1-16 『百合の面影』①


「いやだからね、わたしは悪魔で、夕貴はわたしのご主人様なのよ」


 うららかな朝の日差しが差し込むリビングで、ナベリウスはもう何度言ったのかもわからない事実を口にする。優雅にコーヒーカップを傾ける姿は、さながら深窓の佳人を思わせる気品を漂わせており、いかにも怪しい台詞に妙な真実味を帯びさせている。


 しかしながら、差し向かいに座っている少年の顔は見るからにげんなりとしている。


「……まあ百歩譲って、おまえが悪魔なのは認めてやるとしてだ」


 ちょっと不満そうに唇を尖らせる少年のかんばせは、そんな仕草でさえも彼の母親にそっくりだった。懐かしい面影を感じて、ナベリウスは思わず笑ってしまいそうになったが、余計に話がややこしくなりそうなので我慢した。


 萩原夕貴。彼と彼女の血を引いた少年。まだ幾分、年相応の幼さを残した顔立ちは母に似て美しく整っているが、こうと決めたら決して揺らぐことのない意志の強さは間違いなく父親譲りだった。


 あの夜、最後まで諦めることなく、一人の少女に手を差し伸べ続けたように。


 隠していることをぜんぶ話せ。全てが終わったあと、夕貴が最初に願ったのがそれだった。ナベリウスとしてはそもそも隠している認識はなく、ただ個人的なタイミングを見計らっていただけなので、あまり言うことは変わらない。


「その悪魔が、なんで俺のとこにきたんだ。つーか、マジで悪魔でいいんだな?」

「あら、まだ半信半疑?」

「信じてたような気がしたんだが、いまのおまえを見てるとやっぱり気のせいに思えてきた」


 カップを取る姿が、人間よりもさまになっていたからだろうか。


「うーん、そうね」


 ナベリウスはわかりやすく人差し指を立てると、夕貴の眼前に置かれているカップに向けた。さながら魔法のように何もない中空に小さな氷が形成されると、それは間抜けな音を立てて黒い水面に着水した。


