第15話 アカネの家
「うわっ、懐かしいなぁ……」
「そう? 最近来てなかったもんねー」
放課後、アカネとともに彼女の家に向かった私は、団地にある小さな公園を見て思わず呟いた。
ここはまだ小さい頃、アカネたちと一緒に遊んだ思い出の公園だった。ずっと来ていなかったし特に来たいと思ってもなかったから行っても何も感じないだろうと思っていたけれど、違った。実際に見ると、公園にある遊具はカラフルだった塗装が剥げて大分錆びついてはいたけれど、昔の記憶がそれを補って思い出が色鮮やかに蘇ってきた。
「ちょっと遊んでいく?」
アカネが楽しそうにブランコの鎖を摑んでジャラジャラ鳴らす。
「うっ……、い、いや、いいよ」
ほんのちょっと後ろ髪を引かれたけれど、さすがにこの歳で公園で遊ぶのはきついだろう。そうだ、それにここには遊びに来たんじゃないんだ。
「ほら、行こう」
「えーっ」
不服そうにしながら、ジャラジャラと両手でブランコの鎖を鳴らすアカネの手を引っ張っていく。しばらく引っ張ったところであきらめたのか、「ちぇっ」と言うとアカネが私の前に立って歩き出した。団地の入り口に入っていくアカネの背中に私もついていく。
狭く薄暗い、ところどころ剥き出しのコンクリートがひび割れた階段をぐるぐると回りながら登っていると、急にアカネが立ち止まり、振り返った。
「うちに来るのどれくらいぶりだっけ?」
アカネは屈託のない笑顔で言った。さっぱりとした性格のアカネらしくもう怒ってはいないようだ。
「うーん、小学生の頃以来かなー」
「そっか、うんうん」
それだけ言うと、何も言わずに再び階段を登り始める。……聞いたことに特に意味はないのだろうか? アカネにはそういうところがあって、一人で話して一人で納得しているので周りの人間は何を考えているのかわからなくて困ることがある。
「ここだよ、覚えてる?」
アカネは立ち止まり、401の札が付いた扉を指差した。
「うーん……」
なんとなく四階だったような気もするけれど、薄い緑のペンキが剥げかけ錆び付いた扉は、公園の遊具のようには私の記憶を刺激してはくれなかった。
「そっか」
ほんの少し寂しそうに、アカネは言った。私が何かフォローしようと言葉を探していると、
「前に来た時とはちょっと変わってると思うけど、あんまり気にしないでね」
アカネは笑顔でそう言うと、ドアノブをひねって扉を開けた。私も言葉探しをやめて、慌ててアカネの後に続く。
「ただいまー」
アカネは無造作に靴を脱ぎ捨てると、スタスタと家に上がってしまう。
ちょっ、待ってよ!
ズンズン家の奥に進んでいくアカネを追いかけようとするが、さすがに人の家なので靴を脱ぎ散らかすわけにもいかず、一応きちんと靴を揃えてから向き直って玄関に上がる。
「わっ!」
玄関の入り口で何かにぶつかり驚いて隣を見ると、そこには小学生くらいの男の子がいた。何でここに男の子が? と思ったが、そういえばアカネには弟がいて私も昔、少し遊んだことがあるような気もする。
少年はじっと、ガラス玉のような無機質な瞳で私を見つめていた。私はあいさつをしようと、口をこんにちわの「こ」の字に開けたが、そこでハッと気がついた。
「どうしたの?」
ズンズンと先を進んでいたアカネが、廊下の向かいから声をかけてきた。その瞳には私しか映っていなかった。無視するわけではなく、本当に私しか映っていなかった。私しかいなかった。
「うん、今行く」
私は返事をすると、すぐにアカネの後に続いた。そして影がついてくるように、少年が私の後ろについてくるのがわかった。でも、私はもう気にしないことにした。
だって、彼女の弟はもう死んでいるのだから。
「よっ、ひさしぶり。元気だったか?」
「うわっ」
リビングに入った途端、肩を組まれて頭をガシガシと撫でられた。びっくりして身体を退くと、そこにいたのはアカネのお母さんだった。
「お久しぶりです」
「ははっ、懐かしい顔だな」
アカネのお母さんはそう言って、もう一回私の頭をガシガシと撫でた。髪はグチャグチャになるかもしれないが、私は決して嫌な気はしなかった。むしろどこか嬉しく感じられて、自然に笑顔になっていた。顔を上げると彼女も笑顔だった。
