第38話

「タイミングよかったな。せっかく帰って来たのに健とも会えなかったら帰って来た意味がない」

「秀は、なんだか雰囲気変わったね」


 立ち話もなんだから、と鈴片家のダイニングで二人は対面に座っていた。

 片や秀人は上機嫌。片や健治は困惑していた。

 記憶にあるよりも秀人は体が大きくなった気がする。一方で態度が軽くなっている。前は機嫌が良くても健治や咲希にしか気付けないような素振りだったのに、今は他人でも分かりそうなほど表情が柔らかくなっている。


「ああ、ちょっとな。もっと感情を表に出さないといけないと思ってな。違和感あるかもしれんが許してくれ」

「別に平気だよ。昔はもっと分かりやすかったし」

「そうか」


 秀人は生まれつきの無表情ではない。環境によって無表情になっていったのだ。この程度なら違和感どころか、懐かしさを感じる。

 健治は深呼吸をひとつ。いろいろ聞きたいことはあったのだが、急な再会に頭が真っ白になっていた。部屋への案内と雑談で少しは落ち着いてきた。


「秀、これまでどこに行ってたんだ?」

「世界中のあちこちを旅してた」

「本当に?」


 嘘だ、という確信を秀人に突きつける。

 秀人は嘘が巧くない。だから端的に回答したのだろうが、その簡潔さがかえって怪しかった。

 ずっと疑念は持っていた。どこにいるかと尋ねれば写真が送られてくる。

どんな場所だろうと調べてみると、同じ画像が見つかることがあった。

 本当にそこにいるのならわざわざネットで写真を探して送るなんて手間をとる必要はない。カメラが壊れたならそう言えばいい。

 加えて体格だ。秀人はもともと体を鍛えていた。そこからさらに一回り大きくなっている。

 旅をして人間的に大きくなる、という次元ではない。どんな旅をしたら物理的に大きくなるというのか。


「あちこちってのは誇張だな。数か所しか行ってないし。今はそれ以上何も言えない」

「そう」


 話すつもりはないと分かった。きっと今の回答が秀人にできるギリギリのライン。なら聞くだけ無駄だ。


「メッセに返信しなかったのは悪かったよ。忙しくてなんて返そうか考える余裕がなかったんだ。もらったメッセの内容に答えようか」


 秀人はスマホを取り出しメッセを立ち上げた。

 そして眉間に小さくシワを寄せる。

 何か変なメッセでも入っていたのだろうか。

 そう考えてすぐに「変なメッセ」に思い当たる。

 自分が十分ほど前に送った『咲希とセックスした』というメッセである。

 しくじった。メッセならやり取りできる気がしたが、幼馴染相手に面と向かってこの手の話題を出すのは極めて気まずい。

 幸いと言っていいのか、内容は嘘だ。ごめんと言えばそれで収まるだろう。

 数秒の沈黙。健治はメッセを撤回しなかった。

 説明は後でも出来る。今は、このメッセを秀人がどんな反応をするのか知りたかった。


「あー、なんつーか、おめでとう?」


 秀人はそれだけ言ってスマホをいじる。過去のメッセを遡っているのだろう。


「……それだけ?」

「ん?」

「他に言いたいこととかないの」


 健治は正面の秀人を睨みつけた。

 思っていたよりもはるかに小さな反応。そのことに反感があった。

 健治は、咲希が秀人を好きなのだと考えている。秀人が咲希を大切に思っていると確信している。秀人はそんな咲希の話題を二言三言で切り上げた。

 咲希と秀人がお互いに気付いていないだけで両想いならば身を諦めがつく。身を引いても自分は正しいことをしたと自己陶酔して満足げに死ぬことができるだろう。

 それがさもどうでもいいことのように流された。

 身勝手は承知だが、一言言わずにはいられなかった。

 すると秀人は「言いたいことか」と数秒ほど眉間のシワを深くして、あっけらかんと言った。


「なかなか具合が良かっただろ?」

「………………は?」


 反感とか些細な感情が消し飛んだ。

 この文脈で具合って言ったら何を示すか。そしてそれを秀人が知っているということは。

 瞬きの間に情報が脳裏を駆け抜ける。鈍器で頭を殴られてももうちょいマシだろうという衝撃が走っていた。


「もしかして本気にしたか。おい健、落ち着け。冗談だ」

「じょうだん……?」

「健にとって笑えない冗談ってことは理解した。だから明言するが、健が考えたような事実は一切存在しない」


 はあああああ、と深いため息をつきながら健治は机に突っ伏した。


「……さすがに悪趣味だって今のは」

「悪い。俺の予定だと、健が即座に嘘を見破って笑い飛ばして、コメントしづらいだろって返して終わるはずだった」


 健治と秀人の関係は兄弟に近い。ほぼ身内だ。

 身内にセックスがどうこうと言われても反応に困る。それを体感してもらいたくて言った嘘である。健治が冗談と気づかなかったことが誤算だった。

 ふと気づく。ということはまさか。


「あんまり聞きたい話でもないんだが、もしかしてお前ら、まだなのか」


 そんな馬鹿な、と思いながら尋ねると健治はびくりと震えて固まった。


「アレか。世界が終わる日までとっておこうとかそういう企画か」

「企画とかいうなばかやろう」


 力ない罵倒だった。

 長年の付き合いは伊達ではない。秀人はたったそれだけで、認識のすり合わせもなく、ただしていないだけだと理解した。

 まじか、と思う。健治と咲希は付き合う前から深い関係を構築している。健治がヘタレなことを念頭に置いても、どれほど遅くとも半年あれば合意形成ができるだろうと考えていた。