「それを人間たちは《絶対零度(アブソリュートゼロ)》と呼んでいた。その名の通り、わたしは氷を司ることができる」

「うわぁ悪魔だ、やっぱ悪魔だこいつ……」

「まあ《悪魔》っていっても、いまのわたしたちは名ばかりであまり力は残ってないけどね。ソロモンの封印の影響があるから」


 バビロンの深い穴より解き放たれる際に《悪魔》は多大なる犠牲を支払った。封印の依り代となった器から奔出するためには、人の身で受肉して現界する必要があったのだ。


 必定、《悪魔》は人の世の理に縛られてしまい、力の大部分を喪うはめになった。それがベリアルと人間が交わした契約の一つでもある。


「ていうか、悪魔ってそもそも何なんだよ。いまさらな質問だけど、ソロモン72柱ってあのソロモン72柱なのか?」

「たぶんね。人の世に伝わってる伝承なんて往々にして長い年月をかけて脚色されるものだから、どこまで正しいことが書いてあるのか知らないけど」

「ふーん……」


 夕貴は明らかに胡散臭そうな顔で、あらかじめ手元に用意してあった何枚かの書類に目を通した。どうやら夕貴なりに予習してきたらしい。


「ナベリウス。地獄の勇猛なる侯爵。召喚されたときは、カラスとかの姿で現れて、しわがれた声で話す……って書いてるけど?」

「あーあ、人間って最低ね。どこに目を付けてるのか一万回ぐらい聞きたいわ。こんな美女を捕まえて、よりにもよってカラスだなんて」

「とりわけ修辞学に長けてて、なにより失われた威厳や名誉を回復させる力が……」

「ね?」

「よし、まったくアテにならないことがわかった」


 ぐしゃぐしゃと紙を丸めると、夕貴は見もしないで後ろにぽいっと放り投げた。


「もうおまえから聞いたほうが早いな。この序列とかって出席番号みたいなものって書いてたけど、おまえって二十四番目に強いわけじゃないのか?」

「イエスでありノーとも言える。そうね、現代っ子である夕貴のためにわかりやすくゲームで例えてみましょうか」


 人の常識に当てはめるのはちょっと難しいので、ナベリウスなりに噛み砕いて説明することにする。


「たとえば、わたしたちには魔力みたいなものがある。これは攻撃にも防御にも回復にも必殺技にも使える万能の力でね。それが多ければ多いほどあらゆる局面で有利になる。序列っていうのは、この魔力の総量を順に並べたようなものなのよ。つまり序列一位がいちばん魔力が多くて、七十二位はいちばん少なくて、わたしは二十四番目ってこと。理解できた?」


「すごくわかりやすいんだけど、ゲームで例えられてるせいで逆にまた現実味が……」


「ただし、いくら魔力が多くても、それをちゃんとうまく使えるかどうかは別の話。仮に大賢者だったとしても、使える魔法が小さな火の弾を飛ばすだけだったら宝の持ち腐れでしょう? あるいは勇者で、自在に筋力のステータスをいくらでも伸ばせるけど、耐久や敏捷はまったく弄れないような、偏った運用しかできないやつもいるかもしれない。わたしたちには固有の魔法が一つずつあって、それが戦闘に向いているのか、回復とか援護に特化しているのか、それによっても大きく変わってくる」


「ようするに、あれだな? 序列とやらが戦闘能力に直結してるわけじゃないって思っておけばいいんだな?」


「そんな感じ。でも例外もあって、序列上位の十柱だけは力が桁違いで、さっき言った法則も当てはまらないだろうから覚えておいて。あいつらは基本的に不死身みたいなもんだし、その気になればこの星の文明を単体で滅ぼせるんじゃない?」


「いや、じゃないって言われても……」

「心配しない。わたしたちが何年生きてるか知ってる? 人間で言えば悟りを開きに開ききった仙人みたいな域に達してるから。いまさら地球をどうこうしようなんてやつはそういないわよ」

「そのわりにはおまえ俺のベッドに裸でもぐりこみやがったよな?」

「だってわたしは性欲あるし?」

「なん、だと……?」

「ただグシオン、バルバトス、マルバスはまた特別だから、何があっても近づかないで」


 この三柱の大悪魔は、それぞれ独自の勢力を率いて、とある目的を達成するために暗躍している。手段は違えど、目指すところは同じだ。


 近代において、彼と彼女と彼が一同に会したあの日を《三魔会談》と称して史に残していることからも、人類の畏怖のほどがわかるというものだ。


 欧州の特務組織からは、世界の滅びにもっとも近い三つの大禁忌として定義されている。


「で、そんな御大層な悪魔であるナベリウス様が、どうして俺のとこにやってきたんだよ?」

「約束があったからよ」


 簡潔に告げる。少年の澄んだ目が注目し、積年の想いが胸に詰まった。


「あなたの父親と約束したの。あなたを守るってね」

「まず父さんとおまえはどんな関係なんだよ。……ま、まさか愛人とか言い出すんじゃないだろうな!」

「ないない。それだけは絶対ない」


 手を大きく振って否定する。あの男の気まぐれに振り回されるだけで精一杯だった彼女に愛を語らう気など欠片もなかった。むしろ死んでもお断りである。彼と対等に付き合えた女など、それこそ夕貴の母親ぐらいのものだろう。


「わたしは元々あなたの父親に仕えてた。仕えてた? うーん、ワガママ聞いてた? いや、面倒を見てた? 子守? ううん、これも子供に悪いか……」

「ぜんぜん知らないけどお前とりあえず父さんのこと舐めてるだろ」

「は? わたしがどんな目に遭ってきたのか知ってて言ってるの? むしろ息子として謝ってほしいぐらいなんだけど」

「だからおまえにそこまで言わせる父さんは何者なんだよ。もはや神だろ」

「そりゃあね。なんてったって悪魔の王だし。バアルだし。魔神だし」

「はーあ?」


 こいつ頭イカれてんじゃねえか、という胡乱げな顔。やはり何も聞かされていないらしい。ナベリウスは自分の判断が間違っていなかったことを確信した。


 とはいえ、あの夜を経たあとで事実を黙っていることに意味はない。いまなら少年は全てを受け入れるだろう。そんな打算もあって、表向きは平然とした顔のまま、ナベリウスは苦々しい気持ちで続ける。


