第13話 生きている白

 翌日の朝、それは予想を裏切る早さでやって来た。私はあまり眠れずにぼんやりとした頭のまま、ぶらぶらと登校していたのだけど、教室の前に来たところで眠気が吹っ飛んだ。


「見えない……」


 何が? と問われれば、それは私の席。私の席が人混みに紛れて見えなくなっていたのだ。


 やばい。


 その光景を見て最初にそう思った。私は特に目立つところの無い普通の生徒で、こんなにクラスメイトに囲まれるような話題を提供できるような人間ではない。


 ということは、やっぱりこれは彼女が戻ってきたということで……。


「油断してた……」


 まさかすぐ翌日に来るとは思わなかった。業者で具体的に何をするのか知らないけれど、どんなに早くても二、三日はかかるだろうと思っていたのに……。


 心の準備も無いままにいざこうなってしまうと、どんな顔をして田中さんに会えばいいのかわからない。いや、正確には昨日の夜散々考えたのだけれど、結局考えがまとまらずにそのままあきらめて寝てしまったのだ。


 しばらくどうすることもできずに立ちすくんでいたのだが、


「あ、ごめんなさい」


 教室の入り口にぼーっと突っ立っている私を、迷惑そうにクラスメイトがすり抜けていく。


 あぁもう……、行こう。行ってしまおう。


 どうすればいいのかはわからないが、とにかく行ってしまえばもうこれ以上悩んで苦しむことはないんだ。


 私はズカズカと大股で、自分の席の近くで渦巻いている人混みを目指す。


「ちょっと、ごめんね」


 断りを入れつつ、人混みを掻き分けて自分の席を発掘して座る。みんな田中さんに夢中で私のことなど気にかけていなかった。


 ちらりと横目で田中さんを盗み見ようとするが、厚い壁に阻まれて隣の席だというのに見えない。それでもなお田中さんを見ようと人と人の隙間に目を凝らしていると、アカネたちと目が合った。


 アカネたちは意味深に笑いながら、ほらほらと田中さんの席を指差して私に見に来るように促してくる。素直じゃない私は、そういう風にされるとふいと視線を逸らして興味がないふりをしてしまう。本当はめっちゃ気になってるくせにね。


 そのままアカネたちの視線を感じながらもそっぽを向いてやり過ごしていると、チャイムが鳴ってドキッとした。名残惜しそうにしながらも、徐々にクラスメイトの壁が薄くなっていくのを気配で感じる。薄目でこっそりと教室全体を見回し、みんな席に着いて誰もこちらを見ていないことを確認してから、ゆっくりと彼女の方を見た。


 わぁ……。


「はーい、おはよう。ホームルーム始めるわよー」


 担任の声が、頭のどこか遠くの方で響く。私は彼女に釘付けで、担任にまで意識を向けることができない。私はただじっと彼女を見つめていた。


「はい」


 出欠で名前を呼ばれたらしく、気がついたら返事をしていた。全くの無意識だった。担任の声をちゃんと聞いていたわけではなく、今この田中さんとの時間を邪魔されたくなくてのどが勝手に返事をしたようだった。


 担任が何か話をしているがどうでもよかった。私はただじっと彼女を見つめていた。


 その内とうとう我慢できなくなって、私は籠の中から彼女の腕を取った。


「きれい……」


 心からの呟きは、自分でも聞き取れないほど小さな声で漏れ出した。紫の斑模様、グチャグチャの傷跡、いびつに飛び出した骨。そんなものはもうどこにもなかった。


 それは彼女の腕だった。白く透き通っていてすべすべしていて、みずみずしい肉が指先を快く押し返してくる。千切れて骨の飛び出していた部分も、丸く滑らかに肉で覆われ整えられていて、まるで最初からその形で存在していたもののようだった。


 彼女はとても綺麗になった。でも、それは単に見栄えがよくなったというだけではない。見た目が綺麗になるというだけなら十分に予想はできていた。ただ、予想外で驚き心動かされたのは、


「生きてる……」


 彼女は生きていた。というより、私が生きていると感じられたということだ。私は彼女が綺麗になって戻ってくるとは思っていたけれど、それは人形のようなマネキンのような物質的な綺麗さで、どこか冷たさや人工的なものがつきまとうものだと思っていた。


 でも、彼女は違った。彼女の腕は生きていた。肌の色は不自然な漂白されたような白ではなく、色白できめ細やかな女の子が憧れるような肌だったし、つやのある肌の下には紅い血管が透けて見えていた。彼女はしっかりと血の通っている生き物だった。さすがに動いている人間と同じように温かくはなかったけれど、彼女の底に息づいている何かから温もりを感じることができた。


