第10話 お休み
翌日の朝、私はいつも通り自分の席でぼんやりぼーっとのんびりとした時間を……、過ごせていなかった。
「ふわぁ……」
気の抜けたあくびをして目元をこする。自宅に居ても落ち着かないせいかなかなか寝つけず、すっかり寝不足で、今朝も起きようと階段を降りる時に危うく母を踏みそうになってしまった。
母が原因で眠れなくなっているというのに、その母を無頓着に踏みそうになってしまうなんて、私自身、自分が繊細なのか図太いのかよくわからなくなってきた。
それに……、
「…………」
私は無言で隣の席をチラ見する。席は空っぽ。彼女は、田中さんはまだ学校に来ていなかった。昨日あんな別れ方をしたものだから、あの後どうなったのだろうかとついつい気になってしまう。
「どうしたの?」
自分の席でそわそわしている私を不審に思ったのか、アカネとミサキが声をかけてきた。
「えっ……」
今の気持ちをどう言葉にすればいいのかわからず、つい言いよどんでしまう。その間も二人の曇りのない瞳が、悪意のない純粋な責め苦となって、私を悩ませる。
「う、ううん、何でもないよ」
ようやく言葉を搾り出したものの、横からすいっとシホが顔を出してきて、私の耳元でボソッと呟いた。
「田中さんのことでしょ」
「ち、違うわよ!」
図星を突かれ、顔を真っ赤にして否定する私。何かもう、バレバレだしボロボロだ。
そんな私を尻目にシホは、いつものようにからかうような小憎らしい笑みを浮かべている。状況が摑めないアカネとミサキは、何をしゃべっているのだろうという顔をしてキョトンと首を傾げている。私はそんな仕草に説明を促されたような気がして、
「ただ、遅いなって……」
つい本音を漏らしてしまう。シホと違ってこの二人には邪気がない分、ある意味厄介だ。
「ああ、田中さんのことね!」
納得いったというように首をブンブン振って相槌を打つ二人。仕草が可愛くてすさんだ心が少しだけ癒された。
「早退したって言ってたし、心配だよね」
「そうだよねー」
「う、うん……」
二人に田中さん話を振られ、傷口を抉られるような気分になる私。その話題には触れずにそっとしておいてほしいのだが、私のことを気にかけてくれている以上無下にもできない。
そのまましばらく、「田中さん心配だね」トークが続けられ、さらに私の肩に手を置いて、楽しそうに揺れているシホ。ほんとムカつく……。
「はーい、おはよう。みんな席に着いてー」
友人の多重攻撃に体力をガリガリ削られているところに救いの神が。私は縋るように教室に入ってきた担任の顔を見つめる。
あれ? 担任がこっちを見ている?
一瞬目が合ったような気がしたけれど、気のせいだろうか?
担任はいつも通りに淡々と出欠を取っていく。私もいつも通りに淡々と、「はい」と判を押すような返事をする。その後もクラスメイト達との流れるような応答が続いたが、一瞬だけ空気が固まったような空白が生まれた。
「田中さんは、今日はお休みです」
担任の言葉に、教室がザワッとなった。でも担任はまるでそんなことには気付いていないとでもいうように、淡々と出欠確認を進める。クラスメイト達もその流れに引きずられるようにして、だんだんと静かになっていく。街中の人混みの喧騒のようだった空気が次第に落ち着いて、潮騒のようなささやきに変わっていく。
みんなは少しずつ落ち着いていったけれど、私の心はそれに反比例するようにだんだんと騒々しさを増していく。心に呼応するように、心臓もバクバクと、うるさいくらいに鼓動を早めていく。
えっ? あれっ? 心の中に色々な疑問符が浮かんでぐるぐる回る。出席をとる時間になっても居ないのだから、当たり前といえば当たり前で予想できた事態のはずなのに、何でこんなにショックを受けているのか、自分で自分がわからない。
ただ、何かにずっと追われているような、言いようのない焦燥感だけが心に染みのように広がっていく。
「はい、じゃあ今日も一日頑張りましょう」
出欠を取り終え、教室を出て行こうとする担任。私は慌てて担任を目で追いかける。
