15
目が覚めると部屋の中は夕闇に包まれていた。
大きな窓から見える藍色の空の端は、燃えるような橙色をしていた。
ぱっと散らしたような星がいくつか光っている。
冬の空だ。
冬の闇…
誰かが僕の髪を撫でている。
「…直さん?起きた?メシ来てるよ」
淡い間接照明を背に、常盤が僕を覗き込んでいた。
部屋の中がいい匂いに包まれている。
ふっと常盤が笑った。
「寝惚けてんの?」
「…え?」
「昼食ってないだろ、もう20時過ぎたよ」
20時?
窓の外は暗闇だった。
さっき見たときはまだ少し陽が残っていたのに、いつの間にかまた眠ってしまっていたようだ。
常盤が窓際のテーブルと椅子をベッドの傍まで運んできて手際よくテーブルの上に食事を並べていくのを、ベッドに起き上がりぼうっと眺める。
パンケーキ?
立ちのぼる甘い匂いに、ぐう、とお腹が鳴った。
「食べよう。ほら、冷めないうちに」
「あ…うん」
フォークを差し出され、僕はそれを受け取った。受け取ってはじめて、自分が備え付けのパジャマを着ていることに気づく。体が泳ぐほどに大きい…しかも、上だけ?
ズボンはどこだろうと見渡せば、なぜかどこにも見当たらなかった。
部屋を出なければという僕の心配はあっさりと覆された。
明日の昼までこの部屋はリザーブされていると常盤は言った。
ゆっくりと背骨を辿る指が、皮膚の下の骨の形を探るように何度も往復する。肉付きの薄い臀部を手のひらで寄せ集めるように撫であげられると、気持ちがいい。捏ね回されて一度開かれた奥が疼いた。うつ伏せて枕を抱く僕のうなじに笑いを含んだ口づけが落ちてくる。甘い匂いがした。
蜂蜜の匂い。
肩を掴まれ仰向けに返されると深く唇を重ねられる。潜り込んできた舌先にさっき食べた甘いパンケーキとコーヒーの味がした。
「ん…っ」
はじめよりもずっと優しい手つきで常盤が僕を求めていく。僕も彼を求め──性急なのもすごくいいけれど、こっちのほうがずっと気持ちが満たされていく。
手を絡めて常盤を迎え入れると、涙がこめかみを伝って落ちた。見られまいと顔を背けたら、常盤が僕を揺さぶりながら顔中に唇を這わせ、涙を舐め取っていった。あ、あ、と零れる声が速くなる。しがみつくと常盤はゆっくりとした動きに変え、わざと僕を焦らした。早く欲しくて堪らずに僕のほうから彼の唇を舐めると、僕の中にいた彼が震え、ぐっと奥までいっぱいに広がった。
「…あ!と、きわ、く…」
常盤が舌打ちをした。
「反則だろ、それ…」
「あッあ、…や、や、あ…っ!」
「…ったく、やだじゃないよ直さん…」
感じ過ぎてどうしようもなくて首筋に縋ると、馬鹿だなあ、と常盤が喉の奥で笑った。
「そんなことしたら…もっと、苛めたくなる」
「え、やっ…あ!」
逃げようと捩れた体を引き戻され、背中を掬うようにして抱き起される。片腕に脱げたパジャマがぶら下がっていて、僕の腿に被さった。
深く──彼が入ってきた。
「イあ…っ」
抱き締められ、ゆらゆらとあやすように揺らされながら、僕は追い詰められていく。蜂蜜のようにとろりとした光の中で、長く長く、彼の望むままに翻弄され続けた。
真夜中。
目が覚めて常盤を起こさないようにベッドを抜け出した。床の上に落ちていたパジャマを被り、ふらつく足取りでテーブルの上の水を飲みに行く。
部屋の中の明かりは全部落ちていて、カーテンを開け放した窓から、外の明かりが部屋を薄青く照らしていた。壁を斜めによぎる青い光。
ソファに腰を下ろし、テーブルの上の数冊のノートに手を伸ばす。一番上のものをパラパラと捲った。読書灯の明かりを小さくつけた。
グラスに注いだ水を飲んで、僕はそれを読み始めた。
***
2011年8月5日
今日はよく晴れた日で、暑かったけど、作
業もしやすかった。
私もだいぶん慣れた。真紀さんの教え方
は優しい。
きっと私にもこれからいろいろ出来てい
くんだと思う。
留海ちゃんはつまんないって言って遊び
に行った。
でも帰りにお菓子を買ってきてくれて、
それをおやつにみんなで食べる。美味し
かった。
そういえば直もこのお菓子好きだった
な。
2011年9月28日
私が家を出てから3か月、朝起きると留