 私は彼女の腕を膝元に置くと、周りに見えないようにこっそりと、ギュッと抱きしめた。今まで動かない子に対して感じたことのない、不思議な感情が心に広がった。


 ふと顔を上げると、ホームルームを終えた担任が教室から出るところで、私の方を見るとにっこりと笑った。彼女が来てよかったと思っているのか、私をからかっているのかわからなかったが今はどうでもよかった。この様子なら、昨日のことも特別報告しなくてもいいだろう。それに、今はそれどころじゃなかった。


 ……ああ、うざい。担任がいなくなった途端、またクラスメイトが押し寄せてきた。私は渋々彼女の腕を籠に戻す。そして決意する。次の休み時間が勝負だ……。






「な、何とか上手くいった……」


 ゼェハァと息を荒げながらも、ようやく一息つくことができた。私は屋上に続く階段の踊り場に、尻餅をつきながら座った。


 終業のチャイムが鳴ると同時に、クラスメイト達の制止を振り切って田中さんの乗ったカートを持って全力ダッシュ。そのまま人目につかない屋上へ続く階段の踊り場、つまりここまで田中さんをカートごと引っ張りあげてきたのだ。できれば校舎の裏とかもっと教室から離れて目立たないところに行きたかったが、時間がないのでしょうがない。教室からの距離で考えれば、ここが一番近くてなおかつ人目がなく二人きりになれるところだった。


「……うん」


 私は私自身の何かを確認するように頷くと、彼女に手を伸ばした。籠から彼女の手足を取り出すと、自分の隣にそっと置いて座らせる。そして、彼女をじっと見て一言。


「綺麗になったね……」


 言ってからすぐに、「私はいったい何を言っているのだろうか?」と思って、恥ずかしくなって目を逸らす。でもこれはしょうがない、だって本当にそう思ったんだもの。これはよく女の子同士がやるような心のない口だけのお世辞じゃなくて、本当に心から思ってつい溢れ出てしまったものだから。ただなんか、キザな男が口説いてるみたいな言い方になっちゃったけれども。


 私は恥ずかしさを誤魔化すように、さらに彼女に手を伸ばす。脚を膝の上に乗せると無遠慮にベタベタと触っていく。今までの遠慮がちな自分には考えられない行為だったけれど、衝動を抑えることができなかった。


「ごめんね、でも、綺麗だよ……」


 どこか頭が上の空のまま、うわごとのように呟く。やっぱり口説いているみたいだし、気持ちの悪いことを言っているとも思うけれど、でも言わずにはいられない。


 彼女を知ろうとする手も、自分の心を伝えたがる口も止められないまましばらく触り続け、私の心が爆発するように弾けたところで、気がつけば彼女をギュッと強く抱きしめていた。


「ごめんね、何やってるんだろうね、私……」


 いつの間にか、頬を涙がつたっていた。綺麗なのに、嬉しいのに、何でこんなに切なく悲しい気持ちになるのだろうか? 自分で自分がわからない。でも、とにかくちゃんとしないといけない。私はそっと目をつぶった。そして少し落ち着いた後、彼女をそっと隣に戻した。


 生きている……。この気持ちは何なんだろうか? 動かない子に対して、ただ頭の中だけで無理やり納得するようにではなく、心から生きていると思えたこと、それが何だかとても嬉しかった。彼女が生きていることを感じることで、自分も生きていることを実感できたような気がした。


「もうわかっているかもしれないけど、もう一回言うね。私の名前は、はるか。よろしくね、田中さん」


 私は田中さんの手をギュッと握った。動くわけがないのに、彼女も手を握り返してくれたような不思議な感触があって、ちょっとびっくりしたけど嬉しかった。


 そうだ、これが私にとっての始まりなんだ。ちゃんと動かない子のことを生きていると思えたから。自分のことも生きていると思えたから。


 だから、これからの私はもっと、今まで避けていた動かない子達とも自然に付き合えるようになるんだ。私は変わったんだ。


「あっ、時間……」


 ふと気付いたら、次の授業のチャイムが近いのか、廊下を慌しく移動するパタパタという靴音が踊り場まで響いてきていた。


「やばっ」


 慌てて田中さんを籠に乗せ、踏ん張りながら階段を降りる。そして目立たない程度に廊下を小走りでダッシュ。


「付き合わせちゃってごめんね、田中さん」


「…………」


 気付けば、田中さんに自然に声をかけていた。もちろん、田中さんは何も言わない。


 でも、何も言っていないわけじゃない。よくわからないけれど、多分そういうものなんだと思う。


 何もない、ただ壁に話しかけているようだった私の声は、ちゃんと人に向けられたものになっていたし、もうあの変な、一人で話している変な人と思われないだろうかというような、奇妙な感覚に陥ることもない。


 ちゃんと田中さんがいて、私がいた。


「私、変われたのかな……」


 ぽつりと呟いた言葉は、しんと静まり返った廊下に淡く融けて、消えていった。

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