1-15 『小さなてのひらに、ただそれだけを願って』②
「これまでね」
状況を静観していたナベリウスは、暴走を始める少女を見て、あとは自らの手で決着をつけることを選んだ。
地面が揺れる。彩の周囲が陥没して、幾つもの鋭利な氷山が突き立った。彩はジャンプして避ける。少女の後を追って無数の氷槍が大地を突き破り出現した。無限の物量の前には回避など無意味だった。
彩は吹き飛ばされて地面を転がった。四つん這いの体勢で血を吐き出している。美しく清楚だった過日の面影など、もはやどこにも残っていない。
夕貴から少し離れた位置に、ナベリウスは着地した。
「ナベリウス!」
「わたしにも譲れないものが二つある」
冷厳とした声で、ソロモンの大悪魔は少年の糾弾を遮った。
「一つはあなたの身体。そんなに傷ついて、そんなに血を流して、いったい何ができるの?」
責めるような言葉とは裏腹に、ナベリウスの声には心から夕貴の身を案ずる色しかない。
「そして、もう一つ」
彩は立ち上がろうとする。人を殺したくてたまらないのか、それとも夕貴の前で無様を晒すことが嫌なのか。そんな少女の健気さを哀れに思いながらも、ナベリウスは確固たる意志を湛えた声で告げる。
「それはあなたの心。これ以上、辛い思いをさせたくない」
逆に言えば、ナベリウスにとってそれ以外は全て些事でしかない。たとえ年端もいかない少女の命が失われようと、それによって夕貴に恨まれようとかまわない。手を汚すのは自分だけでいい。
「夕貴でもあの子を救うのは無理だった。このまま放っておけば、あの子はかならず人を殺すでしょう。そうでなければ止まらない」
どうにもならない現実に、夕貴は言葉が出なかった。どれだけ感情が否定しようとも、聡明な少年は頭で理解していた。本物の《悪魔》でも救えない。そして自分には何もできない。
ならば、彩が手を汚してしまう前に安らかな眠りを与えることが、唯一の救済ではないかと。
ほんの少しでも、そう思ってしまった。
そう思ってしまった途端、夕貴は身動きができなくなった。
ソロモンの大悪魔と、悲劇に取り憑かれた少女は、正面から対峙すると視線を交わし合った。
「私は《ソロモン72柱》が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウス」
もう戻れぬ少女に、自らの手で安息を捧げること。それはナベリウスにとって最大級の慈悲だった。
「青褪めた死は、貧者の小屋も聳え立つ館も等しき足で蹴り叩くという。人も我らもなべてこの事にあり。故にせめて私が手ずから理を示そう」
二人を隔てる距離は約三十メートル。ナベリウスなら一足の間合いでも、いまの彩には果てしなく遠い道のりだった。
その光景を、萩原夕貴は見つめることしかできない。何一つ救えず無力なままの自分を、彼は悔いることしかできない。
空気が動いた。先に仕掛けたのは彩だった。殺人衝動に呑みこまれた彼女は、瀕死の肉体のことなど無視して走り出す。
ナベリウスは動かない。ただ迎えるだけだ。それで全てが終わる。
あと何秒、彩の命は残っているのだろうか。
夕貴はいったい、あの少女に何をしてあげられたのだろうか。
そこから先のことを夕貴はよく覚えていない。ただ気付いたら、満身創痍に等しかったはずの身体は走り出していて、何かを掴むように手を伸ばしていて、枯れた喉は言葉にならない声を叫んでいた。
ナベリウスが殺す。彩が殺される。夕貴はただ、そんな結末が見たくなかっただけ。
衝突する寸前の二人の間に割って入ると、夕貴は彩を庇うように大きく手を広げて、ナベリウスの前に立った。これまで絶対的な存在として君臨していたナベリウスが、ここにきて僅かに狼狽する様子を見せる。その理由は至極単純。包丁を持った彩が、もう夕貴のすぐ背後まで迫っているからだ。
夕貴は笑った。これでもう誰も傷つくことはない。たとえ数秒後に、夕貴の背中を鋭利な刃物が貫いたとしても、どちらか片方を失った世界に取り残されるほうが彼にとっては辛かった。