すると捕まえたのか捕まったのか、担任と一瞬、しっかりと目が合った。
すぐに担任は私から視線を逸らして前を向いて歩き始めたけれど、あの目は確かに私を呼んでいる目だったと思う。
担任の背中が教室から消える。私は立ち上がると、担任を追って廊下に飛び出した。私が担任の背中に声をかけようとすると、担任はくるりとこちらに振り返った。
「ありがと、気付いてくれてよかったわ」
担任はにっこりと笑うと、そんなことを言った。アイコンタクトなど当てにせず、何か用事があるなら普通に呼び出せばいいのにとも思ったが、言い出しづらいことなのかもしれないと思うと自然と身体が硬くなった。
「何かあったんですか?」
考えるより先に、口から言葉が出ていた。何か、とはもちろん田中さんのことだ。
「それがねー、田中さんの家と連絡が取れないのよ。時間ギリギリになっても学校に来る様子がないからさっき電話したんだけど、音沙汰なし。ご覧のとおり時間過ぎても教室に来ないしね。仕方ないから休みってことにしたけどさ」
「そ、そうなんですか……」
何とかそれだけを口から搾り出すと、私は口をつぐんで俯いた。いったい田中さんに何が起こっているのだろうかと、色々な想像が頭の中を駆け巡っては消えていく。その内それらの妄想がグチャグチャに混ざり合ってわけがわからなくなり、私は何も考えられなくなってしまう。
「田中さんのこと心配よね、はるかさん?」
「え、えっ? は、はい、そりゃまぁ……」
担任の問いかけに、しどろもどろになりながら答える私。会って一日しか経っていないとはいえ、彼女は私の心を揺さぶり、今の私の心の中の多くを占める存在であることは確かだ。といっても、それらの感情は必ずしも快いものばかりというわけではないのだけれど……。
「なら、田中さんの家に行って様子を見てきてくれない?」
「……はっ? ……えええぇぇっ!?」
突拍子もない発言のせいで担任の言葉の意味を理解できずに数秒、やっと担任の言葉が脳味噌に到達した瞬間、私は変な声で叫んでいた。
「ちょっとー、そんな大きな声出さなくてもいいじゃないのよー」
「あっ、すいませ……、ってそれどころじゃないですよ! 何で私が田中さんの家に行かなきゃいけないんですか!」
うるさそうに耳をふさぐ担任に、追い打ちをかけるようにまくし立てる私。
「だってー、あの人ちょっと変だから関わりたくないしー」
「あ、あんたねぇ……」
ぶりっ子しながら軽い口調でなめたことをぬかす担任に腹が立ち、ついあんた呼ばわりしまう。しかし、担任は特に気にした様子もなく続ける。
「うそうそ、ほら、はるかさんと田中さん仲良くなれたみたいだし、やっぱり気心の知れた人の方がいいと思ってね」
「べ、別に仲良くなんて……、まだ、会ったばかりだし……」
そうだ、田中さんとは会ったばかりだし、特別何かあったわけでもない。仲良くなれたとも思っていない。でも、それなのにどうして……、
「田中さんのこと気になってるのは本当でしょ? あなた動かない子とは距離をとってあまり関わらないようにしてるのに、田中さんのことはこうして自分から聞きに来るくらいだし」
「いや、それは……、呼ばれてると思ったから来ただけで……」
「私はちゃんとあなたを名指しで呼ばなかったんだから、無視することだってできたはずよ?」
「…………」
そう言われると弱い。私は何も言い返せなくなり、しばし俯いて考える……。
うん、まぁ、認めるしかないだろう。
そうだ、私は呼ばれて仕方なく来たんじゃなくて、田中さんのことが気になって、自分からすすんで来たのだ。
うん、確かにそうだけど、でも、だからって田中さんの家に行けって言われても……。
「無理にとは言わないわ。もしその気になったら放課後までに声をかけてちょうだい。田中さん家の住所教えるから」
「はい……」
担任はそれだけ言うと、背中を向けて歩き出した。私はその背中を見送り、ただなんとなくじっと床についた染みを見つめていた。
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