第13話 レナーテ

 まっすぐ歩くのも覚束ないほどに、密集した人、人、人。

 名物朝のラッシュの経験ができなかったのは良かったのか悪かったのか。前世でも見たことがないほどの人の多さに、私は圧倒されていた。

 朝の市場の賑わいは、目が回るほど。ヒルデさんによると、それでも混雑のピークは過ぎているのだそうで、どれほどの人がこのグラナートの都に住んでいるのかと驚いてしまった。


「こっちよ、はぐれないでね」


 あまりの人混みに馬車では入れず、私たちは市場通りの手前で降り、徒歩でミルヴェーデン家を目指した。

 馬車ではよく分からなかったけれど、ミルヴェーデン家は中央市場からさほど離れてはいなかった。だからあの公園でシャルに出会えたのだ。

 そしてちょうどその市場横の公園にさしかかったところで、私は見覚えのある後ろ姿に気づいた。

 赤く燃えるような髪の、長身の女性……


「ヒルデさん、あれってイリーナさんじゃありませんか?」

「……あらそうね、行ってみましょうか」


 私たちが公園の入り口をすぎると、イリーナさんが一人ではないことに気づく。

 イリーナさんと向き合っているのは、同じくらいの年頃の娘さん。どうやらご学友のようで、制服に身を包んででいた。サックスブルーに紺色のラインが入ったジャケットに、揃いのプリーツスカート。それから胸元に飾られた白いリボンがとても可愛らしい。

 私とヒルデさんが近づいても、後ろを向いたままのイリーナさんは気づかない。しかし同時に、制服少女のまくしたてるような声が、私たちの耳に届いた。

 

「正義感ぶらないでよ! イリーナはいいわよね、誰も彼もあなたの言うことは信じるし、なんでも聞いてもらえるもの。だからって、人を勝手に病人扱いしないで。……特別だからって、のぼせ上ってるの?」

「私たちのどこに違いがあるっていうの……どうしたのレナーテ、あなたらしくない。辛いなら救護室へ……」

「とぼけないで、私とあなたが一緒? 嘘ばっかり! 私に内緒にしてたって知ってるんだから。騎士団への道が開いたんでしょう?」

「それは……話を伺っただけでまだ」

「やっぱり! 裏切者!」

「レナーテ? まって、なにを……やっぱり魔力酔いが続いてるんだろう? あの苦しみは正気を失わせるんだ」


 レナーテという女性は、激高した。


「うるさい! 私はずっと正気よ! そうよ、ずっとあなたの友人面して醜い嫉妬にかられてたの、これが私なの」

「そんなことない、レナーテは……そうだ、これを持って」


 イリーナさんが強引に、友人の手に何かを握らせていた。

 だけどその娘は驚いたように悲鳴を上げ、それをイリーナさんに投げつけたのだった。


「やめて、私は違う! これは私の実力、もう奪われない」

「レナーテ、ダメだ。今、世界はおかしくなってるんだ、何かが狂ってる。だからこれを持って身を守らなくちゃ、お願い」

「違う、私は……」


 みるみる顔色が土気色になる、レナーテと呼ばれた少女。それでもなにかに抵抗するかのように首を振り続け、終いにはうずくまってしまった。

 そのただならぬ雰囲気に、私とヒルデさんは慌てて手を貸すことに決めた。


「あなた、大丈夫?」


 跪く少女に手をかけたヒルデさんが、何かを感じ取ったのだろうか。慌ててイリーナさんを仰ぎ見ます。


「イリーナ様、緊急事態です。エリザベート様をお呼びになってください」

「それが……母さまは今日は騎士団へ行っていて」


 狼狽するイリーナさんに、ヒルデさんは畳み掛けた。


「では騎士団のどなたかに連絡を。このままではまずいですよ、魔力酔いによる暴走が始まります」

「わかった、レナーテを頼む。ヒルデも気をつけて!」


 青ざめながらも、イリーナさんは踵を返して走っていく。

 たしか、市場の通りの一角に、騎士団の詰め所があったはず。

 ふと彼女が走り去った場所に、一枚の布切れが落ちているのに目が行く。なんだろうと拾ってみると、それは私がイリーナさんに渡した刺繍の試作品だった。


「どうしてこれが?」


 疑問に思うが、状況はそれどころではなかった。

 ヒルデさんが介抱していた娘さんは、急に苦しげな呼吸を繰り返したかと思えば、ついに意識を失ってしまったのだ。


「ああ、大変。早くしないと」

「大丈夫ですか、いったいどうして」


 私とヒルデさんは周囲に助けを求め、ずっしりと力を失った少女をなんとか数人がかりでベンチまで運んだ。

 騎士団ではなく、医師を呼んだほうがいいのでは。そんな疑問はヒルデさんの言葉で吹き飛んでしまった。


「ちょっと手伝ってくれるかしら、どこかに隠し持ってると思うのよ、それを探して剥がさないと大変なことになるわ」

「剥がすって何をですか?」

「魔力を集める護符を持っているはずよ、それも私たちが使うものと反対に、とても質の悪いものなの。子供達の間に、定期的に流行るんだけど、さすがに魔素が溢れている今は、時期が悪すぎる」