海ちゃんがいなくなっていた。ここを出
て行ったみたい。真紀さんは気にしてい
ないみたいだけど寂しい。ずっと3人で
暮らせるかもって少しだけど思ってた。
今日からは真紀さんとふたりきりだ。
私が役に立つように頑張ろうと思う。
2011年12月11日
直の誕生日。おめでとう。いくつになっ
たかな、私と8つ違うから、ひとつ足し
て25歳だね。おめでとう。
おめでとう直。
直接言えなくて悲しい。あの写真があっ
たらよかったのに。本当にどこで失くし
たんだろう。
直が幸せでありますように。
***
日記は2年分が一冊に収まっていた。
最初の日記は新しい生活に慣れようと愛が必死に頑張っていたのが分かる。一緒に明日香さんの所に行った彼女の姪──留海は、わずか3ヶ月でふたりの元を離れたようだ。
2年目の分を読む。そこにも愛が明日香さんと過ごした日々が綴られていた。他愛もないことでふたりで笑い、小さな諍いを起こし、仲直りをし、出掛けた先での出来事、日々の暮らしぶりが愛の字で淡々と描かれている。留海の名はその後一度も出ない。彼女はふたりの所には戻ってこなかったのだろう。
時々僕の名前が出てくる。
その場所に来るたび手が止まった。
直、誕生日おめでとう。
このおかず好きだったね。
今どうしてるかな。
会いたい。写真をどうして失くしたんだろう…
会いたい。会いたい。
僕を恋しがる言葉。
3年目も4年目も同じようなことが続く。
5年目。
小さな変化があった。
2016年1月16日
私はきっと人とは違う思いをずっと
持っていると思う。
今日真紀さんが留守のとき、すごく寂
しくなった。
がらんとした家の中でひとりでいる
と、家族といたときのことを急に思い
出した。
あのころは息を吐くのも手を動かすの
も、両親の許可がなければ何もできな
い毎日だった。私は糸でぐるぐると巻
かれた人形だった。手足を自由に動か
せずにもがいていると、いつも直が来
て、その糸を切ってくれた。いつもそ
ばにいて、私をそこから出してくれた。
ひとりだと思い出す。このごろは特に。
両親はきっと私を今も捜していると思
う。だから私はここにいる。帰りたい
と思ったことはないけれど。
直、会いたい。会いたいよ直。真紀さ
んは優しいけれど、私は直にいてほし
い。
私は真紀さんが好きだけれど、時々迷
う。
2016年3月31日
今日は真紀さんの誕生日だった。
私は真紀さんの思いに気がついてい
る。
私と家族になりたいと思っている。
口に出しては言わないけれど、時々
そんな話になるときがある。
でも私は怖い。家族が、どんなもの
か知ってるから。
私の家族は私を愛してくれたけれど、
私を見てくれていたわけじゃなかっ
た。お義父さんもお母さんも自分のこ
とばかりだった。
家族はいらない。ひとりだけいればい
い。
だから家族だと思いたくなくて名前を
呼ぶようにした。
はじめて呼んだときすごくどきどきし
た。
すごくびっくりした顔がおかしくて
ずっと呼んでたら、困ったように笑っ
た顔が今も忘れられない。
2016年5月20日
農園の仕事でU市に行く。免許が取れ
ないから、すごく不便だ。運転を教え
てもらったけど捕まるわけにも行かな
いから、真紀さんのには勝手に乗れな
い。
U市の道の駅に野菜を卸した後、ふた
りで城址跡に行った。春に来たときは
桜がきれいだった。
もう夏のように暑い。ふたりで屋台の
アイスクリームを食べて海を見た。
海は好きだ。すごくすごく自由になれ
る。
私は自由になれる。
2016年6月23日
小さな明かりの中で手が止まった。
「──」
6月23日──
それは、常盤の父親が残したメモの日付けの前日だった。
***
今日も道の駅に野菜を卸しに行く。
夕方、真紀さんと用事で街まで出た。
でも私は人混みにいたくなくて、行く
途中に通りかかる城址跡で下ろしても
らった。
真紀さんの用事が済むまでひとりでぶ
らぶら散歩をした。
懐かしい人に会った。
その人は直の住んでる寮の隣の人。私
とも仲良くしてくれた茅山さんだっ
た。
結婚して、奥さんの実家に旅行をかね
