第44話
歩に登山道具を手渡し、世界が終わるまであと二十時間を切った頃。
小百合は咲希の家にいた。
「今日はお砂糖何個いれます? お菓子もありますし少なめにします? いっそたくさん入れちゃいましょうか」
「……二つで」
咲希の家には何度も来たことがある。勝手知ったる小百合は咲希を差し置いて紅茶を淹れる。ちびちび飲んでいた高級な茶葉も出し惜しみしない。以前に買いだめしたお菓子も全て持ってきた。
明日まで残しておいてもしょうがない。ダイエットとか健康のこととか考えたところで明日死ぬ。開き直って楽しむつもりでいた。
咲希は自分が用意すると言っていたがどこかぼんやりしている。食器に触らせたら落として割って怪我をしそうなので断った。今は所在なさげにリビングから小百合を見ている。
最初の一杯は小百合が用意した。多めに淹れた紅茶はティーポットに入れたままリビングに持っていく。
「お待たせしました」
「ありがと。……おいしい」
二人でさっそく紅茶を口にした。咲希の口にあったようで安心する。
ほう、と息をもらす小百合は昨晩に比べると落ち着いた様子である。
とはいえ、昨晩はあれほど取り乱していたのだ。急に触れることも憚られ、せっかく楽しい時間なのに咲希を放置したやつらの話を振るのも嫌で、他の話題を探すことにした。
リビングを見渡すとテレビの横のラックにコルクボードが置いてあった。そこには風景の写真などと共に、咲希と咲希の両親が映っている写真が留められていた。
「そういえば、ご両親は旅行に行っているんでしたっけ」
「うん。今はふたりでのんびりしてる頃だと思う」
「咲希は一緒に行かなかったんですよね」
行けなかったでも誘われなかったでもなく、行かなかった。
咲希の両親が旅行を始めた頃にそう聞いていた。理由は確か、
「ご両親の仲が良いんですよね。邪魔したくないんでしたっけ」
「そうそう。二人ともいまだにお互い大好きだからね。最期くらい夫婦水入らずで楽しんでもらいたいじゃない」
「相手にそのつもりがなくても、邪魔ものみたいになったらつらいですし」
「それもあるけど、……正直、この年になると両親がべたべたしてるのを見るのがつらいっていうか、一緒にいると恥ずかしいっていうか」
咲希も思春期なのである。
「一番は、疎外感ありそうなことなんだけどね」
咲希の両親は極めて仲が良い。夫婦であり恋人であり親友であるかのような、それぞれの良いとこどりをしたような関係を築いている。咲希が生まれてからずっと良好な関係を保ち続けており、咲希から見ても素晴らしい関係に思える。
二人の関係だけで完結することはない。咲希を含めて家族仲は良好である。数年前から留守がちであるが、ちょくちょく家にお土産と共に帰ってきては咲希を旅行に誘っている。咲希を心配して家のガラスを強化ガラスに替えているくらいで、間違っても咲希をないがしろにすることはない。
「疎外感ですか。ご両親も、咲希がいたら咲希と一緒に楽しめるような日程にしそうですけど」
「そうなんだけどね。でもそれは二人が一番楽しい旅じゃないんだよ。きっと私がいても二人とも楽しんでくれる。けど、二人だけなら私がいるよりもっと楽しいの」
両親が直接口にしたことはないが、そう確信している。
両親は咲希を愛している。けれどそれ以上に、父は母を、母は父を愛している。父の一番は永久に母で、母の一番は永久に父であると肌で感じている。
一番好きな人と楽しんでいるところに、二番目に好きな人が割り込んでも邪魔なだけだ。
二人だけなら純粋に楽しいところにわずかな妥協が混ざる。
咲希は両親が好きだ。だから最期を妥協して過ごしてほしくない。
「きっとこれでよかったの。みんな自分で選んだ場所で、一番好きな人と最期を迎えられるはず」
「健治さんは咲希のことが一番好きだと思うんですけど」
「私もそう思うって言ったらうぬぼれかな」