夕貴は凪いだ水面のごとく静かな心境で目を瞑った。逃げるのではなく、受け入れるために。不思議と恐怖はなかった。肉と内臓を抉るであろう刃物の痛みも、きっと彩が胸に抱いたそれに比べれば大したことはないだろう。
だが、夕貴が覚悟していた衝撃はついぞ訪れない。彼はゆっくりとまぶたを開いた。ナベリウスは驚きを隠しきれない顔で、夕貴のことを凝視している。
否、夕貴ではなかった。
その銀の瞳は、彼の背後で起きた出来事だけを明確に捉えていた。
****
どこかから光が差して、わたしは目を開けた。
とても眠い。薄暗い部屋の中で、わたしはふかふかのベッドに溺れて毛布に包まっている。こんなに幸せなことはない。このまま眠ってしまえるなら、もう起きなくたって構わないとさえ思える。
でも眩しい。うまく寝付けない。無視して毛布の中にもぐりこんでもよかったんだけど、わたしは何となく気になって身体を起こした。カーテンに遮られた窓の向こうから薄っすらと光が差している。
興味本位で覗いてみると、そこには映画のような光景が広がっていた。季節外れの雪が降る河川敷に、女神と見紛う美しい女性が立っている。きっと彼女が主人公で、それに向かって不格好に走っている血まみれの少女は端役なんだろうな。
役者が違いすぎて、あまり面白そうには見えなかったけど、なんだか見届けないといけない気がして、わたしは仕方なくそれを眺めることにした。
銀色の髪をした女の人は、まっすぐに少女のことを見ている。深い思慮と決意を湛えた瞳。人の死を背負うことを覚悟した眼差し。対決していたのか、断罪だったのか、とにかく物語は佳境を迎えて、あらすじなんて全然わからないわたしにも訪れるクライマックスの瞬間が予想できた。
いまから少女が殺されるのだ。
それでいい。理由はわからないけど、わたしは少女が死ぬことに納得していた。なんでだろう。ついつい主人公を応援しちゃうタイプだからかな。どんな物語でも、どんなご都合主義でも、最後には悪者が倒されてハッピーエンドを飾るのがいいに決まってる。
でも、あれ? わたし、これを知ってるような。
妙な既視感だ。内容についてはほとんど記憶にない。ただ、少女のキャラだけが鮮明に思い出せる。どんな人生を送ってきたか。どんなにひどいことをしてきたか。自分でも嫌になるほどわかってしまう。
あの少女は、とても悪い子だった。
幼い頃、両親を離婚させて、大好きなお母さんを不幸にしてしまった。だからほんとうの自分を封じ込めて、みんなの求める理想の『■』であろうとした。でもそうやって自分ではなく他人のために生きても、けっきょく、だれかを傷つけることしかできなかった。
これだけ諳んじることができるのに、なぜか少女の名前だけが思い出せない。とても大切なものだったはずなのに。忘れてはいけない想いと祈りのかたちだったはずなのに。
いっぱい考えたけど、だめだ、わからない。もういいや。やっぱり眠っちゃおう。どうせ映画の結末は見届けるまでもなくわかりきっている。主人公の手によって悪役が倒される。そんなハッピーエンドになるのは自明の理なんだから、眠いのを堪えて、わざわざ最後まで見ることもないでしょう。
そう思って、わたしは窓の外に広がっていた景色から目を逸らすと、ふたたび毛布に包まる。温かいはずなのに、どこか冷たく感じるそれに、あれ、と違和感を覚えた。
そのときだった。
「――彩!」
忘れていた少女の名を呼ぶ声が、はっきりと聞こえたんだ。
その瞬間、世界がひび割れたように砕け散る。ベッドがなくなり、毛布が消えて、わたしは夜の河川敷に放り出された。ついさっきの少女の身体にわたしが乗り移っていた。走る足も、全身を苛む痛みも、風を切る感覚も、氷の冷たさも、何もかもはっきりと感じ取れる。
「――彩!」
またわたしの名を呼ぶ声が聞こえて――全てを思い出した。
ああ、そうだ。
それがわたしの名前だった。
走馬灯のように思い出が駆け巡る。もうそれぐらいしかすることがない。身体を止めることも、何かを言うこともわたしにはできない。
