5
来たときとまるで同じ景色が逆向きに電車の窓の外を流れていく。
翌日、僕は早々に自分の住む街へと戻っていた。
妹のいた場所を見ることは結局出来ないままに。
新幹線で3時間あまり、そこから乗り換えをして、自宅の最寄り駅に着いたのはもう夕方に近かった。飛行機でなら半分程ですむのだが、飛行機は昔から苦手だった。
いったん荷物を置くべく帰宅し、また慌ただしく出掛ける準備をする。
クローゼットの奥から黒のスーツを引っ張り出す。ここ最近は有り難いことに出番のなかったそれに、鏡の前で袖を通した。ズボンの腰回りが少し緩い。痩せただろうか?鏡の中の姿を確認する。どうだろう?意外と自分では気がつかないものだ。
黒のネクタイを締め、ソファの上に放ってあったコートをまた羽織る。コートはまだ自分の体温で暖かかった。
玄関に鍵をかけて時計を確認する。これはまずい。急がなければ間に合いそうにない。
僕は駅へと走って引き返した。
「久我」
改札を抜けると、人混みの中に僕を見つけた友人が手を上げて僕を呼んだ。僕も手を挙げ、駆け寄った。
「ごめん、待たせた?」
「いや、こっちこそ悪かったよ、休暇中って知らなくてさ」
「いいよ。今日には帰る予定だったんだ」
平日の月曜日。会社上がりの彼は当然のようにスーツ姿だった。黒に見えるほど深いネイビーのスーツ、今日の予定の為に、朝それを選んだのだろう。
「でもおまえが温泉とはねえ。どうだったあそこ、よかったか?」
「まあね、よかったよ。用事のついでだったし」
「へえ」
じゃあ行くか、と彼──
昨夜の深夜の電話は藤川からだった。彼は僕が以前勤めていた会社の同僚だ。同期入社で、部署こそ違ったが、新入社員研修で親しくなり、その後互いの家を行き来するようにまで仲良くなった。僕が以前の会社を辞めた後もまだ親交は続いている。
会社を辞めたとき、僕は彼に自分の性的嗜好をカミングアウトしていた。これで縁を切られるならばちょうどいいかと思っての事だったが──実際色々隠すのにも疲れていた時期でもあった──彼の態度は何ら変わることがなかった。
藤川の中では、犬好きや猫好きと大して変わらない、そういう人間もいるという受け止め方のようだった。
『こんだけ地球上に人が溢れかえってるのにさあ、皆が同じ方向向いてるって、なんか気持ち悪くねえ?』
まあ、確かにそれは気持ち悪いだろう。
何事にも鷹揚な彼に対しての僕の感情も、全くの友人だ。その枠からはみ出ない。僕に同性の友人だっていてもいいだろう?大体、彼には妻も子もいるのだ。
お互い、よい友人という関係だった。
その彼が真夜中に掛けてきた電話は、心底僕を驚かせた。
休暇を切り上げるほどに。
「でもほんと、突然だったよなあ、まさかあの人がさ…」
いまだに信じられないという思いが滲み出た藤川の言葉に僕は頷いた。僕もそうだ。まだ信じることが出来ない。
「こんなに早く死ぬなんてな」
まだ四十にもなっていない。
僕は死んだその人の顔を思い出す。同じ場所に住んでいた、あの頃。以前勤めていた会社の独身用の社宅、マンションで隣同士だったあの先輩の、いつも快活に笑っていた顔を、遠い記憶の中から引っ張り出していた。
『おう久我』
僕の名を呼ぶ声、先輩の名は
***
通夜の会場前で昔の同僚と鉢合わせをした。再会を懐かしむのもためらわれる。一緒になって中に入ると、そこここに見知った顔があった。藤川は、ごめんと言い置いて、彼らに挨拶をしに行った。皆、前の会社の人間だ。あれからもう何年経つのか、随分と老け込んでいる人もいれば、あまり変わらない人もいた。中には僕を覚えてくれている人もいた。見知った顔の人たちに一通り会釈をした。
「久我は変わらないな、全然年取った感じしない」
焼香を待つ間、会場前で会った元同僚の
親族席に頭を下げる。
茅山の奥さんはまだ小さな子供の手を握り、ぼんやりと濃い茶色のカーペット敷きの床を見つめていた。茅山は五年前に結婚をしたのだと来る道すがらに藤川が教えてくれてた。相手は同じ会社の部下だった女性、そう言われて、確かに見覚えがある気がした。名前に覚えはなかったが、僕がいたときに彼女も入社していたのかもしれない。彼女の方は僕が誰だか分からないようだった。
焼香を済ませ席に戻った。
僕は読経を聴きながら、もう一度彼女を見た。焼香の際に頭を下げる人々に、同じように頭を下げることをただ、繰り返していた。
通夜の後、これからまた会社に戻ると言う真田と会場で別れ、僕と藤川は来た道を辿って駅へと向かった。
互いに口数は少なくなる。
大通りに出て、それに添うようにある歩道を歩く。背の高い外灯がずっと先まで橙色の明かりで足下を照らしていた。幅広い川に差し掛かり、橋を渡る。大型トレーラーが風を巻き上げながらものすごい轟音を上げて横を通った。
体が持っていかれそうになる。
「なあ──さっき聞いたんだけどさ」
橋の真ん中まで来たとき、藤川が言った。
「茅山さん、事故死じゃねえかもしれないんだって」
「え?」
茅山は交通事故で死んだのだと、そう昨日、電話で藤川は言っていた。先週の土曜日、僕がM市に向かった日だ。対向車線に突っ込んだ茅山の車は走って来た車の後部を掠め、速度を落とすことなく歩道に乗り上げて横転し──
即死だったと…
藤川が僕を見る。
「自殺かもしれないって」
自殺?