「だから《悪魔》だってば。ソロモン72柱が一柱にして、序列第一位の大悪魔バアル。逆にまったく知らなかったの?」

「……ふぅ。出た出た、このパターン」


 夕貴は哀れみの目でナベリウスを見たあと、朗らかに相好を崩した。幼子の可愛い妄想を聞き入れてやった父のような反応である。


「そうだな。俺の父さんは悪魔だな。萩原駿貴っていうのは人間として活動するときの名前なんだよな。知ってるよ。よかったな。はい、これでいいか?」

「あのとき、バアルはわたしに言った。でもそれは、あなたの……」

「待ちやがれこの悪魔女。なに自然に話を進めてやがる。俺はおまえの妄想に付き合ってる暇はないんだよ」

「え? だって知ってたじゃない、駿貴のこと。違うの?」

「え?」

「え?」


 顔を見合わせる。夕貴はしばらく怪訝そうにしていたが、やがて小さな声で言った。


「……マジ?」

「マジよ」

「マジじゃねえよ。俺は人間だぞ。それはどう説明するんだ」

「だから人間であり、悪魔でもあるってことでしょう。たぶん」

「あははははっ! おまえにしてはおもしろいな!」


 わりと本気で笑い始めた夕貴を、ナベリウスは呆れるでも嗜めるでもなく、ただ静かに見つめていた。まあ無理もない話ではある。母親から何も聞かされていなかったのだろう。夕貴にしてみればこれまでの価値観がひっくり返るような真実なのだ。いきなり信じるほうがおかしい。


 できることなら夕貴には何も知らず、人として平穏な時を生きて欲しいと。


 今日に至るまで少年が暖かな陽の下で笑っていることができたのは、そんな母親の尊い想いがあったからだ。その選択を間違っているとは思わない。ナベリウスが母の立場だったとしても、きっと同じように息子を育てたはずだ。


「そうね。じゃあ証拠を見てもらいましょうか」

「証拠?」

「ええ、あなたが親の血を継いでることの証」


 あまり掘り返したくない話だが致し方ない。


「あの子のことを、あの夜のことを、思い出してみて」


 夕貴の表情がみるみるうちに曇り、その目にはナベリウスを咎めるような厳しい色が宿る。


「おまえ、なにを……」

「いいから。言うとおりにしてみて。目をつむって、ちゃんと思い出して」


 ナベリウスの口調から冗談ではないと判断して、夕貴はひとまず言われたとおりに実行する。今頃、まぶたの裏には、腕のなかで血に染まって冷たくなる少女の光景がまざまざと映し出されているはずだ。


