1-5 『不安という名の病』
刻一刻と深くなっていく夜の闇が、走る夕貴の両肩に圧し掛かってくる。全速力で走っているのに、流れる景色はひどくゆるやかで、ちっとも前に進んでいない気がした。
響子が家に帰っていない、と彼女の弟から連絡を受けたのはもう十五分ほど前のことだ。藤崎家は四人家族で、父親は単身赴任、母親は夜勤のある看護師、そして中学二年生になる弟がいまは一人で留守番している。夕飯も食べずに、ただ姉の帰りを待って。
あの響子が、なんの連絡もなしに弟を心配させるとは考えられなかった。しかし、何かの事件に巻き込まれたと懸念するのも大袈裟に思えた。状況だけを見れば、遊びたい盛りの大学生の女子が、一時間か二時間ほど予定よりも帰宅が遅れているだけのことなのだから。
だが夕貴は、あの人懐っこくて実は心優しい幼馴染が、自分の都合を優先して弟をいたずらに心配させる少女ではないことをよく知っている。
そのきざした不安が確信的なものとなったのは、響子のアルバイト先に連絡してみたときのことだった。幸いにして響子は二十四時間営業の大手レンタルショップで働いていたので裏はすぐに取れた。
藤崎響子は、本日の午後六時からシフトに入っていたが、体調不良を訴えて九時過ぎには店を出たという。
それを聞いた瞬間、夕貴は家を飛び出していた。ナベリウスは大人しく客間にいるらしく、すでに家のなかは不気味なほど静まり返っていて、彼の夜間外出が引き留められることはなかった。
警察に相談したほうがいい、と頭のどこかで冷静な声が言う。素人だけで判断しようとせずに、早期のうちから専門家に任せたほうがいいのではないかと。
そう考えて、携帯を取り出して、だが実行には移せなかった。
この手持ちの情報だけで警察に信じてもらえるか? すぐに動いてくれるか? 動いてくれなかったら、交番に駆け込んで事情を説明する時間が無駄になるだけじゃないか? その間に自分の足で響子を探したほうがよかったと後で後悔することになるかもしれない。
いや、そもそも事態を重く見すぎているだけなのか。これはほんとうに警察に連絡するようなことなのか。でもそうやって事の次第を甘く見積もったせいで取り返しのつかないことが起きたらどうするつもりだ。
なにが正しくて、なにが間違っているのかわからない。
ただ家でじっとしていることだけはできなくて、夕貴はいまも走っている。
夕貴はだれよりも響子のことを知っているつもりだ。
インフルエンザにでもならなければ病院にいかず、熱が出た程度では学校も部活も休まない響子が、アルバイトを早退して、中学生の弟を放っておくなんてただ事ではない。
それに。
この街ではいま、年若い少女の――
「……んなわけ、ないだろうが」
ありえない。響子に限って、そんなことは絶対にありえない。断言してもいい。あいつは現実から逃避して死を選ぶ女じゃないし、もし仮になにかに悩んでいたとしても、それに気付けないほど夕貴は伊達に長く幼馴染をやっていない。
ひとまず夕貴は、夜の街を走りながら託哉に電話をかける。響子がまだ帰っていない、その一言だけで説明は足りた。いったん駅前まで出て、夕貴が心当たりがある場所を回っていると、ほどなくして大型バイクに乗った託哉が駆け付けた。
開口一番で託哉は本題に入る。
「響子のアホは?」
「バカだからまだ見つかってない。おまえのとこに連絡は?」
「いや。ついでに響子のバイト先からここまでのルート見てきたが、少なくとも道端で寝てるってことだけはなかったぜ」
「バイト……おまえ、今日あいつを送っていったよな? そのときになんか変わったことはなかったのか?」
「二ケツでウィリーできるかどうかって話になって、んなのできるわけねぇって言うからやってやろうとしたら頭ぶん殴られたけどヘルメット被ってたからあいつがダメージ受けてた」