 まさかそのような効果がある護符があるだなんて、思ってもみなかった。


「それは、どんな形をしているんですか?」

「一般的なのは螺旋の形をしているのだけれど、色々あって……とにかく怪しいものがあったら教えて」


 私とヒルデさんとで、倒れた彼女の服を調べ始める。

 だけど、目につくところには何もない。意識がないのをいいことに、ヒルデさんが大胆にもジャケットのボタンを外す。内側をめくり、そこにも見知らぬ護符がないかとのぞいたり、手探りで探してみるものの……


「ダメだわ、ない。そんなはずはないのに……まさか」


 ヒルデさんに焦りが見える。

 少女のブラウスのボタンをはずし始めたのを見て、私は慌てて鞄の中から大きな布を取りだし、周囲の目から少女を隠す。


「どうするんですか、ヒルデさん」

「……や、やめて」


 完全に起きたわけではないようだったが、少女はヒルデさんが釦にかけた手を払いのけた。

 それでも弱々しい抵抗でしかなく、二つほど釦をはだけたその襟元を広げた。白い肌が現れるだけだったが、ヒルデさんがふいに彼女をうつ伏せにさせた。そしてその隙間からうなじの下あたりを見て、眉をひそめる。


「……最悪、どうしてこんな馬鹿なことを!」

「どうしたんです、なにが……?」


 思わず顔を背けたヒルデさんのかわりに彼女の背中を覗き見れば、白い肌に刻まれた螺旋が見えた。

 てっきり、装飾品に施されたものばかりを考えていた。

 だけどこれは、どう見ても入れ墨で……


「いや……触らないで」


 土気色の少女が、抵抗を始めた。

 細い右手が上がり、指が規則的ななにかしらの絵を描く。するとヒルデさんが私の手を引いて少女から引き離した。


「やめてレナーテ!」


 遠くからイリーナさんの悲鳴。

 それから敷き詰められた石が、カチカチと音を鳴らしながら揺れはじめた。

 何が起きてるのか、私にはさっぱり分からなかった。公園の石畳がぼこぼこと浮き上がり、人々の足元をおぼつかなくさせていて、あちこちで悲鳴が上がる。

 目の前のレナーテという少女は、相変わらず体を横たえたまま、右手だけを上げて何かを空に刻み付け続けている。その目は血走り、どこか焦点があっていない。そう、まるであの時のベリエスさんのように……


「危ないからリズはこっちへ」


 大きな手が私とヒルデさんの肩を引き寄せた。

 振り向けば、そこにいたのはラルフ。表情を引き締めて、視線はまっすぐ少女へと向けられている。

 その横を、イリーナさんとラルフの同僚、レオナルさんが走り抜けた。


「ラルフ、あの娘きっとベリエスさんと同じように、正気を失ってるだけなの……」

「分かっている。今から騎士団で対処する、避難していろ」


 ヒルデさんとともに遠くへ押しやられるようにして、その場を離れた。

 だけどイリーナさんは友人の手を握り、空を描くのを阻止しようとしている。危なくはないのだろうか。

 同じように側にいたレオナルさんが、魔法を使うようだ。周囲の波打つ地面に何かを撒いて歩き、呪文らしきものを呟きながら手を一振り。すると地面から植物のようなものが生えてきて、何が起こるのかと思えば、浮き上がりうごめく地面が静かになり、もとの石畳として整然と収まっていくではないか。

 驚いていると、ヒルデさんが。


「レオナル様はレナーテの力を打ち消せる相性なのよ、弱まれば彼女の魔法の性質からそう危ないものでもないでしょうし」

「相性?」

「そう、彼女は大地の力を使うようだから、ラルフェルト様だと火なので助長させてしまうの。ほら、レオナル様が簡単に封じ込めてしまったわ」


 見れば、ベリエスさんにしたのと同じように、ラルフが少女に近づき、護符のついた手錠をはめた。

 しばらくすると抵抗していた少女は、くったりと力を失ってしまう。


「でも問題はあの入れ墨ね……あれがあるかぎり、すぐにでもまた暴走するかもしれないもの」

「そんな……あ、そういえばこれ」


 私は握りしめていた、刺繍の護符をヒルデさんに差し出した。


「イリーナさんは彼女の事情を知って、これを渡そうとしてたのかもしれません」

「その場しのぎだけど、使えるかもしれないわね、行きましょうリズ」

 