アカネのお母さんは元ヤンキーらしくかなり明るめの茶髪をして、服装もルーズで派手。でも、とてもさっぱりとした性格で、その気取らない感じが私は好きだった。
まぁ、最初は怖かったけどね……。
「何もないところだけど、ゆっくりしていってよ」
そう言うとアカネのお母さんはテーブルに着き、お茶とお菓子を差し出してくれた。
私も対面に座ると、「いただきます」と言ってお菓子に手を伸ばした。
「あっ」
しかし、そのお菓子は宙にふわりと浮くと、すーっと部屋の隅に飛んでいってしまった。
といっても、それは超常現象などではなく、ただアカネの弟が私の横からお菓子を取っていってしまっただけだった。
私がアカネの弟を目で追いながらどうしたものかと、ぼーっとしていると、
「どうしたの、食べないの?」
一部始終を見ていたはずなのに、そのことには触れずにアカネのお母さんが再度お菓子が入ったお盆を私に差し出してきた。これは別に、アカネのお母さんの躾がなってないとかそういうわけではないのだ。
「……いただきます」
お菓子の包みを開け、もそもそと口に運ぶ私。でも、部屋の隅でうずくまってお菓子を食べているアカネの弟が気になって仕方がない。気にしても仕方がないし、気にする方がおかしいのだが、どうしても気になってしまう。
「ほらほら、これもおいしいよ」
私の隣に座ったアカネが、別のお菓子を押し付けてくる。「まだ食べてるから」と手でそれを遮っていると、いつの間にかアカネの弟が来てさっきと同じようにお菓子を掻っ攫っていった。アカネは何事もなかったかのようにお盆から同じ菓子を取ると、
「ほらほら、おいしいから早く」
時が止まっていたかのように、同じ行動を繰り返す。
「…………」
私は無言でそのお菓子を取ると、無言で口に放り込んだ。「おいしい?」と聞かれたが、頭で色々考え込んでいるせいでちゃんと答える気になれず、ただ首を縦に振るだけだった。
あれは……、何なのかな?
私はお菓子を食べ終え、特に当てもなくトテトテと部屋をさまよっているものを、ジッと見つめた。
そうだ、あれはアカネの弟だ。確か昔、遊んだことがあるような気もする、彼女の弟だ。
でも、彼は死んでいる。それもわかる。
どうして死んでいるとわかるのかと言われても困るが、わかる。強いて言えば、存在がどうしようもなく軽く、薄っぺらいのだ。まるで幽霊のように見え、それなのに活き活きとして動いていて、それがまた何とも気味が悪いのだ。ある意味、死体……、というより全く動かない母の方がその点においてはまだ気持ち悪くはない。
アカネの弟が跳ねた。意味もなく跳ねた。そして転んだ。
死んでいるとはっきりわかるのに動きも仕草もまるで生きている人間、無垢な子供のように見えて私を困惑させる。
しばらくそのまま、混乱した頭をどうにか平静に保ちつつ、アカネとアカネのお母さんと世間話をしていた。昔のこと、学校のこと、家のこと(私の家のことは濁したけれど)……。
久しぶりのアカネのお母さんとの会話は楽しいものだったけれども、どうしても視界に入ってくるアカネの弟が気になって仕方がない。動き回るのに飽きたのか、今は床にだらんと両足を投げ出して座り、じっと感情のない虚ろな瞳で窓の外を眺めていた。
そんなアカネの弟の姿を見ていると……、なんだろうこの気持ちは? イライラしてきた? というよりは、面倒臭くなってきた、と言った方が正しいかもしれない。
「えっと……、あの子はアカネの弟さん?」
ちょっと悩んだけど、言っちゃった。
意地の悪い質問だとは思うし、快く迎えてくれた人達に対して失礼だとは思うけれど、私も必死なのだ。少しでも母をどうすればいいのかについて、ヒントになるようなことが知りたい。
私はじっとアカネの顔を観察する。困ったような表情や嫌な顔をされると思っていたのだが、アカネは普段と変わらない顔であっさりと言った。
「そうだよ。でも、もう死んでるんだ」
「死んで……」
わかっていたことだが、こうもはっきりすっきりと言われると、何か自分の方が間違っていたかのような妙な気持ちにさせられる。そっとアカネの弟に視線を移すと、彼もアカネと同じように全く表情を変えずに淡々と空を見つめていて、ゾッとした。