「いつも通りじゃねえか」
やはり響子に思い詰める様子はなく、託哉の話では体調も普段となんら変わらないように見えたという。
夕貴は携帯を取り出して、一枚の写真を表示させた。つい先週の入学式のときに撮ったものだ。新調したばかりのスーツを着た幼馴染の三人が、桜の舞う大学の正門前で並んでいる。中央にいるのは響子だ。満面の笑顔で、左右にいる二人の肩に手を回して、しかも器用にピースしている。そのとなりには、呆れながらもそんなに嫌そうではない夕貴と、両手をポケットに突っ込んでよそ見している託哉。
もし聞き込みをするなら、この写真を利用するつもりだった。夕貴はあまり写真を撮ったりしないから、これしか響子の顔をまともに判別ができるものがない。
こんな記録なんて必要ないと思っていた。そう思ってしまうぐらい、いつだって響子はすぐ近くにいたし、これからも近くにいて夕貴に迷惑や苦労をいっぱいかけてもらわなければならない。
響子がいない人生なんて、張り合いがなくてぜんぜん面白くないに決まっている。
「なんて顔してんだよ。まあ落ち着けって。まず間違いなく、あいつがここでくたばるなんてオチはねぇよ」
「どんな理由だよ」
「オレとおまえの幼馴染だからだ」
二人で力を合わせれば絶対に探し出せるとでも言いたいのだろうか。普通の大学生にできることなんてたかが知れているはずなのに。
しかし、それにしては託哉の声は落ち着いていて、なにやら確信めいたものがある。少なくとも嫌な想像を膨らませてばかりだった夕貴と比べれば遥かに冷静だ。
「なんていうか……相変わらずお気楽なやつだよな、おまえは」
「お? バカにしてんな?」
「これでも褒めてんだよ。珍しくな」
確かに夕貴と託哉は普通の大学生だ。この街から一人の少女を探し出すようなコネもネットワークもない。何の力も借りずに響子を見つけられる可能性は限りなく低いだろう。
でも、と夕貴は思う。
こいつと二人で組んで、ここぞというときに失敗したことなんてないのだ。
どんな無理でも無茶でも無謀でも、自分たちの力で押し通してきた。
そのたびに響子が呆れて説教をかましてくるのがお約束だった。
今回は、俺たちの番だ。
「託哉」
「あん?」
「響子のやつ見つけて、死ぬほど説教してやろうぜ」
「オレはもう二年ぐらいは逆らえなくしてやるつもりだけどな」
決意を新たにすると、夕貴と託哉は二手に分かれて捜索を開始した。
託哉のおかげで自惚れることができて活力は湧いてきた。ただし、それはあくまでもガキなりの精神論であって、まだ現実的な問題が解決したわけではない。
これは決して遊びではないのだ。どうしても失いたくないものがある以上、最低限のラインは決めておくべきだろう。
あと少しだけ託哉と二人で探してみて、それでも響子が見つからなかったら、そのときは警察に相談しよう。ガキのいたずらだと思われてもいい。深刻に考えすぎだと笑われても構わない。響子の笑顔が見れなくなるよりはずっとマシだ。
もう日付が変わってしまっているとはいえ、夜の繁華街にはまだ大勢の人がいて、たいそう賑わっている。街頭に立つホスト、ガールバーの客引き、やる気がなさそうにカラオケ屋の看板を持って佇むアルバイトの青年、立ち飲み屋から聞こえてくる笑い声、道端で泥酔して壁と向き合っているサラリーマン。そのなかに響子の姿を探す。
焦りは次第に募る。人混みをかき分けて走る。四月の夜はまだ寒く、薄着で出てきたはずなのに、熱いのか冷たいのかも知れない汗が頬を伝っていく。酔っ払いが多くて、あまり奇異の視線で見られないことだけが救いだった。
喉が渇いて眩暈がした。雑踏の中で立ち止まって呼吸を整える。足を止めていると、自分がとんでもなく見当違いのことをしているのではないかという不安が押し寄せる。だから夕貴は顔を上げて、迷いを断ち切るように前を向いた。
