第1話
——今日は、何か変わるだろうか?
地下道を抜けた先、傘を閉じて降りてくる人の流れを避ける。階段を一段一段上がるたびに私を包み込む世界は雨色に染められていく。
アスファルトの道の上で漂う雨のニオイ。平らにしきれなかった場所に小さくできる水溜り。自分の頭の上でオレンジ色の布越しに弾むように鳴らされる雨音。吐き出した息は白く消えていき、手袋を忘れた指先は冷やされて感覚がなくなっていく。赤く縁取られた傘を少しだけ傾けると、雲に覆われた灰色の空を背景に巨大なビルが視界に入り込む。その表面はガラスで覆われていて、中から漏れる光はどこかぼやけて見えた。
「……」
たどり着いてしまったことに、私はそっと息を吐き出す。
立ち止まった私の後ろからは途切れることなく色とりどりの傘がビルの入り口に吸い込まれていく。これから私もあの中に混ざるのだ。そう頭ではわかっている。わかっているのに、私の足は雨に濡れてしまった靴の先に重りをつけられたように動かなくなっていく。
私の視界は、雨の染み込んだ黒いパンプスと雨を吸い込んで暗い色へと変わってしまった地面しか見えなくなる。
——変わりたい。でも、また、失敗したら……。
飲み込んだ空気の冷たさを感じる余裕もないほどに、痺れるような頭痛が始まる。
「……っ、」
何度と見てきた光景がフラッシュバックする。
——窓のない真っ白な部屋。埃さえ見えない無機質な空間。たった一つの白い扉が開く瞬間。入ってきた人物が無表情で告げる言葉。
ドクン……ドクン……次第に大きくなる自分の鼓動に、近くの信号機で流れているはずのメロディさえ聞こえなくなっていく。
——大丈夫。まだ、大丈夫。失敗はしていないのだから。
そう何度も自分に言い聞かせるのに、一度止まってしまった体はなかなか再起動されない。傘の柄を持つ手は悴んでしまい、うまく力が入らない。足の先から冷たい温度が上ってきて、体から体温が消えていく。目の前で口を開けている自動扉に飛び込んでしまえば、この寒さからは解放される。
そう、そして昨日と同じように時間が流れてしまえば、私はまたあの温かい部屋に帰れる。誰にも邪魔されることのない私だけの小さな世界。私は扉を閉めるその瞬間に見えた電気の消えた室内を思い出す。
先ほど吐き出した空気を取り戻すかのように、私は鼻から大きく息を吸った。
「……よし」
小さな呟きは、きっともう口癖になっている。それでも、そんな小さなおまじないが、雨に失われた熱を少しずつ内側から取り戻してくれた。
——大丈夫。今日は何か変わるかもしれない。
私は吸い込まれていく、その流れの中に体を紛れ込ませるようにして足を踏み出した。
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