第3話
——今日は、少しだけいつもと違う。
頭に響くはずの声は聞こえない。握りしめたペンは私の意思に従って文字を書き連ねていく。私の手の中、カチッとボールペンの芯をしまう音が響くほど、オフィス内は静かだ。
「……」
常盤さんからの電話を終えた私は、書いたメモを課長のデスクに貼るべく席を立った。大きな窓ガラスを背にする課長の席へと歩きながら、人差し指にくっつけたメモがわりの付箋を何度も見返す。日付、時間、誰宛の電話で、誰からかかってきたのか、その内容と折り返しが必要かどうか……頭の中に張り付いているはずのチェック項目を漏らさないように一つ一つ丁寧に確認していく。そうやって歩いていたら、あっという間に課長の机の前にたどり着いていた。
自分の人差し指から閉じられたノートパソコンの上へと付箋を移す。見慣れた自分の文字は、常盤さんが電車の遅延によって戻りが遅れていることを伝えている。常盤さんが電車を乗り間違えてしまったことは、私と常盤さんだけの秘密だ。
「よし」
一仕事終えたような心地になり、私は外気との温度差で曇ってしまっている窓へと近づく。22階から見えるはずの景色は降り続く雨に遮られ、その姿をぼやけさせている。そして反射して映りこむのは、どこか不安げに視線を揺らす自分自身だった。
そんな表情をしているのに、まっすぐに整えられた髪は後ろできっちりと一つに結ばれて、その先がかかる背筋もまっすぐに伸びている。社内の男性社員の平均と同じくらいの身長は、高い棚の上の荷物でも軽々とおろすことができた。細い手足にはしっかりと筋肉がついていて、あの事故以来これといって大きな病気をしたことのない健康な体も、聴きやすいと言われるよく通る声も、私を形作るものはどれもこの会社で働くにあたってマイナスになるものではない。それが私自身のものなのか、それとも誰かの手によって作られたものなのかはわからないけれど……
——私はこの外の景色の中へ、今度こそ行けるだろうか。
——雨が止んでも、私は普通に歩いて行けるだろうか。
伸ばした手が一瞬だけ冷たいガラスに触れ、指先に水滴が残った。雨で霞んでしまっている世界に、とても小さな、まるで覗き穴のような指跡だけが、鮮やかな色を残している。そこに映る私の顔は、先ほどとは少しだけ違うだろうか、そんなことを思った時だった。
「……今日のところなかなか良かったね」
「うん、また来週も行っちゃおうか」
「!」
聞こえてきた声に、私は急いで自分の席へと戻る。座り慣れた椅子に腰掛けると、いつもの見慣れた視界が戻ってくる。ふっと小さな息が漏れる。
「あ、牧園さん」
振り返ると、各務さんと話しながら歩いてきた佐藤さんが、入り口に近い私の席の後ろで足を止めていた。
休憩から戻るのはこの佐藤さんがいつも一番だった。午後の始業時間の十五分前、周りはまだお昼の余韻に浸っているのか、広いフロアには電話当番の私と、お昼から戻ってきた佐藤さんと、隣の部署の各務さんしかいない。各務さんは佐藤さんに「じゃあ、またね」と小さく声をかけ自分の部署へと戻っていく。
佐藤さんに話しかけられた私は返事をするタイミングを見失い、席に座ったままそのやりとりを静かに見守っていた。
「急にごめんね。今度、牧園さんも一緒にランチどうかなって」
「!」
「牧園さんが入社してもう一ヶ月なのに、ちゃんと話したことなかったから。業務で関わらないとなかなか話す機会ないじゃない?来週なら電話当番もないし、どうかなって」
佐藤さんがふわりと小さく笑うのに合わせて肩にかかる髪の先が揺れた。ほのかに届くのは優しい花の香り。白い肌の上でネックレスの先がライトを受けて光った。
私の胸の中はじんわりと温かくなっていき、言葉を探した声はわずかに震えていた。
「あ、えっと、嬉しいです。私も佐藤さんとお話ししたかったので」
「本当に?よかったぁ。じゃあ、来週よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
思わず席を立って頭を下げた私に、佐藤さんは「ふふ」とおかしそうに笑ってから「楽しみにしてるね」と言って課長の隣にある自席へと戻っていった。
その後ろ姿を見送り、私はそっと自分の手を握りしめた。
「……」
自分の心臓の音と、ゆっくりと上がっていく体温と、痛み始めた鼻の奥が、「嬉しい」という感情を私の中に作り出す。
お昼休憩終了のチャイムと同時に、午後の業務へと向かう人々の間を抜け、私はオフィスを飛び出す。
エレベーターを待つ私の手の中に、傘はなかった——。
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