覚えのある甘い香りが、すぐそばを通り過ぎていった。
漆黒に溶けるように濡れた黒髪と、落ち着いた清楚な服装は、だが夜の趣を漂わせる繁華街ではひどく浮いていて、夕貴の意識を強く惹きつけた。
相手もまた夕貴に気付いたのか、振り向いたのは同時だった。
「夕貴、くん?」
「彩?」
瞠目して彩は立ち止まる。どうやらここまで相当に走っていたらしく、日焼けを知らない白い肌には、夕貴と同じぐらい汗をかいていた。肩は上下に大きく揺れて、いまこうして立ち止まっても呼吸が整う兆候はない。頬にはほつれた髪が張りついていた。
偶然にも夕貴と遭遇したことに驚きながらも、彩の視線は絶え間なく周囲を追っている。その意味はすぐに察しがついた。
「彩も、探してくれてたのか」
「え? 夕貴くんも?」
どういう経緯で連絡がいったのかはわからないが、こんな場所に彩がいるのは響子を探すためとしか思えなかった。今日の夕方頃、お互いに家に帰ったはずなのだから、深夜を過ぎてわざわざ街まで出てくる理由なんてそう多くない。
「彩には連絡がなかったか? なんか心当たりとかあったりしないよな?」
「……ちょっと待って? 連絡ってどういうこと?」
「いや、だから」
お互いによほど余裕と冷静さを欠いているのか、話が噛み合っていない感覚にもどかしさを抱いた。
「響子から。あいつがどこいったか、どこにいるか知らないか?」
「……え」
その瞬間、彩の顔から表情が抜け落ちた。当然のことを訊いたはずなのに、返ってきた反応はまったく予想していなかったもので、その手応えの齟齬に夕貴は困惑した。
「響子ちゃんが……」
彩は俯くと、肩を落として脱力した。ついさっきまで必死に走っていた少女と同一人物とは思えない落差に戸惑う。なにやら様子がおかしい。
「おい、どうした?」
幼馴染の夕貴でさえ響子の行き先に見当がついていないことにショックを受けたのだろうか。かたかたと、彩の手は僅かに震えていた。
「彩、大丈夫か?」
「……あ」
名を呼んでみると、彩は茫洋とした目で夕貴を見上げた。少しずつ黒い瞳が現実に焦点を結んでいく。だがそこに映っているのは夕貴ではなく、隠し切れない諦観の色だった。それを夕貴は確かに感じ取り、彩は悟られてしまったことを悔いるように顔を背けた。
違和感。
友人がまだ家に帰っていないと、そう聞かされただけのはずだ。それなのに彩は、ひどく精神的に参っている。その動揺は明らかに本物だ。
まるで夕貴が考えないでいたことを、彩はそれしか思いついていないかのような。
彩を見ているうちに、かえって冷静さを取り戻した夕貴は、まずは優しい口調で宥めた。
「落ち着いたか?」
「……うん。ごめんなさい」
項垂れたまま、彩は抑揚のない声で言う。決して目を合わせようとしない。
「……とにかく、一緒に行動しよう。そのほうがいい」
こんな時間に彩を一人で出歩かせるわけにはいかない。響子が見つかっても、もし彩がいなくなってしまったら何の意味もないのだ。
なによりいまの彩を一人にしておくことは、夕貴にはできそうになかった。
足早になって、二人で街を歩いて響子を探す。
転機が訪れたのは、彩と合流してからまもなくのことだった。あまり歓迎できる類のものではなかったが。
キャッチをしていたスカウトマンが彩に声をかけてきたのだ。人混みのなかで夕貴と少しだけ離れていたところを捕まえられたらしい。遊びなれていなさそうな彩は、歓楽街を渉猟の生業としている者からすれば絶好のターゲットに映るのだろう。
むろん、彩は取り立てて愛想を見せることもなく断りを入れたが、それで相手は引き下がらなかった。世間を賑わせる少女の怪死事件が影響しているのか、夜の色事師たちも最近はよほど暇をしていると見えて、足を止めてしまった彩に熱心な口舌を振るっている。
「あ、あの。ごめんなさい。わたし、人を探してて」