 そして彼がゆっくりと瞳を開けたとき、ナベリウスは予想していてもなお戦慄を抑えきれなかった。


 淡く、儚く、うっすらとした黄金の色彩に濡れる双眸。ナベリウスのそれと対になるような人あらざる輝き。


「はい、じゃあそのまま洗面所に行って鏡を見てきて」

「……おまえな。なんの意味があって」

「いいから。文句ならあとで聞いてあげる」


 しぶしぶとリビングを出ていった夕貴の悲鳴が聞こえてきたのは、それから十秒後のことだった。慌てて戻ってきた夕貴は、ナベリウスの両肩を掴んでぐわんぐわんと揺さぶる。


「お、おまっ、おまえっ! なんだこれ! なにが起こってるんだ! 俺にいったい何しやがった!?」

「何をと言われましても」

「とぼけてんじゃねえ! いまならまだギリ許してやるから、とっとと俺を元に戻せ!」

「戻せないわ。それがいまのあなたなのだから。百聞は一見にしかず。この国のことわざでしょう?」


 ナベリウスの銀色の瞳には遊びなどなく、むしろいつになく冷厳に夕貴のことを見据えている。戯れではないと理解したのか、夕貴は力なくナベリウスの身体から手を離した。


 動揺しているのか、傷ついているのか――そんな少年の顔を正面から見せつけられて、ナベリウスはちくりと胸の奥が痛むのを自覚した。


「だから、あんまり言いたくなかった」


 ナベリウスなりに時機を見計らっていたつもりだが、やはり事実を明かす段階になると、夕貴の心に少なからずショックを与えるのは避けられなかった。


「……なにがだよ」

「わたしがあなたの前に現れた理由。その目的。まあ言い方は何でもいいけど。べつに隠してたわけじゃなかったのよ」

「だからなにがだよ」

「あなたは心優しいから。だれよりもお父さんとお母さんのことを愛して、尊敬しているから」

「おまえ、さっきからなに言って……」

「見ず知らずの女から、いきなりおまえの父親は《悪魔》なんだって言われたら、あなたはきっと侮辱されたと思って怒ったでしょう?」

「…………」

「夕貴が信じてくれるような――ううん、信じざるを得ないような状況になるまで、こうやって真実は言えなかった。ごめんなさい」


 ナベリウスは深く頭を下げる。長い毛先が床のフローリングに触れた。


 いつになく殊勝な彼女の態度を見て、夕貴の息を飲む気配が伝わってくる。


「……似合わないな。そういうのぜんぜんお前らしくないから頭上げてくれ」

「え? でもナベリウスちゃんって大体いつもしおらしくない?」

「どこがだよ。厚かましさの塊だろうが」


 呆れながら夕貴は自分の席に着く。複雑そうな面持ち。すでに眼の色は、もとの黒に戻っていた。


 かつて聞いた話を反芻しながら、ナベリウスは言う。


「その瞳は、おそらくあなたの意志でいつでも現出させることができる」

「……マジか。絶対やめとこう」

「その瞳は、きっとあなたにとって大きな力となるでしょう」

「ただおまえみたいに悪魔色に光ってるだけじゃないのか?」

「一つだけ覚えておいて。それは人には見せてはいけないもの。どうしても必要なとき、たとえば命の危機に関わるような局面のときにしか使わないで」

「大げさだな。こんなの……」

「約束して。いい?」


 冗談ではないと悟って、夕貴はしばし黙したあと、ゆっくりと頷いた。


「……ああ。わかったよ。約束する」

「よかった」


 とりあえず保険はかけておくに越したことはない。夕貴は渋々ながらも了承してくれた。


 いまの夕貴の心境を推し量ることはできないが、少なくとも表面上はそれほどダメージを受けていないように見える。


「あんまり取り乱さないのね」

「さっきの俺が取り乱してないように見えるなら、おまえの目が悪いか、俺のなかのポーカーフェイスの認識が狂ってるかだ」


 夕貴は苦々しくごちる。


「……正直、心当たりがなくはないからな」


 ぽつりと夕貴は呟いた。ナベリウスが小首を傾げて視線だけで問いかけると、夕貴は自嘲気味に笑いながらかぶりを振った。


「いや、なんでもない。ただもしかしたら、そういうことだったのかなって思っただけで」


 とりあえず夕貴なりに折り合いをつけたらしい。


「父さんが《悪魔》だった……まあこれは二千歩ぐらい譲って信じよう。じゃあ母さんはどうなんだ?」

「安心して。さすがにそこまでびっくりな展開はないから。あなたの母親である萩原小百合はただの人間よ。よく笑って、よく泣いて、よく怒って、そんなだれよりも人間らしい人間だった。それは保証してあげる」


 悪魔の王と、本物の人間。あの二人が出逢い、結ばれ、一つの命を育むのは運命だったのだろう。夕貴を見ていると強くそう思えてくる。

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