て来ているみたいだ。奥さんは今お友
達と会っているみたい。子供もいるな
んて、あれからそんなに時間が経った
んだと改めて思った。
茅山さんはすごくびっくりしてた。直
には私のことを聞いてないみたいだっ
たから私も言わなかった。直のことも
話さないように気をつけた。
就職してこっちにいるってことにし
た。
茅山さんは私にアイスクリームを奢っ
てくれた。ふたりで濠の周りを歩いて
いると写真屋さんが写真を撮ってくれ
た。
あとで送ってくれるみたい。
茅山さんがトイレに行くとき、私に荷
物を預けて行った。
そのとき中身が見えた。直の写真を入
れた私のパスケースがそこにあった。
直がお祝いで私に買ってくれたもの。
私が失くしたもの。家を出た後直の部
屋に行って、でも直はいなかった。私
は確かドアを蹴り飛ばして、そこで茅
山さんが隣から出て来た。パスケース
はそこで落としたんだ。きっと。
どうして持っているのかと聞いたら茅
山さんは青くなった。
体が震えていた。
茅山さんは直のことが好きなんだ。
パスケースはボロボロだった。
こんなになるまで手放せないほど。
結婚もして子供もいるのに。
今もまだ直のことが好きなんだ。
ずっとずっと。
ずっとずっとそれを隠して生きてい
る。
この人にも秘密があった。おんなじ
だ。
私にも秘密がある。
だから誰にも言わないと言った。そ
の証に私は私の秘密を話した。
茅山さんに明日また会おうと言われ
た。
また明日同じ場所で会う約束をした。
***
日記は、そこで終わっていた。
残りをパラパラと捲る。
ノートの半分は白紙のままだった。
グラスの水を飲んだ。
思うよりもずっと喉が渇いていた。
ぼんやりと形を成さずに僕の中を頼りなく漂っていた考えが、ようやく形作られて僕の前にはっきりと現れた。
茅山が握りしめて死んだ愛のパスケース。茅山の妻の言うことは正しかったのだ。
茅山と愛の間を埋める接点は他でもない、僕自身だった。
僕こそが欠けたピースだったのだ。
書かれることのなかった翌日に一体何があったのか、僕は想像してみた。
会う時間は記されていない。
待ち合わせ場所にいる茅山、そこに向かう愛、思い浮かべる妹はなぜか後ろ姿ばかりだった。
その日常盤の父親もそこにいたのなら、愛は手紙を託したのだろうか。
ふたりは会って、そして…
晴れた日のその海の近く。夕暮れ、人気のない時間。
想像の中で話すふたり。
どんなことを話したのだろう。
茅山の胸の奥を抉ったもの。
そうさせるほどの何か。
それともはじめから茅山は決意していたのだろうか。
ほんの些細なきっかけで人は変わる。
どんなことが愛を──彼は。
どうやって──愛を。
「……」
けれど思うことのすべてが想像でしかない。
本当のところは誰にも分からない。
誰にももう手の届かない場所に真実はある。
死んでもなお胸の中に抱えて離さないその秘密を、一体誰が暴けるというのだろう?
部屋は青白かった。
気がつけば、常盤が僕の傍に立っていた。
近づいてくる足音に僕は全然気がつかなかった。
彼を見上げる。
「…読んだのか?」
僕の手元を見て、常盤は言った。
うん、と僕は頷いた。
「読んだよ」
常盤がひざまずき、僕の顔を拭った。
泣いてないつもりだったが、自覚がないだけで僕は涙を流していた。膝の上に広げたノートの上に、ぱたぱたと雫が落ちる。
「あ…」
ノートの字が濡れて滲んでいく。
滲んだそばから愛の字が消えていく。
どうしよう。
どうしよう。
消えていく。
「直さん」
「字が、消えて…」
指先で擦るとそれは形を失くして溶けていった。
じっと見つめていると、頬に伸びた大きな手がそっと僕を横向けた。顎先に溜まった涙を常盤の唇が吸い取っていく。
「直さんのせいじゃない」
首筋を舐められ、上がってきた舌が耳に辿り着き、深く唇を重ね合った。
涙の味がする。
塩辛い。まるで海の中で溺れているようだ。
「…俺に出来ることは?」
口づけを解くと、常盤が言った。
僕は望みのままを彼の耳元に呟いた。
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