嬉しかった。夕暮れの帰り道で、わたしの名を呼んでくれて。身内でもない男の子から彩って呼ばれるのは初めてだったから、ちょっと人には言えないぐらい胸がどきどきして、別れてからも彼のことで頭がいっぱいだった。
初めてのデートは楽しかった。緊張してぜんぜん眠れなくて、前の日から洋服を選んでいたのに朝になってもやっぱり迷ってた。少しでも可愛いって思ってほしくて頑張った。二人で観覧車に乗って、恋人だったらこういうときにキスするのかなって、じつは密かに妄想してたのは絶対に内緒。
女の子みたいに可愛い顔してるくせに、いざってときはびっくりするぐらい男の人になって、わたしのことをお姫様みたいに守ってくれるところも、好き、だった。
もうわたしの名を呼ぶ声も聞こえない。終幕は近い。あと数秒でわたしは死ぬだろう。目の前にいる銀色の女の人がわずかに目を細める。
その数秒後が訪れる一秒前に、わたしと彼女の間に、見覚えのある背中が割り込んできた。
よく知っているはずなのに、とっさに思い出せない。男性のようにも女性のようにも見える姿。そっか、これは夕貴くんだ。夕貴くんなんだ。忘れていた自分が情けないけど、最後に思い出せたことは嬉しかった。
ああ、まただ。
夕貴くんの背中。男性にしては華奢なはずのそれが、なぜかとても大きく見える。わたしはこの背中を知っている。子供の頃からずっと、何度も見ていたから。
あれは、そう、お母さんが仕事に行くときのことだ。
――お母さんは、どうしていつも笑ってるの?
そんな幼い少女の声が聞こえた。すぐ目の前に迫った夕貴くんの背中が、いつかのお母さんのそれと重なっていく。やっぱり強くて、暖かくて、優しかった。
――それはね、彩が。
そして気付いた。いまさら、こんなときになって、ようやく思い出してしまった。
夕貴くんが大きく見えた理由。お母さんがどんなときも笑顔でいてくれた、ほんとうの理由。
――それはね、たぶん、彩がもっと大人になって。
守るべきものがあったから。
――大好きな人ができたら、わかるよ。
そのためなら人はなによりも強くなれるから。
だからこれは、いままで何も選べずに後悔するだけだったわたしが、ほんのちょっぴり強くなった証拠。悪魔なんて関係ない。心の底から湧き上がる欲求よりも、もっと強い気持ちで魂が括られたから。
いまなら胸を張って言える。こんなわたしにも守りたいと強く思えるものができたって、大好きだったお母さんと同じ気持ちになれたって。
夕貴くんだけには、ずっと笑っていてほしいから。
ごめんね、お母さん。こんな親不孝な娘で。これでお母さんも、ちょっとは許してくれるかな。
****
包丁が突き刺さった。
それを成し遂げた本人は、まるで誇るように微笑んでから、その場にゆっくりとくずおれる。
櫻井彩が倒れていく。包丁を強く握り締めたまま。夕貴の背を貫くはずだったそれを、自分の腹に突き刺して。
どさりと音がするまで、夕貴は動くことができなかった。状況の把握に時間がかかりすぎていた。彩を支えてやることすらもしてあげられなかった。
夕貴は彩に駆け寄って、こわばる手で優しく彼女を抱き起こした。氷が冷たくて、身体はもっと冷たくて、血だけが熱かった。
「なにやってんだ、このバカ!」
夕貴の頭には怒りしかなかった。なぜ彩は自分を殺すような真似をしたのか。だれだって死ぬのは怖い。こんなことをするなら、勢いのままに夕貴を貫いたほうが遥かに楽だったはずなのに。
「あは、は……」
泣きそうな顔で支える夕貴を見て、彩は笑った。そこにあるのは禍々しい殺人衝動とは無縁の、愛らしい少女のかんばせだった。
「ほんとに、口から血って出るもん、なんだね」
「うるせえ黙ってろ! 寝言ならあとでいくらでも聞いてやる!」
「しゃべろうよ。さいごは、夕貴くんの声、聞いてたいから」
「そんな、の」
夕貴には聞けない相談だった。言葉を交わせば交わした分だけ、彩の身体は冷たくなっていく。すでに出血は致死量をとうに超えている。刃物はほとんど埋まっていて、その深さを見れば、重要な内臓が無事だとはとても思えなかった。