進路を塞ぐスカウトマンの乱暴さに、ただ断るだけでは時間がかかると見た彩は、この場を離れる理由として事情の一端を漏らした。
「人? なんの? どういうこと? 俺でよかったら力になれるかもしんないよ? いや、絶対なれるよ。教えてよ。協力すっからさ」
彩のとなりに夕貴が立ったときには、もうすでにそんな会話が繰り広げられていた。道化染みた愛想に、ぴしりと亀裂が入る。
「あー、もしかしてだけど、探してたのって彼のこと?」
こくりと彩は頷く。小さな舌打ちが夜気を打った。空気が白けたところで、彩が耳打ちをしてくる。
「……夕貴くん、あの写真」
入学式のときの一枚をさきほど彩にも見せていた。なるほど、と夕貴は思った。ずっと街頭に立っていた彼らなら有益な情報を持っているかもしれない。藁にも縋る思いだった夕貴は、この際だから訊いてみることにした。
「すみません。じつは俺たち、この写真に写ってる子を探してるんですけど、見覚えはありませんか?」
「ああ?」
男は上半身を乗り出して目を眇めると、じっと写真を見た。その顔はとっくに歪んでおり、もう客商売をする者の表情ではなく、そこらにいるチンピラと同じだった。
「知らねえな。なんだい、この子。お兄さんのコレかい?」
ひらひらと、立てた小指を煽るように動かしてみせる。たんに憂さ晴らしでもしたいのだろう。あるいはよほど彩に目を付けていて、夕貴に邪魔されて腹に据えかねたのか。とにかく構っている場合ではない。
「知らないならいいです。すみません、時間を取らせました」
夕貴は手短に言葉を切ると、彩の身を守るような位置取りで歩き始めた。
また舌打ちが聞こえてきた。神経を逆撫でする笑い声とともに。
「それか、あれじゃね? いま流行りの、なんだっけか? トレンドに乗っかっちゃってんじゃねえの、その子。わっかんねえかな」
夕貴が肩越しに首だけで視線を投げる。厳しい目つきになってしまったのは、男の態度よりも、その言葉の続きが読めたからだろう。せっかくここまで必死に考えないようにしていたことだったのだ。
「だからよ」
にたにたと笑って、男は唇を舌で舐めて湿らせた。
「自殺でも、しちゃってんじゃねー?」
一秒とかからず脳が沸騰した。普段なら働くはずの理性は、疲労と焦燥に乱れていてまったく役に立たなかった。
「いい写真だよな。男を二人も侍らせてさ。そういう女って、わたし興味ありませーんって顔しときながら、実はこっちが引くぐらい強かったりすんのよ。性欲とか。あれ、もしかしてお兄さんも被害者だったりする? だったらごめんねー」
「てめえ……!」
駆け出そうとするのと、そんな夕貴の服のすそを彩が掴むのは同時だった。でも止まらない。止められるわけがない。こいつの無駄によく回る舌を一秒でも早く黙らせないと気が済まなかった。
「あ、玖凪くん……?」
しかし、彩のその一言が、暴発寸前だった夕貴の身を押し留めた。見れば、人混みの中でも目立つ均整の取れた長身が、こちらに向かってゆっくりと歩いてくるところだった。
託哉の冷ややかに澄んだ瞳が、何の興味も映さないまま、その場にいた全員を速やかに巡る。怒りと興奮を露わにする夕貴、それを宥めようとする彩。そして、卑下た顔で気取るスカウトマンの男。
それからの行動は速やかだった。
「うぜぇな、こいつ」
託哉は俊敏な動きで右手を伸ばすと、スカウトマンの首をがっちりと掴んだ。
「オレはよ、てめえみてぇな気持ち悪いやつが嫌いなんだ。消えるか死ね」
白い皮膚に食い込んだ五本の指が、みしみしと音を立てそうな勢いで、さながら万力のごとく締め上げられる。
「がっ、ぉ、あぁ……!?」
力は弛まない。男のつま先がわずかに浮き、身体が少しずつ持ち上がる。呼吸も阻害されて、反駁どころか思考もできないのだろう。もがき苦しみ、だらりと開いた口からぴくぴくと力なく舌を伸ばすことだけが、男に許された唯一の抵抗だった。