「誰もそんなこと言わないですよ」
健治と咲希を知っている人ならば誰もうぬぼれなんて言わない。呆れ混じりに「でしょうね」と同意するだろう。
「そっか。でも、健治はこのまま私と最期を過ごしたら後悔……じゃないな。心残りが出来ると思う。だから今、健治がいないのは意外でもないんだ」
健治は咲希が好きだ。咲希も健治が好きだ。だから二人は付き合っていた。
しかし、咲希は健治と終わりを迎えることはないと感じていた。
特に理由はない。ただなんとなく、自分と健治が一緒に死ぬ未来を想像できなかった。
理由を考えてみたら真治の存在にたどり着いた。真治という心残りを抱えたまま健治が死ぬのは良くないなと思った。
ここ最近は真治の家に行っていない。行っても真治はいないからだ。
世界の終わりが近付くほどに看護師は減っていた。医者も事務職員もどんどんいなくなり、何をするにも手が足りない状態だった。
真治は辞めないのかと尋ねたところ、辞めないよと端的な返事が返って来た。
何か譲れない部分があることは容易に察せられた。以来、咲希は仕事のことに言及することをやめた。
ある日、夕食を作りに真治の家に行くと、いつにもまして真治の顔色が悪かった。
『これからは家に帰らない日が増える。予定も立たない。健治のことはきちんと考えるから、もう家には来ないで』
こんな顔色の人を放っておけるかと言ったら、真治は優しく微笑んでありがとうと言った。
いつになく柔らかな調子の声だったが、今まで言われたどんな言葉よりも強い拒絶を感じた。
何度かこっそり尋ねて部屋の様子を覗いてみたが一度も会うことはなかった。空き巣と思われたのか警察を呼ばれてからは訪ねていない。
健治の様子を見た限り、真治は健治と会っていない。健治のことを考えるという言葉が嘘とは思わなかったが、結局会わないことを選択したのだろうか。
「じゃあ、咲希は最期に誰と過ごすつもりだったんですか?」
「それは……」
健治と真治のことを考えているところに不意打ちの質問が刺さった。小百合に聞かれてもはぐらかせるよう心構えをしていたのだが、動揺してしまった。
「今の話だと咲希はぜんぜん自分のことを考えてないみたいです」
「実はその通りでただただみんなの幸せを願ってるとか思わない?」
「思いません。咲希はまず自分のことをなんとかしておかないとひどいことになるって知ってます」
「……それはそう」
誰かのためだと言って自分の足元がおろそかになれば、自分の問題と誰かの問題が絡み合って大騒動になるのである。
誰かの力になるためには自分の足場を整えておかなければならない。仮に健治と秀人にトラブルが起きて、咲希が力になろうとしても、咲希自身の足元がおぼつかない状態であれば二人は助力を断固拒否するだろう。
「ゆりちゃんには気持ち悪いことかもしれないけどさ」
やがて咲希はしぶしぶと口を開いた。
他の誰に言うことがあっても小百合に言うことはないと思っていた。
「私、最期は秀と一緒にいるものだと思ってたんだよね」
小百合は視線をわずかに下へ傾けた。おそらくそうだろうと予想していたが、聞いて嬉しい答えではなかった。
咲希も小百合の返事を欲してはいなかった。
いざ話し始めると自分の考えがまとまっていく。誰かに聞かせるためではなく、自分で自分のことを理解するために言葉を続けた。
「お父さんとお母さんは二人で過ごす。健はきっと真治さんたちと過ごす。友達はみんなそれぞれの一番大切な人と過ごす。秀はきっと家族と過ごすつもりでいて、最期の夜に私が会いに行けばいきなりなんだよって顔しながら一緒にいてくれる。そんなふうに思ってた」
「あいつと約束とかしてたんですか」
「ううん、何にも。連絡もなかなかできなかったから。でも秀は隕石が落っこちてくる前に帰ってくる。ゆりちゃん達には申し訳ないけど、声をかけたら秀はついてきてくれて、大した話もしないでいつも通りに過ごしているうちに世界が終わるの」