 集まってきた他の警備兵たちをかきわけ、私がイリーナさんのもとに行き着くと、彼女は倒れた友人に寄り添ったまましゃがみこんでいた。

 私たちに気づき振り向いた顔に涙は見えなかったけれど、不安に瞳が揺れて唇をきつく結んでいる。

 ラルフもまた私に気づき、近寄るのを制止する。


「まだ危ないから近づくな、リズ」

「お願い、これを彼女に渡してラルフ」


 私の刺繍で効果があるかわからないけれど、無いよりはましだと考えたからイリーナさんは持ってきたのだと思う。なにより、そんな友人を想うイリーナさんが、心配だった。

 ヒルデさんも味方してくれた。


「ラルフェルト様、彼女の背中のものを見られました? あれは放置しておいたら危険です、当面はひとつでも多く護符が必要でしょう」

「……他にもあるか?」

「もちろん。リズ、鞄にある護符の見本、飾り紐、ありとあらゆるもの全部出してちょうだい。選別してもらいましょう」

「はい!」


 私は持っていた私の護符をイリーナさんの手に強引に握らせ、それから慌てて持っていた鞄を取りに走る。

 そして戻ってきて鞄を漁る頃には、私の刺した護符が、意識のないレナーテさんの手に握らされていた。

 私にできることはあまりない。

 どうしてイリーナさんの友人が、アバタールのように混乱してしまったのか。それに背中に彫られたものについても分からないまま……

 護符を騎士団の人たちに選別してもらい、有効そうなものをありったけ渡して、レナーテさんに握らせてもらった。

 そうして一人取り残されていた私のもとへ、ヒルデさんがイリーナさんを伴ってやってきた。私は憔悴しきったイリーナさんに、自分の座っていたベンチを譲る。

 イリーナさんは下を向いたまま、ぽつりと言葉を落とした。


「親友だった」


 隣に寄り添ったヒルデさんが、彼女の背中をそっとさする。


「だけど私が騎士団へ入る内定をもらった頃から、おかしくなってきて……どうしたらいいのか分からなくて、もっと、私が早く気づいてあげれたら。こんなに追い詰めてたなんて……こんなになるまで気づかなくて」

「いつまでも同じ関係が続いたら、良かったのにね」


 ヒルデさんの言葉は、イリーナさんの気持ちを代弁したものかもしれない。

 イリーナさんの顔が、哀しく歪んだ。


「憎い、レナーテが傷ついていたことに気づかない自分が。狂ったように溢れた魔力が、リントヴルムが憎い」


 …………イリーナさんの口から出た名が、何なのか。あまりにも唐突だったせいか、私には一瞬、理解できなかった。

 そこに大きな影が差す。


「甘ったれるなイリーナ」


 険しい顔をしたラルフが、イリーナさんを見下ろしていた。そして泣きはらした顔を上げたイリーナさんに、彼はとんでもないことを言い出した。


「己のせいだと言うのなら、俺が罰をくれてやる。イリーナ・ミルヴェーデン、レナーテ・レハールの背にある違法護符の抹消を命じる。おまえの手で、彼女の背にある印を焼き消せ」


 な……焼き消す?

 いくら背中とはいえ、若い女性の肌を……親友のイリーナさんが?

 言い渡されたイリーナさんも、目を見開いてラルフを見上げている。

 酷い。どうしてそんな酷いことをイリーナさんにさせるの。

 思わず浮き足だった私を、ヒルデさんが止めた。私を見て邪魔してはいけないと、首を横に振ってみせる。どうして?


「それができないなら、永遠におまえにレナーテは救えない。おまえがやらないなら、他の誰かがやる。それでいいのか?」


 そう問うラルフは、とても非情に見えた。

 だけど、昨日のラルフの言葉を思い出し、私は文句を言いたいのを堪える。

 ──魔法騎士団にふさわしい魔法使いであろうとする気概。それをラルフは今、彼女に求めているというのだろうか。親友が潰れてしまいそうな、この状況であえて……?


 そしてラルフを黙って見つめていたイリーナさんは、答えを絞り出したのだった。


「やります。私が、レナーテを救う」

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