ここまで五秒にも満たない一連の流れは、もはや止める間もないほど突然のことだった。男の顔が土気色に染まってから初めて、夕貴は慌てることができた。
「お、おい! 託哉! 落ち着けこのバカ!」
「うるせぇな。だってこいつ消えるか死なねぇんだぜ? 優柔不断すぎるだろ」
「どんな理由だ! いいからもう手を離せって!」
「はいはい」
夕貴が止めに入ったのを見て、託哉はあっさりとスカウトマンを解放した。その場にしりもちをついて、赤い手形のついた首を押さえながら喘息した男は、冷徹な目で見下ろす託哉をあらためて視界に入れた瞬間、悲鳴を上げながら走り去っていった。
できつつあった人だかりは、むしろ通行人を押しのけて逃げ出す男のほうに奇異の視線を注いで、夕貴たちに対する注目はすぐに薄れた。
「おまえなぁ、いったい何のつもりだ?」
我を忘れそうなほどの憤怒も、託哉の有無を言わせぬ暴力の前には霞んだ。しかし、呆れたのは託哉も同じで、その顔には反省の色がない。
「オレの台詞だ。おまえこそ何やってんだ。遊んでる場合じゃねぇんだろ。それに」
夕貴の傍らで、事の成り行きを見守るしかなかった彩に目が向けられる。
「櫻井。へえ」
なにが託哉の興味をそそったのかはわからないが、おもちゃを見つけたように笑う。彩は気まずそうに俯いた。というか託哉のことが普通に怖かったのかもしれない。
「たまたま会ったんだよ。彩も響子のことを探してくれてて」
「彩? へーえ。ふーん」
「勘繰ってる場合か。なんかもういろいろあったんだ。とにかくおまえは無茶も余計なこともせず黙って響子を探せ。俺たちはこっち、おまえはあっち。いいな?」
「はいよ、師匠」
ぶらぶらと手を振って託哉は雑踏の中に消えていった。その背中が見えなくなるまで、彩は目を細めて注視していた。
「託哉のやつ、すぐにわけのわからないことやり出すからな。たまに意味不明なとこで、ああやっていきなりキレたりするし」
とはいえ、もちろん悪い奴ではない。彩が誤解して怖がらないようにフォローしてみる。
「キレてた?」
彩は言葉の意味を確かめるように小さく呟く。
「……玖凪くん、ほんとに怒ってたのかな」
だがその疑問の声は、託哉と別れてから秒速で次のトラブルに見舞われた夕貴には届いていなかった。今度はホストが声をかけてきたのだ。さきほどの男とは毛色が違い、少し年齢も高めで落ち着いた風貌だった。
宵っ張りの住人たちによからぬ先入観を抱いていた夕貴は、もちろん警戒したが、しかし男は頭を下げて申し訳なさそうに苦笑した。
「災難だったわねぇ、変なのに絡まれて。最近のガキってーのはどうも乱暴なやつが多くて困ってたところなのよぉ」
「は、はぁ……」
予想の遥か彼方を突っ走っていくオネエ口調に、夕貴は呆気に取られて、そう頷くしかなかった。現在進行形で変なのに絡まれている気もするがそれは考えないことにした。
「アタシが仲裁できればよかったんだけどねぇ。なまじシマが違うから、もし揉め事になったら首を突っ込んだこっちが槍玉に挙げられちゃうの。だからあくどい客引きが見えても、対岸なら目をつむるしかないのよね。もう、やんなっちゃう」
腰をくねらせて、パチっとウインクしてくる。夕貴の後ろで、彩が無表情のまま固まっていた。
「そんなわけだから、さっきのは正直、見ててスカっとしたわ。ちょっと乱暴なところがまた男の子よねぇ。ウフフ」
秒で消えたかったが、おそらくホストだと思われる彼(?)の口調は柔らかいわりに嫌味にならず、人当たりのいい柔和な雰囲気をまとっていて、嫌悪感の類は抱かなかった。くねくねしながらも、目には理知的な光が宿っていて、言動とは裏腹に物事を深く見ようとする人間なのだということが知れた。
彼は言う。話は聞こえていたから、もし困っているなら力を貸すと。
