全力で肯定した。
「わかります。偏ってないやつですね。よくわかります」
ネコチャンはその様子を見ながら、
「とはいえ、この辺は書く人次第です。漢字多めの文章も、きちんと書けば格好よく、味わいも深いものになるでしょう。好きなバランスで書けばいいのです」
と、突然ハシゴを外すようなことを言って丸くなった。
「成る程、ネコチャンの仰る通り、矢張此れは個人が選択すべき問題ですね」
「オジサン……やっぱり突然の漢字多めは、無理してる感が漂ってますよ」
私に続いて、ネコチャンが追い討ちをかけた。
「オジサンは、ご家庭ではそんな感じなのですか?」
「いやそんな! ワッハッハッハッハ!」
オジサンはわざとらしく笑いだし、私はネコチャンの口をそっとふさいだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます