Side Another Egg of Voice Actress
scene 7ー9 extra たまごと遠雷
わたしの気持ちをぐちゃりと腐らせた一報は、無情にもたった一枚の印刷物に記載された一文だった。
それは梅雨入りしてから初めての晴れ間の日。レッスン前に担当講師から配布された、所属している声優養成所が発行しているA4版の定期通信。
トピックスのトップは常に養成所所長のありがたいお言葉が掲載され、養成所の開講日やちょっとしたお役立ち情報が並び、最後に養成所所属者のメディア出演情報が一覧として掲載される。
所長のお言葉は家に帰ってじっくり読むとして……と紙を半分に折ろうとしたところで、わたしは今一度紙を開いた。
そして一番最後のコーナーに記載されている養成所生のメディア出演情報欄に目を落とした。
見知った名前が記載されている。
詳しく言えば、去年、ジュニアコースで一緒だった同い年の女の子が、基礎科を飛び越えて本科に所属し、どういう経緯かは定かではないが、声優としてアニメーションに出演したらしい。
普段ならこのコーナーを特段気にも留めることはなかっただろう。
なぜならメディア出演欄に載るのは、本科や専科の事務所所属者様なのだから。
そしてわたし、
まだ生まれたての『たまご』である基礎科には、メディア出演なんてなんの縁もない話。
そりゃぁ、今すぐにでも声優になりたいけど、基礎科という殻の中にいるうちは、到底お上からのお声などかからない。
通常、予科クラスであるジュニアコースからは、その一つ上の基礎科へ進級するのが定説だ。現にわたしも基礎科進級だし、わたしが在籍を確認できたジュニアコースの同級生は皆、基礎科へと進級を果たした。
高校一年生は、余程のことがない限り基礎科。
だからわたしは勝手に、彼女もどこかの基礎科で元気に基礎練を積んでいるものかと思っていた。
「……へぇ。基礎科にいないと思ったら、本科に入ってたんだ……」
自分の心がぐちゃぐちゃと荒れて、レッスンが始まる直前のザワザワした喧騒も聞こえない。
ただプリントに記された彼女の名前と所属クラスだけが、わたしの目を釘付けにしていた。
どうしてあの子が、本科にいるの?
わたしは基礎科なのに。
どうしてあの子がアニメに出たの?
わたしの方が上手いのに。
どうしてわたしはあの子と同じステージにいないの?
わたしはなんであの子より下にいるの?
初めて知った。
あの子がわたしよりも、格上だったなんて。
そして、爽やかで通っているわたしの心に、こんなドロドロとした気持ちがあったなんて。
***
あの子と初めて会ったのは、二年前の春。
年度初めのレッスン開きでのことだった。
レッスン室の隅っこで小さくなっていたあの子。
声優志望者にしては随分と物静かで暗そうな子だな、というのが第一印象。声も消え入るくらい小さいし、肩を丸めて俯いているのが常だし、長い前髪の隙間から上目遣いで伺うような目線がまるで、獣の檻に放り込まれた小動物のようだった。
確かに、声優のたまごにはいろんな性格の子がいる。
ムードメーカー的存在の子や、そこにいるだけで華がある子。しっかり者で常に真っ先に発表するリーダータイプや、発表はある程度後でというしたたかな子や、消極的な子。
けど、こんな暗くて声もロクに出ない子、よく入所試験を合格したものだと思ったし、絶対に声優になれるわけないって思ってた。
だけどその年の梅雨ごろから、彼女はとある行動に出た。
レッスン開始十五分前に、レッスン室一番乗りで掃除しながら発声練習を始めた。そして、レッスン室の扉を開くクラスメイト全員に挨拶をするようになったのだ。
はじめこそ声が小さくて気づかれなくて凹んでたけど、徐々に大きな声が出るようなって。
気づいたことがある。
彼女の声は甘く華やかでまるでアニメのヒロインのような声だった。
音量は小さいけど、その声で自分の名を呼ばれた瞬間、わたしはひどくときめいたのを覚えている。
甘く華やかなその声は、このクラスの誰の声よりも特徴的で愛らしく、一度耳にしたら忘れることができない声だった。
彼女の声を聴いた誰もが思っただろう。
こんな声を持った子が声優になるのだ。
わたしも思った。
そして、わたしは初めて、何の特徴もない普通の声を持って生まれたことを恥ずかしく感じた。