どうせ減るものでもないのだ。ダメ元で響子の写真を見てもらう。
「あぁ、この子、知ってるわよ。二、三時間ぐらい前かしら? あっちのほうに歩いて行ったけれど」
落ち着いた口調でわかりやすく彼は説明してくれた。その上、こちらの事情には余計に踏み込むことをしない。
ありがとうございます、と礼を言うと、見事な投げキッスが返ってきた。
「それほどでもないわ。あなたたち、タイプだもの。また縁があったら逢いましょう。おませさん」
深く感謝の意だけ捧げながら今度こそ秒で消える。ついてくる彩の足が速いのも気のせいではあるまい。
いままでずっと出口のない迷路を彷徨っているような気分だったが、ここにきて初めて光明が差した。たしかに響子はこの道を通ったのだ。それがわかっただけでも大きな収穫だ。
それからも歩いて、走って、立ち止まって、走って、走って、ただひたすらに探して。
精神的な疲れが、前に進む足を重くする。人通りは少しずつ少なくなって、明かりも消えて、その分だけ希望が減っていくような気がした。
ふいに彩が、何かに反応して俯きがちだった顔を上げた。そして雑踏の中に鋭く視線を走らせる。
「どうした?」
「……いま」
ぽつりと乾いた声を漏らして、彩は違う方向に歩き始めた。少しずつ足は速くなる。夕貴は慌てて後を追った。
ほどなくして彩は立ち止まり、きょろきょろと人混みを注意深く観察する。それに倣ったところで、月明かりを思わせる銀の色彩が、夕貴の視界の端を掠めた。
こんなところにいるはずのない女の面影。
「……ナベリウス?」
いや、気のせいか。よく目を凝らしても、それらしき人影はどこにもない。もし仮にいたとしたら、もっと目立っているはずだ。
そう思って、何気なく振り向いた先、それを目にして呼吸が止まった。
テナントが入っているかもわからない寂れたビルの非常階段に腰かけて、膝の間に顔を埋める少女がいる。
夜は深く、ただでさえ明かりは乏しい区画の、さらに死角となった場所。本来であれば人がいることなんてわからなかっただろう。でも幸いなことに夕貴は視力が異常によかった。検査でランドルト環のマークが見えなかったことはないし、一般的な人と比べて夜目も利くという自信があった。
まだ遠くて、暗闇のせいで輪郭はおぼろだ。顔が見えないせいで、かろうじてその影が女性であるということぐらいしかわからない。
それでも夕貴は、すぐに駆け出していた。
あいつの姿は、ガキの頃から嫌というほど見てきたんだ。いまさら間違うわけがない。
「おい、響子っ!」
近づいて声をかけながら肩を掴む。座り込んでいた響子は、まるで電流でも浴びせられたかのようにびくっと身体を跳ねさせた。
「わっ! な、なに? え? なに?」
パニックになって、あちらこちらに首を動かす響子。ぱちくりと瞬きして、呆けたように唇を半開きにする仕草は、まるで緊張感の欠片もない。
見たところ怪我はなく、顔色もよかった。いままで不安に囚われながら走り回っていた自分たちとの温度差が激しすぎて、気勢が削がれるどころの話ではなかった。
こういう場合、どんな反応をするのが正解なのか夕貴は迷って、思考を空白にしたまま二の句を継げないでいた。
「響子ちゃん!」
「えぇっ!? 今度はなに!」
続いて彩が響子のもとに駆け寄る。普段の慎ましく落ち着いた口調からは想像もできない悲痛に掠れた声だった。
響子の前に立つと、彩は自分の目で友人の無事を子細に確かめてから、ほっと安堵の息をついた。
「……よかった」
彩は脱力して、へなへなとその場に座り込んだ。細い肩が震えている。黒髪は乱れて、衣服は走ったせいで着崩れている。
さすがにその様子から尋常ではないもの感じて、呆れるぐらい暢気だった響子も、ようやく困惑に眉根を寄せた。
「ちょ、ちょっと彩? どうしたの? そんなところに座ったら服が汚れちゃうでしょ」