「なんだよ、引くなよ。秀だって咲希のこと好きならむしろ喜ぶとこだろ」

「そりゃ咲希のことは好きだし、朗報に分類されることかもしれんけど、だいぶ予想外でビビってる。男子高校生が誰かと付き合って一年禁欲とか、ちょっと心配になってる」

「やめろよ、僕の下半身に気の毒そうな視線を向けるなよ、機能はあるから。使ってないだけだから……?」


 なんでいきなりこんな下ネタを言い合ってるんだ、と半ばふてくされて流した会話の中に聞き捨てならない部分があった。


「……秀、咲希のことが好きなの?」

「そうだよ。健も気付いてたんだろ」


 秀人は気負った様子もなく淡々と告げた。健治はガタッと椅子を弾き飛ばすように立ち上がり、それから脱力して床に座り込んだ。


「おい、どうしたんだ」

「ご、ごめん、いや、そっか。そうなんだ」


 床に向かって肺の中にあった空気をまとめて吐き出した。

 健治は安堵していた。

驚きはなかった。心の中でずっとそうではないかと思っていた。

 咲希との時間まで秀人から奪ってしまった。

 けれど、最後の一線は越えなかった。

 一線を越えていたら後悔と罪悪感を抱えながら死ぬことになっただろう。

 やはり自分が異物だったと考えれば寂しくもあるが、安堵の方がよほど大きい。


「秀、咲希の家に行った?」

「ああ、近所だしな。ここに来る前に行ったよ。留守だったけどな」

「さっきデートが終わって帰ったところだから今なら家にいると思う。会いに行きなよ」

「そうか。そうするよ」


 秀人はゆったり余裕のある動作で席を立ち健治に手を差し伸べてくれた。

 いつもこの手に引かれてきた。

 健治は両足に渾身の力を込めて自力で立ち上がる。

 ここが最後の見せ場だ。邪魔者の端役なりの矜持を示したかった。


「ほら、早く行きなって」


 ばしんと秀人の背中を叩く。

 すっと秀人に手を引かれ、背中を蹴ってもらった。

 だからせめて今日くらいは自分が背中を押したかった。

 秀人は驚いた様子で玄関に足を向けた。


「それじゃ、またな」


 またな、って。健治は呆れてしまう。

 明日一日くらいは咲希と過ごせばいい。健治と秀人はもうさよならだ。

 ふと、安堵と寂しさの中に混じった呆れが顔をのぞかせる。


「まったくさ、咲希が好きならもっと早く言ってくれればよかったのに。友達だろ」


 靴を履いた秀人が振り返る。虚を突かれたように目を大きく開き、口が半端に開いていた。

 ああ、と秀人は嘆息する。そして健治の言葉に返答する。


「よく考えたら俺、健のことを友達って思ったことなかったわ」


 今日で一番の衝撃だった。

 これで最後だというのに刃物で切り付けられたような痛みが走る。はっきりと傷ついた。


「なに、それ。よりにもよって今日、そんなこと言う?」

「今日だからな。今くらいしか言えるタイミングないだろ」

「そうかもしれないけどさ、最後まで黙ってるとか、せめてきちんと説明するとか、そんな気遣いはないの」

「説明するのはいいが今は時間がな。そのうち話そうか」

「なんだそれ、テレビ電話でもすんの」

「それもいいな」


 こらえていないと涙がこぼれそうな健治とは正反対の、すがすがしい横顔を見せて、秀人は立ち上がった。


「邪魔したな」


 健治の返事も聞かずに秀人は部屋を出て行った。

 あっけにとられる健治は深く深くため息をついた。

 スマホを手に取り、メッセを開く。

 そして真っ先に表示される名前をタップし、通話をかける。


『健? どうかしたの』


 相手は咲希だった。

 通話はびっくりするほど鮮明だった。なかなかつながらないとか遅延がひどいとか言っていたのは誰だろう。嘘ばっかりだ。

 もう心は決まっていた。


「今、秀に会ったよ」

『えっ、ほんとに? 帰ってきてたんだ』


 咲希の声に喜色がにじむ。

 悲しいような、嬉しいような、なんとも言い難い気持ちで健治は言葉を続ける。


「咲希、別れよう」

『へ?』

「秀がそっちに向かってる。今までありがとう。それと、ごめん」

『……うん、わかった。こちらこそ、ありがとう』

「うん。さようなら」


 咲希は何か言いたげだった気がする。

 それさえも自分の願望だと思えてくる。

 通話終了、と表示される画面に水滴が落ちる。

 スマホが健治の手から落ちた。ごとり、と音を立てる。

 健治はその場にへたり込んだ。

 一番の友達も、大切な恋人もなくなってしまった。

 友達というのは勘違いで、恋人は横恋慕だった。


 ずっと借りていたものがあるべき場所に帰っただけ。

 ただそれだけのこと。


 他に誰もいなくなった部屋の廊下に座り込んだ。

 にじんだ視界には誰も映らない。

 声もなく座り続けた。

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