じわじわと、言葉の意味が僕の内に浸透していく。
自殺──
最近、その言葉を、どこか別の場所で聞かなかっただろうか。
「嘘だろ?」
思わず言ってしまい、後悔した。
藤川が眉をひそめた。
「嘘なんかつくか、さっき、聞いたんだよ。茅山さんの上司に──」
その先の言うべきことを失くしてしまったかのように、藤川は何かを言おうとして、口を閉じた。気がつけば僕たちは立ち止まっていた。橙色の光の落ちる橋の上で。
「まさか──そんな」
僕が言うと、藤川はため息をついた。
「本当のところはどうだか…遺書があったわけでもねえし。分かんないけどさ、あの人の子、ウチのと歳同じだからさ、なんかやりきれねえわ」
「そうか…そうだな」
本当のところは誰にも分からない。
もう一度今度は振り払うように大きな息を吐くと、藤川はばん、と僕の背中を叩いた。
「なんか、飲みにでも行くか!茅山さん偲んで、弔い酒っていうの?」
「うん」
「しんみりしててもしょうがねえわ、な!」
茅山と藤川は同じ部署の先輩後輩だった。仲が良かったことを僕は知っている。他部署の僕を交え、よく3人で飲みに行ったものだった。
藤川が少しだけ無理したように笑う。
僕も笑い返した。藤川の肩越しに、大通りを行き交うたくさんの車のヘッドライトが交差する。
「行こう──」
言いかけて、僕は全身が強張った。
車の流れの向こう、反対側の歩道に歩く人影があった。
僕たちとは逆の方に進むその人を、通り過ぎるヘッドライトの光がさっと照らした。
浮かび上がる顔。
その目がこちらを見た瞬間、立て続けに大型トレーラー通り僕の視界を遮った。
「どうした?」
そんな──そんなわけがない。
引き寄せられるようにガードレールに飛びついた僕を、藤川が呼び止める。
「おい危ねえって!」
誰もいない。
轟音を響かせてトレーラーは遠ざかっていく。
僕は辺りを見回した。
消えた。
もうどこにもいない。
どこに──
得体の知れない冷汗が背中を伝った。
見間違いでなければ、あれは、常盤高史だった。
僕はコートのポケットに手を入れた。掴みだしたその手に、ぐちゃぐちゃにつぶした便箋を握りしめていた。
藤川に説明するわけにもいかず、一杯だけ飲んで別れた。お互いに明日も仕事だ。落ち着かない気持ちを抱えたまま、僕は家路を急いだ。
マンションの玄関に入るなり、携帯を取り出して常盤の携帯の番号を押した。
今回ばかりは自分を褒めてやってもいい。捨てるつもりで握りつぶしたそれを捨てることも出来ずに、未練たらしく持っていたのだから。
呼び出し音が続く。靴を脱ぎ、廊下を歩いてリビングに着いた。携帯を耳に押し当てたままコートを脱いでソファに放った。
少し焦れったくなった頃、呼び出し音が途切れ、留守番サービスに切り替わる。
通話を切った。
もう一度掛け直す。
同じように待たされ、再び留守番サービスに繋がる。
「もしもし?」今度は、僕は喋った。
「常盤くん、久我だけど──良かったら連絡してくれ。…待ってるから」
それだけ言って素早く切った。
廊下の明かりに照らされたリビングに、自分の長い影が落ちている。
僕はソファに座り込んだ。
電話を掛けたことで、頭の中が少しずつ冷静になっていく。
あれは本当に常盤だっただろうか。
僕を──追いかけてきた?──まさか。それはない。
だとしたらなぜ…
あのとき、彼がこちらを振り向いた一瞬、確かに僕たちの目は合った。
手に握りしめたままだった携帯を見下ろす。
彼は、掛け直してくるだろうか。
僕は待った。
だがその夜、日付が変わっても、常盤からの連絡はなかった。
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