小百合には咲希が言った光景がありありと想像できた。
秀人は旅行に行くかもしれない。最後くらい学校のイベントに参加しようとするかもしれない。けれどいずれ家に帰ってきて、ダイニングで家族と団らんしながら最期を迎える。きっとその場には小百合も揃っているのだろう。
秀人と両親、小百合と両親でこれまでの人生を振り返るようなことを話しているとドアがノックされる。
怪訝そうにしながらも秀人が席を立ちドアを開けると咲希がいる。寒さに耳を赤くしながら『よう』と言う咲希に、秀人は『どうしたんだ』と返す。すると咲希はリビングの方を窺い少しだけ言い淀んでから『ちょっとさびしいなーって』と言うのだ。
秀人はすべてを察して部屋からコートをとってくる。リビングの前を通る時に『ごめん、今までありがとう』と言う秀人に、両親は『いってらっしゃい』と笑顔で返す。小百合は何も言えずに二人の背中を見送るだけ。
小百合が想像した終末はきっと、咲希が思い描いたものとそう遠くない。
「あいつが好きだったんですか」
「……どうなんだろうね」
歯切れの悪い返事に咲希の顔を見ると、咲希は困ったように微笑んでいた。
「私はそこまで考えられてなかったんだ。生まれた時からずっと一緒にいて、一緒にいることが自然で、秀を自分の体の半分くらいに思ってた。馬鹿だよね。そんなはずないのに」
咲希は自嘲していた。
健治のことは恋愛対象として見たことがあった。健治は十年ほど前から咲希のことを恋愛対象として見ていた。秀人から向けられるものとは明確に温度が違う視線に、咲希も健治を恋愛対象として意識した。
一方で、秀人を恋愛対象として見たことはなかった。
秀人の態度は幼い頃からずっと変わらない。だからこれからも変わらない。そう思っていた。
けれど、咲希が見方を変える機会はいくらでもあったのだ。
たとえば中三の冬、化粧をした咲希を見た秀人は表情を変えた。
翌日には秀人の態度はいつも通りに戻っていた。だから咲希も引きずるようなことはしなかった。元通りの幼馴染に戻った。
この時に、秀人を恋愛対象として考えていれば、今頃答えは出ていたのだろうか。
秀人はどうだったのだろう。自分を恋愛対象として見ていたのだろうか。
今となっては確かめることもできない。
咲希はずっと秀人の隣にいたが、正面から向かい合ったことはなかった。
「なのに、なんでも分かってるつもりでいた。秀はいつだって一緒にいてくれるものだと思ってた。そんなふうに都合よく考えてたからいなくなったのかな」
自分に告白してくる人のことを秀人と一緒にくさした。自分のことを伝えたりせず恋人になってほしいなんて手抜きだと。
ブーメランだ。自分は秀人のことをどう思っているのか、どうしてほしいのか、きちんと伝えてもいなかったのに最期まで一緒にいてほしいなんて都合が良いにもほどがある。
最期を誰と過ごすのか、と秀人に尋ねた。
秀人は家族と過ごすんじゃないかと答えたが、本当は自分のことを思い浮かべたのだと思っていた。ずっと確信を持っていたが、もう自信を持てそうにない。
最期の最期まで寄りかかられるのを察して距離を置かれたのかも、なんて考えが脳裏をよぎる。
「それはないですよ。あいつ、咲希の家にも行ったはずですし」
「そっか」
秀人は咲希の家に寄ると言っていたらしい。会いたくないなら家に顔を出したりしないだろう。言われて少し考えれば分かることにすら気付かった。
一度思い込んだら悪い方へ考えが転がってしまうのは悪いくせだ。昔から直そうと思っているのだが、結局直らなかった。
「言いたいことはいろいろあると思いますが、またの機会を待ちましょう。わたしもちょっと腹にすえかねるところがあるので援護します。ぼろっかすに言ってやりましょう」
「へ?」
