人なんか喰えるか!

こーらるしー

第1話 1皿目

 鳴瀬道矢(なるせみちや)はヤカンに手を伸ばしたまま動かなかった。

 いや、動かなかったのではない、このキッチンに現れた相手を前に動けないのだ。

 湯気を立てるヤカン、その向こうにある天ぷらや唐揚げで飛び散った油まみれの壁からぬらりとした物体が顔を出していた。

 灰色の液体を滴らせたその物体は鮫の頭部を思わせる形状で、道矢の上半身をパクリと飲み込める大きさだった。

 目があるべき場所はすり鉢状に窪んでおり、大きさが揃っていないギザギザ歯が並ぶ大きな口が左右にぬらぬらと揺れている。

 新宿に出たっていうニュースでやってた変種土魚(へんしゅつちうお)だ。

 よりによって何でこんな所へ……何で俺の前に来るんだよ……。

 そう思う道矢の脳裏に、この国どころか世界中を震撼させた半年前のニュースが浮かび上がる。

 新宿の地下通路で人が行方不明になる事件が相次いだ。

 防犯カメラに映っていたのはコンクリートの壁から飛び出し、通行人をくわえたまま反対側の壁に消える正体不明の生物。

 地下通路を閉鎖し、特殊部隊がその生物を退治するまでの一週間、被害者は六人に上った。

 土中を自在に動き回り人間を捕食する土魚が突如世界中に現れ、人類を土の大地からコンクリートの都市部へ追いやってから五年、今度は土中はもとよりコンクリートの中をも行動できる土魚が現れたのだ。

 これは人類の生活圏が更に狭められる事を意味しており、各国の首脳達を多いに悩ませる事となった。が、その後、コンクリートを行動できる土魚、つまり変種土魚が現れる事例は数える程しか無く、いつしか話題にも上がらなくなっていったのだが。

 沸騰のピークを迎えたヤカンがガタガタ揺れ始める。

 緩慢に頭部を左右に振っていた変種の動きが止まり、ヤカンへ素早く鼻先を向けるとそれに噛みついた。

 ジュウっという音と共に、笛のようなピャーッという悲鳴を上げた変種が口にしたヤカンを上へ放る。

 ヤカンは天井へ勢いよく当たり、中の熱湯が変種と道矢の頭上に降り注いだ。

 再び悲鳴を上げた変種が油ぎった壁の中へ吸い込まれるよう消える。

 道矢といえば頭を両腕で覆いながら歯を食いしばりようやく悲鳴を殺す事に成功したが、屈んだ拍子に尻もちを着いてしまった。

 ヤカンの沸騰する音が消えたキッチンに静寂が訪れる。

 くそっ、今のコケた音を聞かれたか? 

 あいつら目が見えない代わりに耳が異様にいい。

 でもヤカンかじって火傷した上、ドタマから熱湯被ったんだ。

 ここから慌てて逃げ出したに違いない。

 そう思いつつキッチンを見渡す道矢の目が止まる。

 壁から変種の灰色の鮫に似た背びれが出ていた。

 それは天井から時計回りに壁を伝いゆっくり下りてくると、そのまま床へ潜り込んだ。

 尻もちをついたまま道矢は軽いパニックに襲われた。

 ここから逃げたのか? それとも足元から俺を襲うつもりか?

 どちらにしても動けなかった。

 鮫が数キロ先の血のニオイを嗅ぎつけるのと同様、土魚の音を探知する能力はずば抜けている。

 僅かに腰を持ち上げる音も聞き逃さないであろう。

 ――――数分が過ぎた。

 耳に響く心臓の鼓動と静寂に頭がおかしくなりそうになったその時、背後でニオイを嗅ぐ様鼻を鳴らす音がした。

 それから間を置き、何かを食べる音。

 否が応にも聞こえてしまうその音に道矢はピンときた。

 調理の合間に摘まんでたピーナッツチョコを食べる音だーっ!

