5
朝陽が「俺と結婚してよ」と言った日は二月の寒い日で、彼は病んでいた。
目の下にクマをつくり、頬がこけていた。こういう彼の姿を見ると、彼の部下や上司はなんと言うのだろうといつも思う。
「別にいいよ」
ちょうどわたしも「ほんとうに好きひと探し」に懲りて、ひとを好きになって誰かと結婚なんてするわけないと思っていた頃だった。
「いいけど、自分の子どもが欲しいの?」
わざわざ「結婚」という形に彼が拘るのか、わたしには理解できなかった。
「いや別に。そういうわけじゃない。別に結婚したからっていまとなんか変わったことがしたいとかじゃない。ただ、既婚者になりたくて」
わたしはずっと彼のゲイ隠しのカモフラージュとしての役を演じていた。でもそれは苦じゃなかった。誰よりも、わたしのことを理解して、傷つかないようにしてくれたのはほかでもない朝陽だったから。
「いとは、いとの気持ちを大事にして、俺はいままで通り、男と遊ぶから」
数秒考え、朝陽の顔を見た。
「いまは、無理だけどいずれ同性婚ができるようになるかもしれないじゃん」
朝陽は目を閉じて小さく首を左右に振った。
「俺は、枠にハマった生き方しか、できない人間だから」
喉が一気に乾いて、水分が目に集中した。
誰かを愛せるというのは素晴らしいことだ。映画で観るように気持ちが昂ったらキスをして体を重ねて、みたいなことと無縁なわたしからすればそういう愛の表現を知る朝陽は何の欠陥もないのに。だけど、朝陽がそう言うなら、わたしがきっとこれ以上何を言っても意味はないだろう。そう思いながらことばを続けた。
「いいじゃない。ご両親に自分がゲイだって説明すれば」
きっと朝陽はそんなことしない。彼の両親は、古風なひとで、朝陽を「完璧な子」として育てた。そしてきっとそれを朝陽自身自覚しているのだと、彼と時間を共にしながら気づいた。
彼は笑いながら鼻から息を出す。
「そういうの、俺はしたくないんだ」
素直に生きることが難しいことはわたしもよく知っている。
「泣いていい?」
そう言う朝陽は、優しい顔をしていた。わたしは頷きながら、朝陽より先に泣いてしまった。
「どうして、いとが泣くの?」
やはり相手が居るというのは、現在の日本を生きるのに圧倒的有利だ。二十八歳の朝陽にとって「既婚」というステータスがどれくらい意味のあるものか理解はできた。そのほうが「生きやすい」のだろう。——でも、そのラベルが一体、何だというのだろう。「他人」の存在が一体なんだ。誰に何を言われても、何を思われてもそんなもの一時的なものにしか過ぎないから、やり過ごせばいい。わたしたちの一生においてそんなものは一瞬で過ぎ去っていく。だけど、わたしも朝陽もそんなに強く生きられないことを自分たちがいちばん良くわかっていた。
いつの間にか眠ってしまい、ベッドから降りてリビングに戻ると朝陽がテレビを観ながら朝食を食べていた。
「朝陽、きのうは、ごめんね」
彼は振り向いてわたしのことを見るとその瞳に怒りなどまったくなかった。
「いいよ。生理?」
朝陽はむかしから、わたしの理解不能な不機嫌はすべて「生理」なんだと思う傾向にあった。生理でも生理前でもなかったが、とりあえず「そうだよ」と同調しておいた。
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