咲希が自嘲していると小百合がおかしなことを言い始めた。
世界はまもなく終わりを迎える。今日明日、秀人は帰ってこないという。もう二度と秀人に会う機会はないだろう。
考えなくても分かることだ。そんな当たり前の結論と正反対のことを小百合が言い出したことが意外だった。
「なんか、次の機会があるみたいなことを言うんだね」
「……ああ、そういえばおかしいですね」
「そういえばって」
「あいつに毒されたのかもしれません。世界が終わるからって捨て鉢なことをするなって、世界が終わるのに捨て鉢も何もないのに」
「秀がそんなことを言ってたの?」
「ええ、まあ。父も母もやたらと反応が淡白でしたし、気が狂います」
小百合は唇を尖らせながらもまんざらでもない様子だった。
いくら心構えが出来ていても死が間近に迫ったら泣き叫ぶのではないか。そうでなくても普段通りの平常心ではいられないものではないのか。
この時代、誰もが世界の終末を想像する。食糧生産が止まってあちらこちらで奪い合いが発生するとか、貨幣が無価値になるとか、それらしい話がいくらでも聞こえてきた。
みんな諦めがついて静かに終わるのではないか、と言っている人がいた。少なくとも自宅の周辺ではその意見が大当たりだったのだろう。略奪も暴動も起こっていない。
ただ、不思議と小百合に諦念はなかった。
どうなるんだろうと夢想はしても絶望していないのだ。
隕石を見て、これはどうしようもないと思った。世界が終わるという現実はびっくりするほどすんなり飲み込めた。
なのにちっとも悲観的な気持ちになっていない。
おかしな話だ。世界が終わらせる隕石をこの目で見ているのに、世界が終わると思っていない。
きっとのんびりといつも通りの生活を送る両親のせいだ。捨て鉢なことをするなと未来があるようなことを言った馬鹿のせいだ。みんなのせいで小百合までおかしくなったのだ。
けれどおかしくなったことを不愉快に思っていない。小百合自身にも奇妙な気持ちを咲希は読み取っていた。
「あーもう、結局、ほんっとーに最後まで後ろ向きに終わるところだった」
はーっ、と咲希は強く息を吐く。一人だったら鬱々としたまま死ぬところだった。
『もう』とか『なのに』とかぐだぐだくだらないことを考えていた。それこそ秀人がいたら鬱陶しいと言われたかもしれない。
隕石をどうにかする手段は思い浮かばない。まもなく死ぬのは本当だろう。
しかしだ。空から降ってくるだけの大きな石ころに死ぬ前までがんじがらめに支配されるなんて負け犬根性甚だしい。今さらになってムカッとしてきた。
「ゆりちゃん、明日ちょっと出かけない? 朝の予定が終わってからでいいからさ」
「いいですよ。どこに行くんですか」
「どこでもいいから外へ」
「予報だと、明日はずっと隕石が見えてるらしいですよ」
隕石がどんな軌道を描いて落下するのか、試算結果は公開されていた。日本は世界が終わる直前までずっと隕石が見えているらしい。街が静まり返っているのは、恐ろしい隕石を見たくなくてみんなが引きこもっているからかもしれない。
「だから外に行こう。地球を木っ端みじんにする隕石なんて、歴史上誰も見たことないんだよ。なんならこの先誰かが見ることもない」
「確かに」
「どうせなら最後に隕石を拝んでやろうよ。みんながみんな家に引きこもって死んでやると思ったら大間違いだって石ころ投げつけてやろう」
「……いいですね、それ」
咲希と小百合は顔を見合わせて笑っていた。
ただ黙って死を待つよりよっぽど面白い気がした。
どこに行こうか。どうせなら見晴らしが良い場所がいいですね。それならいい場所が。あの山の展望台は却下です。なんでー。変なやつらに付けられたら詰みますよ。そっかー。
二人の時間はかしましく過ぎていく。
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