まだ彩が喋っていられるのは、彼女に取り憑いた”何か”が宿主を強制的に生かしているからに過ぎない。
彩を助ける。そのための方法は。
傍らにはナベリウスが佇んでいる。夕貴は声だけで問いかけた。目を合わせることはできなかった。見たくもない現実をさらに突きつけられそうだったから。
「……どうすればいい?」
刻一刻と彩の呼吸が弱くなっていく。命の灯火が消えようとしている。その事実を認めたくなくて、夕貴はナベリウスに縋った。それしかいまは思いつかなかった。
「どうやったら彩を助けてやれる。俺は何をすればいい。なんでもする。おまえ悪魔なんだろ。だからこいつを」
「無理よ」
しかし、唯一の希望を知っているものと思われたソロモンの大悪魔は、夕貴に新たな絶望をもたらすだけだった。
「そうなってしまったらもう助けられない。わたしには人間の身体を治癒することはできないし、なにより取り憑いたものを祓うことはもっとできない。本来、それと結びついてしまった人間は、極端な例外を除くと死ぬしか解放される術はないわ」
「見捨てろってことかよ。彩を」
「その子を助ける方法は、大きく分けて四つ」
淡々とした口調は、夕貴を慰めるというより、諦めを促す色合いのほうが強かった。
「一つ目は十九年前にこの世界から失われた。二つ目はいま海の向こうにある。三つ目はたぶんまだできない。そして四つ目は、その子を……」
「言うな。それだけはいま、俺の前で言わないでくれ」
夕貴は有無を言わさぬ声音で遮った。感情の抑制がきかなかった。ナベリウスは気を害したふうもなく、静かに夕貴のそばに寄り添うだけだった。
「……なぁ、彩」
夕貴の呼びかけに、少女は薄く目を開くことで応じた。とても眠そうだった。だから夕貴は矢継ぎ早に声をかけた。
「なに寝てんだよ。とっとと起きて帰ろうぜ。明日からまた学校なんだから。ほんと響子のやつもバカだよな。なんで日曜なんかに花見やるんだよ。次の日を休みにしとけってんだよな」
「……そう、だね。……みん、なに……ありがとうって、言いたかったな」
「そういえば弁当作ってくれるって約束したよな。俺、すげぇ楽しみにしてるんだよ。忘れてたとか言ったら怒るからな」
「わたし、ね……夕貴くんにあえて、ほんとに……よかったよ」
「前にも言ったけど卵焼きは甘くないやつにしてくれ。ご飯は大盛り、いや、やっぱ特盛だな。こう見えても俺、めちゃくちゃ食うからな。覚悟しとけよ」
「……はじめて。もしかしたら、はじめて、かも。やっと……」
「でも渡すときは他のみんなにバレないようにしてくれ。託哉とか響子に見つかると絶対にややこしいことになるから」
「もっと、夕貴くんと、一緒にいたかったなぁ……」
「いればいいだろうが!」
彩の血まみれの手を強く握り締める。
「おまえ言ったよな! もし困ってたら、どうしようもなくなったら助けてくれって! 約束した! 約束したんだ! 約束したんだよ! だから大丈夫だって! どんなことがあっても俺が助けてやるから! おまえを絶対に救ってみせるから!」
「そう、だね」
彩は照れくさそうにはにかんだ。夕貴は涙を浮かべながら笑う。生きる気力を繋いでくれたと。まだ諦めないでいてくれたと。
でも、そんなふうに自分を誤魔化して夢を見るにも限界があって。赤い血が、ずっと流れやがるこの赤い血が、どうしようもなく現実だって。
どうすれば彩の興味を引けるのか。ない知恵を絞って考える。まだ彩がこの世界にいるための理由を必死に探す。
「そうだ、おまえ実はすっごい甘えたがりって言ってたよな。だから、おまえのために何でも一個だけ、好きなわがまま聞いてやるから」
「ほん、と? やっ、たぁ……」
喜ぶ声に力はない。だらんと垂れたままの彩の小指に、夕貴は自分のそれを絡めた。
「ああ、絶対に約束する。だから、だから、だから、さぁ……」
そこから先はもう言葉にならなかった。夕貴は嗚咽を堪えるのに精一杯だった。
「きれい、だなぁ……」