「……どうして?」
動揺を隠し切れない震えた声で尋ねると、アカネのお母さんがちょっと苦い顔をして言った。
「あの子は再婚した旦那の子でね、その旦那が他に女ができたって言って蒸発。それでこの子だけが残ったんだけど、旦那の顔に似ててムカつくから……、」
アカネのお母さんは煙草に火を点けると、ふーっと煙を吐いて言った。
「だから死んでもらったの」
その言葉は頭に響いて、痺れた。「もー、はるか来てるんだから煙草吸わないでよ」、「いーじゃん」などと、親子のたわいもない会話をしている二人を置き去りにして、私の心はどこか遠く離れたところに一人、佇んでいた。
その誰もいない場所で私は一人、じっとアカネの弟を見つめていた。聞こえているはずなのに、彼は何も感じていないような顔をして、ただ静かに雲の流れに目を凝らしていた。
しばらくそうして黙っていると、たいしたことじゃないとでもいうように自然とその話題は終わり、またとりとめもない話が始まった。
だけど、私はその話の流れには乗れずに、置き去りにされたままぼんやりとアカネの弟を眺めていた。彼は時折思い出したように立ち上がり、気まぐれにパタパタと動き回る。それは自分の存在を主張するための行為にも見え、また何の意味もない無垢な行為にも思え、私を悩ませる。
話しかけてもこないし、触れてもこない、でもはっきりと見えて私の視界を脅かすそれは、まるで私にしか見えない幽霊のようだった。
人間? 幽霊? アカネの弟を見ていると、私の中の人の定義が揺らいでくる。
私は彼を見て、「ああ、死んでいるな」って思う。
でも、何で?
人はどうやったら死ぬの? まだ動いているのに?
わからない……。何となく決まっている、この世の中での常識のようなもの。
私はチラチラと目の端に映る、「死んでいるモノ」を目で追いかける。彼が動くたびに私の頭の中で、「生きる」と「死ぬ」という言葉が交互に入れ替わり、激しくぶつかって火花を散らす。
死んでいるのに動く?
自分でもよくわからない。でも、何となくわかる。
……何それ? あーっ、もう、自分で言っててよくわかんない!
「あぁーっ!」
そんなことを考えていたら、頭が痛くなってきた。頭を抱えて奇声を上げた私を、アカネとアカネのお母さんが驚いた顔で見つめていた。アカネの弟ですら、ガラス玉の瞳でこちらを見ていた。
「ちょっ、どうしたの?」
心配して、私の肩を揺するアカネの手をそっとどけると、
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「えぇっ?」
呆気に取られている二人をよそに、私は立ち上がると通学カバンを持った。そしてスタスタと歩き出す。
「ゆっくりしていきなよー」
アカネに服の裾を摑まれ、振り返る。驚き、慌てている二人。そこの空気にはまださっきまでの楽しさの余韻が残っていて、少し後ろ髪を引かれる。二人は生きていた。
その時、すっと私の前を横切った何か。
私しか目で追わなかったそれは、アミの弟だった。彼は死んでいた。
もうここには居たくなかった。
「ごめんね」
たとえ嘘でも理由を取り繕う気になれなくて、私はただそれだけ言うと二人に背を向けた。アカネはそっと手を離してくれた。
「ま、またおいでよ」
「はい」
慌てて言葉を紡ぎ出したアカネのお母さんに淡々と返事をして、玄関に向かっていく。
玄関で自分の靴に足を伸ばそうとした時だった。後ろからまた、服の裾を摑まれた。
「…………」
彼だった。アカネの弟だった。
彼は何も言わなかったし、彼の目は何も語っていなかった。何かを訴えようとするでもなく、ただ姉の行為を写し撮るかのように服の裾を摑んでいた。
どうしようかと思い周りに視線を泳がすと、リビングの入り口のところでアカネがこちらをじっと見つめていた。その目はとても彼に似ていた。ガラス玉の瞳だった。
私は、そっと彼の頭を撫でた。
「ごめんね。生きていくって、大変なんだよ」
彼は、ぱっと手を離してくれた。私は靴を履くと、アパートの重い扉を開けた。
軋んだ音を立てて、扉が開いた。
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