だけど、技術面ではわたしの方が上だった。
声の大きさだって、声の通りだってわたしの方が
去年の12月に行われた基礎科への進級審査だって、わたしや他の受験生となんら変わらない演技をしていた気がする。それどころか年度末の所内公演ではわたしが主役を張り、彼女は脇役も脇役。セリフ量もわたしの半分以下。
なのに。
わたしが、『自分はこの子より格上だ』と慢心している間に、あの子はわたしなんか一足二足跳びで高みに昇っていたのだ。
そう思うと基礎科で基礎の基礎を習っている自分が惨めに思えて仕方がなかった。
もちろん、基礎がなってないなら基礎を練習して経験値を積むのは、役者に限ったことではない。
数学だって、1+1が2であることを知らなければ、引き算掛け算や割り算、因数分解や微分積分もわからない。
英語だってローマ字やアルファベットから言葉を積み上げるから、海外の人と交流ができる。
役者なら、まず、呼吸法や発声法、滑舌を経て、まず手につけるのが、歌舞伎の演目『外郎売』の暗唱だ。
彼女はきっと今頃、『
そう思うだけで、学校の勉強や部活の合間をぬって必死こいて覚えた『外郎売』の文言が、ボロボロと頭の中から
これから、外郎売をちゃんと暗記できたかの発表だってのに、あの子へのどす黒くドロドロとした気持ちが、頭の中からこぼれ落ちた文言を次から次へと飲み込んでいく。
拙者親方と申すは、お立ち合いのうちにご存じのお方も御座りましょうが、……
あの子は声が可愛かったから、たまたま基礎科を飛び級しただけだ。
……
本科所属のくせに外郎売を履修してないなんて、絶対に相手にされないんだから。
……
来年には、わたしが本科に進級する頃には、基礎もできていないあんな子は本科残留。すぐ追いつける。
……いや最前より、家名の自慢ばかり申しても、……
挫折しろ。挫折しろ。
あぁ。
彼女を腐すことで、自分の溜飲を下げるわたしは、最低だ。
だけど、どうしたらこの嫌な気持ちを消すことができるの……?
わたしだって、はやく夢を叶えたい。
明日にでも声優になりたいのに。
こんな殻、一刻も早くぶち破りたいのに。
結局。
わたしの『外郎売』の発表は酷く酷く散々なもので。呆れ顔の講師と、「吉野さんどうしちゃったんだろう」と動揺して揺れるクラスメイトの視線が、わたしをもっともっと惨めにさせた。
***
レッスン終了後。
今日は誰とも一緒に帰りたくなくて、わたしは駅へと向かう集団の一番殿に着いた。
わたしが発表で失敗したことを気遣ってみんなが話しかけてこないことをいいことに、わたしはゆっくりと足を進める。あわよくば集団からそっと離れて、一駅くらい歩いて頭を冷やしたかった。
そうでもしなければ、この気持ちの整理がつかない。
あの子への嫉妬心とか、仲良く振る舞ってた裏であの子を見下していたこととか、表面化したわたしの慢心とか。自分の嫌なとことばかりが浮かんでいく。
だけど、この気持ちを片付けるのには、一駅分歩いただけでは足りない。
歩いて歩いて、荒川を越えてもなお家まで歩かなければ、いつもの自分に……明るくて活発な『基礎科土曜14時クラスのムードメーカー・吉野小春』に戻れない気がした。
だけど遠くの空からは雷雲特有の黒い雲が徐々にこちらへと近づいている。
数時間前までは晴れてたのに、と黒雲を見上げながら、あの雲はまるでわたしのようだと思った。
腹にゴロゴロと怒りや悲しみや憤りを抱え、一瞬即発で溜まり込んだ不満をぶちまけてしまう存在。
それが今のわたし。
わたしはそんな雷雲を眺め、ため息をついた。
仕方ない。
このまま素直に電車に乗って帰るか。
あの雲が降らせる雨に打たれながら、こんな嫌な気持ちをに折り合いをつけて歩くなんて、クソ惨め以外の何者でもないからね。
もう一度、はぁとため息と吐いて、駅へとかかる跨線橋を渡り始める。
しかしこの胸のムカムカモヤモヤをどこに吐き出そうか。
わたしは無意識に、ショートパンツのポケットからスマートフォンを取り出す。
今ここで、
ネット開いて、
匿名掲示板に、
書き込むか。
本科で、
アニメに出た子の演技、
ドチャクソ下手だったよねわら。
なんであの子、本科にいるの?
何人釣れるかな。
レスバの嵐になって燃えるかな。
そうなったら、わたしの気は、晴れ、るの、か?
腐りゆくわたしの心を雷鳴が穿つ。
その瞬間、スマートフォンのバックライトがふっと消えて、画面に反射した自分の顔は酷く醜くて、ハッと我に返った。
その時だった。
「ほんとムカつく! アイザワミユウ」
ふわりとした声質の女の子が、ギャンギャンと吠えてる。
それだけならばわたしは「こんな道の往来で他人の悪口吠え散らかしてダセェな、近寄らんとこ」って思い、振り返らなかっただろう。
だけどわたしは、彼女が吠えた名前に思わず振り返ってしまったのだ。
目線の先にいたのは、ふわふわのツインテールをプリプリと揺らして愚痴る女の子。と、その取り巻きふたり。
あの子の名前を言ったから、本科所属の子たちで間違いなさそうだ。
彼女たちはその悪口を誰も聞いていないと思っているのだろうか。普段は可愛らしいのであろう顔を歪めながら嗤っている。
「アイザワミユウ、どうやって辞めさせよっか」
「無視する?」
「それいいかも」
「もう本当にあの声ムリ」
「あの男に媚びたような声、気持ち悪いよねぇ」
「精神的に潰せば、黙ってくれるかな?」
きゃははは。
彼女たちの表情は、さっきスマートフォンの画面に映ったわたしの顔によく似ていた。
だからなのだろうか。
わたしの胸の中のぐちゃりとしたものが、まるで下から炎で熱せられたように、沸々と湧き立ち始めた。
あの子が頑張って得た『声が出せるほど精神的に安定した状態』を、奪い取る気か。
お前らと、わたしの鬱憤ひとつで。
わたしは思わず嗤って、呟いてしまった。
「……暇か?」
相手は、さすが声優を志す人間。耳はしっかりと鍛えているようで、イレギュラーな雑音を発したわたしを捉えるや否や、ぎろりと睨みつけた。
「は?」
「なに、あんた」
3対1。
圧倒的にわたしが不利だ。
だけど、わたしには、心に一つだけ光ったものが味方した。
嫉妬心や慢心、不甲斐なさを抱いてもなお、わたしを突き動かしたこの気持ちがなんと言う名前なのか、わたしはまだ知らない。
「こんな道の往来で他人の悪口垂れ流して『暇か』っ
柄悪く吐き捨てる。すると、特にふわふわツインテールが頬を引き攣らせる。
「なんですって……?」
相手がキレればキレるほど、こっちの熱はすうっと冷めていく。
が、心はどんどん湧き立っていく。
「世間様に他人の悪口を垂れ流してる暇があったら、そいつより上に行けるように努力でもしろよ」
自分にも言い聞かせる。
肝に銘じろ。
いや、ひよっこにもなれない。
わたしの言葉は図星だったのだろうか。
ふわふわツインテールはフリルがたくさんついたトートバッグの肩紐をぎゅうっと握り込んで、鬼のような形相で吠えた。
「あんたに何がわかるのよ!! ジュニア上がりのド下手くそに全部持っていかれてるレミたちの気持ちが!!」
この一言で、この子たちがあの子の何に憤っているかがわかってしまった。
ジュニアコースは通常、基礎科へと進級する。
この子たちはたぶん、入所試験で基礎科から入り、今年度本科に上がったのだろう。
なのにあの子は基礎科を経ずに本科に上がってきた。
この子たちは、順当に基礎科を踏んできた自分たちの方が、あの子よりも実力は格段に上のはずだと、あの子を見下していた。
なのにあの子は、この子たちを差し置いてチャンスを掴んだ。
本来であれば自分がいてもおかしくないポジションに滑り込み、あまつさえ自分の手が届かない場所で活躍した。
わたしの方が実力は上なのに、選ばれるべきなのに、なんであの子が選ばれたのか。
悔しい、腹立たしい、憎い。
あの子さえいなくなれば――。
「……わかるよ!」
答えたわたしに、彼女たちは少しだけ目を丸くさせた。
まさかこんな言葉が返ってくるとは思わなかったのだろう。
彼女たちの憤りには共感する。
さっきまでがっつりとあの子を僻んでたわたしが、誰かに誰かを妬むな僻むななんて、言えた立場ではない。
だけど、やはり越えてはならない一線はある。
実力で、運で、才能で、誰かに勝てないのなら、せめて自分の心一つは美しくありたい。
そうありたかったのに、わたしは……。
ごめんね。
あんたを腐して、このぐちゃっとした気持ちを足掛かりに気持ちよくなりたいと思った。
跨線橋の下を行く電車が起こした風か、はたまたあの黒雲から吹き付ける風か。とにかく風が、俯いたわたしのボブヘアーを巻き上げて空へと上がっていく。
「……だけどな、人として超えちゃならい『一線』ってもんがあんだろ……」
風の勢いを味方につけ、わたしはまた顔を上げた。
「……ミユウは、ジュニアコースでも頑張ってたんだ! 苦手なこともいっぱいあったけど、人一倍頑張って頑張ってあの場所まで辿り着いたんだ!」
内気で人見知りそうなあの子は朝一番にレッスン室に入って、恥ずかしさに顔を真っ赤にしながらもクラスメイト一人一人に挨拶をしていた。
発声練習も、声が出ないなりに頑張って頑張って、やっと人並みの声量を得た。
ないところから積み上げてきた表現力も、レッスンのたびに良くなっていった。
入所時、ジュニアコースのお荷物だったあの子は、二年でクラスにはなくてはならない役者になっていた。
わたしは勢いで彼女らを指差し、さらに言葉を重ね、叫ぶ。
「お前らがミユウの何を知ってるんだ!! ミユウのなにを見てるんだ!! これ以上のあの子の悪口は、わたしが許さないから!!」
何にも知らないくせに。
あの子が人並み以上に努力していたことなんて、これっぽっちも見る気もないくせに!
西から流れてくる黒雲は、ゴロゴロと雷鳴を腹に抱えながらどんどん大きくなって、空の半分以上を覆ってしまった。
彼女たちはわたしの言い分を聞いて表情をさらに険しくさせたが、わたしを横目にお互いこそこそと耳打ちをするなり、ふふんと嗤う。
そしてわたしに近づいてくるなり、立ち止まった。
「……ってことはあんた基礎科ね? ……基礎科の分際で、本科様にデカい口叩いてるんじゃないわよ!」
たぶん、そこしか彼女らがわたしに勝てる要素がなかったのだろう。
そう言い捨てて、わたしの横を通り過ぎていく。
基礎科だの本科だの、ただのクラス分けに何を言っているんだ。本科がそんなに偉いんか。
そう思いながら、ぷりぷりと駅へと向かって歩いていく三人の背を横目で睨んでいたが、はっと気がついた。
わたしだって数時間前、基礎科だの本科だのこだわっていた。
わたしより格下のあの子が、どうして基礎科じゃなくて本科なのと。
跨線橋の下を走る電車の走行音と、雷鳴が共鳴し、ストロボみたいな強烈な光とともに、ぽつりぽつりと雨の粒が落ちてくる。
雨は、わたしの心の渇望に沁みて、忘れていた想いを呼び起こした。
あの子におはようと声をかけられたその瞬間から、わたしはあの子のことを好きになっていたんだ。
内気で暗そうだけど、話してみたら明るく楽しい子で、上手くできない子にはそっと寄り添う優しさもある。
努力家な面もあって、毎日の基礎練習をしっかりやってきたのだろう。日に日に演技や表現が上手くなっていく彼女に、クラスのみんなが触発されていった。
そしてジュニアコースの修了公演では、主役のわたしを立てた演技をしてくれた。
そして約束をしたんだ。
一緒に声優になろうね。
結果的にあの子の方が先に夢を叶える階段を駆け上がっている。
だから、わたしは腐ってる暇なんてないんだ。
抱いた感情や気持ちをずべて自分の中で味わって、消化して、芸の肥やしにする勢いで進まなきゃ。
わたしはあの子に追いつかなきゃいけないんだから。
わたしはこんなたまごの殻の内側で、不快な想いに飲まれて腐って死んだりはしない。
ちゃんと孵って、声優界の大空を羽ばたくんだ。
いつか、あの子に嫉妬し自分に絶望したこの苦い日も含めて、愛しい日々だったと呼べるように。
胸の奥で光った決意を胸に、わたしはにっと口角を上げて駅への道を走り出す。
大粒の雨をざんざか落としまくる黒雲は、わたしの心の邪気を払ってくれているかのように、さらに大きく雷鳴を轟かせた。
わたしという『声優のたまご』が孵るか孵らないかは、また別の話しとして。
家に帰ったらあの子に連絡をとってみよう。
そして伝えるんだ。
養成所からのプリント見たよ。
おめでとう。
わたしもすぐあんたに追いついてみせるから、覚悟しててね。
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