戸惑いながら響子が促すと、彩は顔を伏せたままぶんぶんと大きくかぶりを振る。響子はどうしたものか途方に暮れていたが、後ろ髪を引かれながらも彩から視線を切ると、答えを求めて夕貴のほうを一瞥した。
「それでさ、夕貴。こんなとこでなにしてんの?」
「バカ。俺の台詞だ。おまえがなにしてたんだ、こんなとこで」
怒るべきか心配したものか判じかねたまま、夕貴は力なく呟いた。
「あれ? なんか機嫌悪い? まあいいや。ちょっとなんか気分が悪くってさ。バイト早退させてもらって、あたしは……」
淀みのなかった声が翳り、記憶を手繰るようにひたいに手を当てる。
「あたしは……そうだ。家に帰る途中で、だれかに声をかけられて、それで」
「それで?」
「……どうしたんだっけ?」
「は?」
自分でも要領を得ないことを言っている自覚はあるのか、響子は頭をかいて誤魔化すように笑う。
「あはは、まあ細かいことはいいじゃん。とにかく体調が悪かったから、少しだけ休憩しよっかなって思ったわけなんだけど」
「少しだけ? おまえ、いま何時かわかってんのか?」
「まあ九時半ぐらいじゃないの、たぶん」
「……ほらよ」
夕貴は携帯を取り出すと、響子の眼前に突きつけた。
「……へ?」
呆然とした声が吐息となって漏れる。
「え? マジ? これぶっ壊れてる? 機種変いっとく?」
「壊れてたほうがよかったかもな」
「……ははあ、なるほど」
十秒ほど無言で携帯とにらめっこした響子は、あっさりとした口調で言った。
「まいった。寝てたわ」
「考えた末にそれか! ていうかふざけんなよおまえ! どんな神経してんだ!」
あまりにも響子が平静だったから、逆に拍子抜けして夕貴は怒鳴る。その威勢にびっくりして響子は身を竦めた。
「……え? あんた、もしかして本気で機嫌悪い?」
「知るかよ。おまえが見たままだ。俺たちがどれだけ心配したと思ってんだ」
「えーと、なんかごめん? で、いいのかなこの場合? もしかしなくても、探してくれてたりした感じよね?」
「…………」
「あ、あーっ! そういえば、あんたと彩、あれからずっと一緒にいたの? そのまま成り行きでデートしてたんでしょ? それでたまたまあたしを見かけたと。そういうことね? だからこんな時間になっても二人でいると」
「…………」
「あはは、なんちゃって。……だめ?」
「……もうなんでもいいけどな」
「まだ、怒ってる?」
「べつに最初から怒ってねえよ」
普段となんら変わらない響子の態度には、呆れを通り越して深い安堵感を覚える。やっぱり全ては夕貴の考えすぎだったのだ。結果論でしかないが、焦って警察に電話したりしなくてよかった。
事のあらましは、おおかた予想通りではあった。響子は体調不良でバイトを早退した。その帰路の途中、なんとも言えない気分の悪さを覚えて、この非常階段に座り込んだ。一息つくつもりが、どんな狐に化かされたのか知らないが、本人曰く寝過ごしたとのことで、数時間単位で休憩をかましたというわけである。
やはり、引っかかる。
この絵に描いた健康優良児が、いくら体調が芳しくなかったとはいえ、道端で数時間も寝てしまうなんて考えにくい。それほど具合が悪いのならまだわかるが、いまの響子は、むしろいつにも増して元気に見えるぐらいだ。
それに――いや、これ以上はやめておこう。響子が見つかった以上はもう詮無きことだ。
そうやって夕貴は、ひっそりと彩に向けていた視線を断ち切った。
ひとまず響子の弟に連絡して、姉の無事を伝えた。託哉にも同様の知らせを送り、現在地を教える。バイクを拾ってから来るそうだ。
響子を見ると、目が合った途端、姿勢を正して聞き入るような素直さをみせる。珍しく殊勝な行儀なのは、響子なりに申し訳ないと思っているからだ。それがわかっていても、つい夕貴の声には叱責の色が出てしまう。
