第9話


「人間には『記憶する』だけじゃなくて、『忘れる』という機能も必要なんですよ」

 ——そう最初に言ったのは、誰だっただろうか。

「とても大きな事故で……脳の一部、主に記憶を司る部分が損傷していました」

 ——まだ思考の回らない頭を抱えている私には、その声はとても遠くに感じた。

「生命にも関わることでしたので、ご両親の了承のもと、脳の一部に人工知能を入れさせていただきました」

 ——言葉が右から左へと素通りしていく。

「と言っても、あくまで補助的な役割を担っているに過ぎませんから、生活はこれまで通り何も変わりませんので、ご安心ください」

 ——当時十五歳の私がその話の全てを理解するより前に、すべては終わっていた。

 私が目を覚ました時、私の頭の中には私以外の『意志』がもう存在していた。

「これから少しだけ経過を見させてくださいね。大丈夫、何も不安に思うことなんてないよ。これで君は間違いのない、正しい人生を送れるのだから」

 そう付け加えるように言われた言葉が、本当は一番重要だったことに私が気づくのは、もっと先のこと。

 ——変わらないはずの日常など、もうどこにもなかった。


「それでは、始めますね」

 白しかない空間に機械的なほど静かな声が響く。

 私は机を挟んで向かいに座る人物をじっと見つめる。

 血の気のない白い顔。まっすぐ伸びた黒髪は後ろで一つに結ばれている。揺れることのない視線が椅子に座っていながらも背が高いことを教えてくれる。組まれていた両手の小指が浮き出た木目をなぞるように規則正しいリズムを生み出す。コツコツと爪のあたる小さな音がここにはない時計の秒針を思い出させる。

「記憶はありますか?」

「……」

 何度と繰り返されてきた質問に、私はもう口では答えない。

 言葉にする必要はないのだと、もう知っているから。

 ただ目を閉じていればいい。

 私の頭に思い浮かぶもの、その全てが質問の答えになる。

 ——止まない雨の音。埃の溜まった自分の部屋。柔軟剤の香り。

 ——オレンジ色の傘の先に見えた大きなビル。

 ——耳を貫くような電話の着信音とぼやけた景色しか見せない大きな窓。

 ——整った文字を書く大きな背中に、恥ずかしそうに笑う常盤さんの顔。

 ——肩の先にかかる髪を揺らして、柔らかい笑顔で話しかけてくれた佐藤さんの顔。

 目を閉じていても、その光景が真っ白なこの部屋を埋め尽くすように投影されているのが伝わってくる。

「それだけですか?」

 ——反射的に振り払ってしまった手と、驚きが好奇へと色を変えていく大きな瞳。

 ——心配そうに気遣う優しい声と、支えてくれた大きくて温かな手。

 部屋の中を、私の頭の中を、埋めるのは鮮やかな優しい思い出たち。

「本当に?」

 ——初めて触れた唇の柔らかな感触と、自分よりも高い体温。

 ——抱きしめる腕の強さと、震えるように肌に触れる指先。

「あとは?」

 ——優しかった声に哀れむような雑音が混ざっていく。

 ——柔らかな笑顔に細められた瞳が強い憎悪を湛え始める。

 ——「牧園さん、本当に知らなかったの?あんなに一緒にいたのに」

 そう驚きながら軽蔑の眼差しを向けてきた各務さんの顔と、その後ろで顔を背ける佐藤さんの姿。

「それで?」

 ——それで……。

 蘇るのは誰のものともわからないほどに膨れ上がった声。

 これは、一体いつの記憶なのだろうか。

 ——「私の気持ちなんかわからないよね」

 ——「私は本当に友達だと思ってたのに」

 そうして向けられた視線がとても冷たかったのを、私はまだ覚えている。

 ——「……でも、牧園さんは悪くないよ、だって普通のヒトじゃないんだから」

「!!」

 思わず瞼を開いていた。バクバクとおかしなほど心臓が音を立て、吸い込んだそばから空気が消えていくみたいに呼吸が苦しい。じっとりと冷たい嫌な汗が背中を流れていく。そんな私をもう一人の私は表情一つ変えず、ただじっと見つめている。

「そんなこと覚えているから苦しむんですよ」

「……」

「大丈夫、今回はもっとちゃんと消してあげますから」

「……」

 ——何を間違えたのだろう。

 ——何を失敗したのだろう。

 補助的な役割を担っているだけだったはずのもう一人の私が、『私』の決定権を握っている。

 ——本当の私はもうどこにもいないのかもしれない。この真っ白な部屋の中、閉じ込められているのは私の方なのかもしれない。

「今度は間違えないようにしてくださいね」

 伸ばされた手が額に触れ、その指先から体温の感じられない冷たい温度が流れ込む。私は熱とともに流れていく涙が頬を伝うのも構わず、ぎゅっと強く瞼を閉じる。

「……私たちに失敗や不具合は許されないのですから」

 静かな声が途切れた後、最後に聞こえたのは、止むことなく降り続ける雨の音だった——。



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