 このキッチンには俺しか居ないと思っていのに――――いや、そんな事はどうでもいい。

 この音、変種に気付かないで食ってんだろうが、この音はまずい。

 早く何とかしないと……。

 そんな道矢の思いもつゆ知らず感情が昂り裏返った女性の声がキッチンに響く。

「甘い香りに思わず引き寄せられてしまったが……何という……何という美味しさだ! こんな、こんな美味しいものがあるとは!!」

 道矢は緊張で固くなった首をカキンコキンと動かし背後を窺った。

「これは何と言う食べ物なのか、さぞ貴重なものであろう……むっ、いや、このような薄汚い場所へ無造作に置いてあったぞ。この美味しさに反し、大した食べ物では無いという事か?」

 コップや割り箸が積んであるテーブルの横に、ピーナッツチョコが盛られた皿を手にするショートウルフカットの女子が立っていた。

「む!」

 女子の切れ長で鋭い目が道矢を捉える。

 そして皿を持った手を突き出してズカズカ向かって来た。

「丁度良い、この食べ物は何というのか教えてくれないか?」

 頼むから静かに歩いてー!! っていうか動かないでー!!

 金魚の様に口をパクパクさせながら道矢は心の中で叫んだ。

「むっ! 勝手に食べて怒っているのか? す、すまない、あまりに美味しそうな匂いをさせていたものだったから……つい……」

 道矢の動きを非難と受け取ったのか、気まずそうに視線を逸らした女子が立ち止まった。

 それに少しばかり胸を撫で下ろした道矢はそーっと人差し指を口に当てた。

 女子がそれをポカンとした表情で見る。

「何だ、それは?」

 小さく頭を傾げる女子。

「むっ! も、もうこれを食べるな! という意味か? わ、わかった! もう食べないぞ」

 それに首を左右に振る。

 違うって、わかんだろ普通!

 道矢は泣きたい気持ちになった。

「その証拠にだな、ほら元の場所に戻して……」

 女子がその場でくるりと身をひるがえした。

 ところが勢いが良すぎたせいで皿が手から滑り、宙を舞う。

 落下地点は皿は尻餅ついた道矢の前、盛大にピーナッツチョコが飛び散る。

 と同時に、そこから変種の頭が現れた。

「うあ!」

 心臓が飛び上がらんばかりに驚いた道矢は四つん這いになり、小型犬の様チョコチョコ手足を動かしてその場から逃れた。

 出現した衝撃で飛び上がった皿やピーナッツチョコが変種の大きな口の中へ消える。

 変種は口を閉じると再び床の中へ音も無く消えた。

 四つん這いのまま静止する道矢は顔を上下左右に動かし変種の姿を探した。

 俺の動きは間違いなく感知された。

 やばい! もうダメだ、ここは走って逃げるしか……。

 イチかバチか走りの一手に出ようとする道矢の目が大きく開かれた。

 変種が正面の壁、丁度道矢と向き合う形で顔を出していたのだ。

 どろりとした変種の鼻面が道矢の顔に近づき、灰色の粘液が滴る口がグチャリと音を立てて開く。

 想像を絶する苦痛を覚悟した道矢が目を閉じる。

「おい」

 チョコをつまみ食いしていた女子の声。

 そして、ピシャー! という変種の鳴き声が道矢の耳をつんざく。

 何!?

 恐る恐る開けた道矢の目に飛び込んできたのは変種の頭頂部を右手で押さえつける女子の姿。

「よくもその美味しい食べ物を横取りしてくれたな」

 屈みながら片手一本で変種を押さえつける異様な姿とは裏腹に、女子の声は恐ろしく静かだった。

「この下僕が!」

 押さえつけている手に力が込められ頭にめり込んでゆく度、笛のような鳴き声を撒き散らし変種が暴る。

「分をわきまえろ」

 女子が片膝を着いてしゃがみこみ、二の腕まで変種の頭に手がめり込んだ。

 笛の様な鳴き声が切断され、ゴボッという音を最後に変種は動かなくなった。

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