「響子。おまえ、こんなとこで眠りこけるぐらい気分が悪かったんなら俺か託哉にでも連絡してこいよ。ちゃんと暇だったら相手してやってたぞ、暇だったらな」
「……その、ごめん」
夕貴と託哉と彩が、深夜を回っても家に帰らない響子を心配して街を探した。そのことを知ると、さすがの響子もしゅんと肩を落として、罪悪感に圧し潰されそうになっている。
そのとき、大型バイクを駆った託哉がやってきた。
「よぉ。プチ家出はもういいのか、非行少女」
「非行とかあんたにだけは言われたくないわ。ちょっと寝過ごしただけじゃない。だれにだってある可愛いケアレスミスってやつよ」
「こんなとこでイビキかます女なんざ、日本中探してもおまえぐらいのもんだと思うぜ」
「イビキなんてかいてないわ! へんな尾ひれつけるな!」
女子として譲れない尊厳があるのか、響子は勢いよく立ち上がって抗議する。やはり見るからに体調はよさそうだった。少なくとも夜遅くに街を走り回った三人よりは元気が有り余っている。
念のため、響子は家まで託哉がバイクで送っていくことになった。
「もしよかったら彩もうちに来ない? もう終電ないでしょ。今日は親もいないし、あたしんちに泊まっていったら? わたしは託哉のバイク乗せてもらうから、彩は夕貴にお姫様だっこして運んでもらえば夕貴も喜ぶわ」
「……おい」
「ありがとう。でも大丈夫。おばあちゃんの家が近いから、今日はそっちに泊めてもらうことにするよ」
「そっか。残念ね。夕貴が」
「おい、さっきから一言多いぞ」
「気にしない気にしない」
バイクの後部座席に跨った響子が、ヘルメットの奥からくぐもった笑い声を漏らす。よほど防音性能が高いのか、夕貴の抗議はまったく届いていない。
「……はぁ、気が重いなぁ。シュウになんて言おう」
ちなみにシュウとは、響子の弟のことである。本名は、藤崎周作という。
「悩むぐらいなら海いこうぜ、海。水平線のむこうから昇る日の出とか超憧れる。寒すぎる上になんでおまえと見に行かなきゃならねぇんだっていう根本的な問題があるから、途中で引き返す気しかしねぇけどな」
「え? あんたいきなりなにいってんの?」
「おまえバイク乗りながら電話できんのかよ。すげぇな」
「それは……」
すぐに響子は小さく笑って、大切な贈り物を受け取った少女のように目元を和らげた。
「……似合わない気遣い。託哉のくせに」
「おまえのイビキに比べたらな」
「バーカ」
長い付き合いである。お互いの性格はよく知っている。だいぶ苦しいところはあるが、姉が意味もわからず外で寝ていたと真実を告げるより、幾分か体裁は整うだろう。
「夕貴も、彩も。今夜はほんとにありがとね」
響子はむやみに謝ることはせず、最後の一言にだけ万感の想いを込めた。そんなのいいからとっとと帰れ、と夕貴は手で払う仕草をした。
「響子ちゃん」
バイクのエンジンがかかり、託哉がスロットルを回そうとしたところで、彩が声をかけた。
彩はしばらく響子のことを見ていた。どうしたの、と響子が首を傾げる仕草をしてみせると、彩はぎこちなく笑って相好を崩した。
「……ううん、帰ったらゆっくり休んでね。もうこんなふうに心配かけたりするの、やだよ?」
響子も笑って、頷きだけで返した。
「夕貴、彩のことちゃんと送っていってあげてね。なんて、あんたにはこんなの言うまでもないけどさ」
マフラーの低音が鳴りひびく。赤いブレーキランプが尾を引いて、託哉と響子を乗せたバイクは夜の向こうに消えていった。
深夜、彩と二人で帰ることになった。
闇は底を打ってもなお深く、その色を不気味なまでに濃くしていく。
夜明けはまだ遠く、不安という名の病が始まる。
次回 1-6『わたしを、見て』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます