東京ボイスアクターズ(の、たまご)

宮下明加

プロローグ

scene X Prologue

 声優。

 映像作品や音声作品に自分の姿を晒さずに声だけで演技をする俳優のこと。

 その起源は、まだテレビができる前のラジオが情報発信源だった時代まで遡り、新劇俳優がラジオドラマで声で演技をしたこととされる。


 近年、声優の活躍の場は多岐にわたる。アニメやドラマCD、ラジオドラマなどの吹替や、ラジオ出演、ナレーションはもちろん、最近ではバラエティ番組での顔出し出演やミュージックシーンにも活動の場を広げている人気の職業。


 そんな華々しい声優の世界に憧れる志望者は少なくない。しかし、専門的な修練を積んだとしても、誰でも声優になれるほど甘い世界ではない。志望者が百人いたら事務所に所属できるものは十人以下。さらに声優という仕事だけで生計を立てられる者はごく少数と言われている。


 狭き門で、茨の道。


 それを承知の上で彼ら『声優のたまご』は、『自分こそ声優として孵れるたまご』だと信じ、日々の鍛錬を積んでいる。



 藍沢あいざわ美優みゆう

 黒く艶やかなロングヘアを姫カットに眉上で切り揃えられた前髪と、黒くはっきりとした大きな瞳が特徴的な中学三年生。


 彼女もまた、声優養成所・東京とうきょうボイスアクターズスクールのジュニアコースでレッスンを受けている『声優のたまご』の一人。


 ジュニアコースは、声優養成所に本格的に通える高校生以下の志望者が通える、いわば予科クラス。

 このクラスに所属している中学三年生レッスン生は、冬前にひとつ、決めることがあった。


 それは、今後も声優を志すのか、否か。


 声優を志す。

 それは茨の道。


 この先も声優を志すと決めた者は年末に行われる進級審査に挑み、養成所の基礎科以上の受講資格の可否を審査される。


 もちろん、美優も進級審査に挑んだ。

 この先の道が茨の道だとしても、美優にはその過酷な道を進む理由があったから。

 審査演技中、審査員の大人たちは終始真顔だった。けれど、演技を披露している間も審査前後も、とても楽しかったし、やりきったという手ごたえもあった。


 この審査には美優のほか、多数のクラスメイトも受験していた。そして後日のレッスンでは仲のいい友人たちと「基礎科に上がっても同じクラスだといいね」などと笑い合ったことを思い出す。


 あの試験から三ヶ月経った先週のレッスンの終わり。美優をはじめとした進級審査を受験したレッスン生は、担当講師からこう言い渡された。


 進級審査を受験した者には、来年度のクラス配属の知らせと受講手続きの書類が自宅に届くので、必ず確認するように。その結果と添付書類を見て、これからもレッスンを続ける意思のある者は、添付書類を確認して継続受講手続きを取るように。



 美優の元に、所属している声優養成所から大きな封筒が届いたのは、菜の花が咲き始めた三月の初めのこと。オレンジ色の夕陽に照らされたダイニングテーブルの上に、他の家族宛の郵便物と一緒に揃えて置いてあった。


 封筒の大きさから、進級審査の結果書類が入っていることがわかる。


 合格していれば、晴れて養成所の正規レッスン生として、声優への道の第一歩を踏み出せるのだ。


 美優はダイニングテーブルに置いてあるペン立てからハサミを抜き取ると、恐る恐る封筒の頭に刃を当てた。


 緊張で手が震える。

 高鳴る胸もうるさかった。

 

 だけど、中の書類まで切ってしまわないようにゆっくりと、封筒の上数ミリをハサミで切り落とした。


 こういう書類は、真ん中あたりに重要な本文が書かれているもの。

 美優は封筒の中へ指を滑り込ませると、封入されている全ての紙を摘んで、ゆっくりと上へ引き上げた。すると、徐々に文字が迫り上がってくる。



 20XX年度 クラスのお知らせ


 下記の通り、通知いたします。


 記


 東京ボイスアクターズスクール

 ジュニアコース 土曜クラス 藍沢美優


 次年度 本科土曜14時クラス に配属が決定しました。


 


「え」


 思わず声が出て、通知を引き出す手が止まる。

 

 誰もいない家の中。改めて誰もいないことを耳をそばだてて確かめてから、美優は書類に目を落とした。


 本科?

 

 基礎科じゃなくて?


 一瞬、自分が読み間違えてるんじゃないだろうかと思った。二度見三度見する。


 演技の楽しさを知ったジュニアコースのレッスン生が進級審査に合格すると、翌年度は基礎科で本格的な演劇の基礎を学ぶことが通例だ。


 なのにいきなり本科だなんて。


 もう一度、目を通す。

 見間違いかもしれないから、声にも出して読んでみる。


「……『ジュニアコース、どようクラス、あいざわみゆう。じねんど、ほんか、どよう、じゅうよじ、クラス、に、はいぞくが、けってい、しました』」


 耳から聞いた音に間違いはない。骨伝導で聞こえる甘く高い特徴的な声も、部屋に響き渡った声も、その報が間違いではないことを伝えている。


 基礎科を飛ばして本科に行くジュニアコースの人もいるなんて話は、今まで聞いたこともない。だけど、書類の上部に割り印が押され、下部には養成所の代表取締役の氏名の横に角印も捺印されている。

 これは、この紙面に記された記述に一切の相違はないということ。


「……信じらんない……!」


 思わず声が上がってしまう。

 自分に基礎が備わっているかと問われれば、必ずしもそうは言えない。だけどまさか、基礎科を飛び級したなんて。


 事務所所属は、所属審査を通過しなければならない。だけど本科では基礎科で行うレッスンよりも発展的な演技の勉強ができる。


 美優は養成所から『基礎科終了レベルに達し、本科で学ぶこと』を許可されたのだ。

 それに、基礎科を飛び級できたという事は、技術的には『あの人』のいる場所にぐんと近づいたということ。


 養成所側に自分の実力を認めてもらえたたことが嬉しくて、美優は封筒のまま書類をぎゅっと抱きしめた。自分の腕の中で紙がくしゃりと音を立てたが、気にしてなんかいられなかった。


 美優には大きな夢がある。

 自分も『あの人』のような声優になること。

 『あの人』と共演すること。

 そして、誰かの心に寄り添い、支え、生きる喜びを与えられる表現者になること――。


 夢のためなら、どんな困難も乗り越えていこう。

 早春の爽やかな風は彼女の誓いを後押しするかのように遥かへと吹き渡っていった。

 

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