眠たげな眼差しで夜空を見上げて彩は呟いた。しんしんと降りしきる雪は、こんなときでも幻想的に美しくて、彩の意識を繋ぎとめるために夕貴は語を継いだ。
「あ、ああ。きれいだよな。だから冬になったらもっと」
いや、もう彩の瞳には何も映っていないのかもしれない。夕貴の声も聞こえていないのかもしれない。
「……あぁ、ほんとに」
なぜなら彩にとって。
「今年の桜は、こんなにも、きれいで……」
きっとそれは、雪ではなく。
「だから、いいよね……もう、なんだか、ねむくて。ちょっと……寝かせてくれると、うれしいな」
ふざけるな。眠りが救いであるとでも言うのか。昏い闇のなかにいったい何があるというんだ。夕貴の頬を伝った涙が、彩の目尻に落ちる。
夕貴の涙を流しながら、彩は子供みたいに笑った。
「じゃあわたし、お母さんが待ってるから、帰るね」
もっとずっと見ていたかったはずの瞳が、ゆっくりと閉じられた。ほんとうにただ眠るだけのように、何の余韻もない幕切れ。
「……ま、待て、やめろ、おい、目を開けろ」
彩の身体を揺さぶる。反応はない。もう一度揺さぶる。反応はない。さらに揺さぶる。反応はない。
「起きろって。バカ。こんなところで寝んな。怒るぞ」
頬を叩く。反応はない。強く抱きしめる。反応はない。優しく抱きしめる。反応はない。強く優しく抱きしめる。反応はない。強く、優しく、もっともっともっと抱きしめる。
そのとき、耳元に。
「えへへ」
幸せそうな笑い声。
「そんな、夕貴くんが……わたしは」
最後まで言葉を紡ぐことも叶わず、それっきり櫻井彩は二度と目を開けることはなかった。
「……なんだよ、これ」
彩を抱きしめたまま、夕貴は呟いた。
「なんなんだよ、これ」
これで終わりなのか。もう彩の笑顔を見ることはないのか。世界はいつだって残酷で、平和な日本に暮らしている彼らはそんなことを知らなかったから、これが悲劇だと勘違いしているだけなのか。
もっとかわいそうな少女はいくらでもいる。何も知らされず銃を持たされ、飢餓し、犯され、利用され、ゴミのように死んでいく人間は掃いて捨てるほどいる。それに比べれば、こんなに幸せそうに笑って逝ける彩は恵まれているのではないかと。
「そんなわけ、ねえだろうが……!」
夕貴は認めない。こんな結末は絶対に認めない。悪魔でも無理だというなら神に願おう。神でも無理だというなら奇跡を起こそう。奇跡でも無理だというなら俺が彩を救おう。
どんなことをしてでもこいつを助けてみせるって。
何があってもこいつを一人にしないって。
俺は。
「俺に、そう誓ったんだ……!」
彩の身体をさらに強く抱きしめる。氷の彫像のように固くて冷たい身体。それはもう生きているのか死んでいるのかも判然としない風前の灯。それが悲しくて、やっぱり認められなくて、夕貴は全身全霊でこの悪夢を否定した。
キィン、と、甲高い耳鳴りがした。
でもそんなこと夕貴には関係ない。ただ彩をどうにかしようとすることしか頭にない。切なく響き渡る音の連鎖も、熱くなっていく身体も、何もかもどうでもよかった。
「これは……」
ナベリウスが周囲を見渡して息を飲む。雪が止み、世界を覆っていた絶対零度に亀裂が走り、粉々に砕け散っていく。歪んでいた物理法則が、枯れていた草花が、崩れていた大地さえもが、あるがままの姿を取り戻していく。
それは抱きしめあう夕貴と彩を起点としていた。
淡く、儚く、それでもなお強く、夕貴の瞳が光り輝く。ナベリウスのそれと対になるような黄金の色彩。ひどく見覚えのある双眸に、ナベリウスは遠い過去を思い出した。
もう何も聞こえない。耳鳴りが強くなりすぎて聴覚が麻痺した。目の錯覚か、視界いっぱいを光が満たして何も見えない。抱いているはずの彩の感覚もなくなった。血の臭いがしない。舌に広がっていた悲しみの味も、どこかに消えた。
ゆえにそれは、神でも悪魔でも奇跡でもなく、一人の少年が起こした、最初のハウリングだった。
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