第177話 初稽古
道場では内弟子、つまり家族の二人が稽古をしていた。
「十兵衛様、鐘四郎様、お二人は非番で御座いますか」
お花の声に二人が顔を向けると館長、館長の奥方、師範、師範の奥方を始め、珍しく二人が知る橘の幹部の面々の顔が有り見知らぬ若者二人も認めた。
十兵衛と鐘四郎の二人はその場で正座し拝礼にも似た礼をした。
それ程に珍しい顔ぶれなのである。
二人は既に山修行にも参加し平太や舞を含め皆の技量の高さを理解していた。
「其方らに新たに本日より内弟子となった二人を紹介しておこう」
日頃は無口な師範代の三郎太が言った。
「お言葉では御座いますが、その必要は御座いませぬ、我ら天覧大会を見物しておりました故お二人を存じております」
「おぉ~観ておったか、ならば其方らが身分を知らせよ」
「某、本城鐘四郎と申す、北町奉行所・同心にござる」
「某、南町奉行所・与力・ 浅井 十兵衛と申す、良しなに」
「館長、先達のお二人に紹介の儀、お許し下さい」
師範代の三郎太が変わりに「許す」と答えた。
「はぁ、ありがとうございます、某、元江戸の柳生新陰流・鰐淵俊三郎と申します、以後よろしくお願い致します」
「某、元尾張柳生新陰流・井上歳三に御座います、ご指導をお願い申します」
「此れより、元柳生のお二人、鰐淵殿と井上殿とお花の試し合いを行う、其方ら二人も見分せよ、審判は某が行う・・・鰐淵殿、先方を願おう」
師範代・三郎太の声に四名が頷き、鰐淵と井上が回りを見渡すと既に館長の小兵衛は見所中央に正座しその下に師範の龍一郎が座したの者達は壁際に座していた。
元柳生の二人は音も立てず動く気配も感じられぬ皆の動きに驚いた。
十兵衛と鐘四郎は見慣れているのか、壁際の末席に驚きも見せずに座した。
鰐淵と井上は壁際へ下がり井上を座し鰐淵は竹刀だけを持って中央へ歩んだ。
そこには既に右手に竹刀を持ったお花が顔に薄っすらと笑みを浮かべて待っていた。
鰐淵は歩みを勧めながら笑みを浮かべるお花に闘志が湧き始め対戦位置に着いた刻には闘志が溢れんばかりに迸り殺気までをも含んでいた。
「鰐淵殿、何を殺気立てておる、これは仇討ちでは御座らぬぞ・・・此れより試し合いを行う、審判の某に従って頂きます、両者宜しいな・・・では、は・じ・・・め~」
両者は左手に持った竹刀を正面に回し正眼に構えた、相正眼の形となった。
両者の竹刀はまだ触れ合う距離には無い。
鰐淵はお花がまだ笑みを浮かべている事に不思議さを感じた。
そして悟った、この女子(おなご)も殺気処か気が感じられない程に試合に対する恐れも恐怖も無い様に思われ、笑みを浮かべているのは緊張しない為の策なのでは無いか・・・と察した。
それに比べて己は鰐淵は闘志満々、闘志むき出しでこれでは打ち込みの刻を読まれてしまう。
鰐淵は後ずさりし壁際まで後退すると己の緊張と闘志を取り去る為に肩を上下させその場で飛び跳ねた。
暫しその仕草を繰り返した後「お待たせ致した」と言った後、前に歩み対戦位置に戻り構えも正眼に戻したが闘志は内に秘めた落ち着きのある構えになっていた。
鰐淵が戻るまでの間、相手のお花は竹刀を正眼に構えたまま黙って鰐淵の動きを見つめ続けていた。
同じ柳生新陰流でありながら江戸と尾張と言う決して仲が良いとは言えぬ組織に属していた二人であったが同じ境遇で半日の行動を共にした事で以前の立場を忘れ同士の様な仲になっていた。
鰐淵が一旦下がり緊張を解くかの様な仕草をした事が己も出来たかと疑問に思い鰐淵の検討を祈った。
お花の技量を知る小兵衛を始めとする面々はと言えば・・・お花を心配するでも無く結果に興味を示すでも無く全くの無表情であった。
では、心の中はと言えば、心を無にする修行をしている者達だけに二人の対戦者だけでは無く周辺の気の流れを読んでいた、まだ修行が浅いお高だけがお花がどの様にして勝つつもりでいるのか??? との思いを心に浮かべていた。
鰐淵は対戦者お花の笑みを浮かべた表情に人選を間違えた事に気が付いた。
一番幼い舞と言う娘かと当初は思ったが年少組とは言え次席になっている、決して対戦した者たちが未熟とも思えなかった、自分も含めて橘道場以外の者達との対戦では優れた剣者に見えた、処が橘の者と対戦すると稚児の様にあしらわれていた。
成人の部の勝者・龍一郎師範、次席の小兵衛館長、女子の部の勝者・師範妻女・お佐紀様、次席の館長・妻女・お久殿たちは自分の技量では太刀打ち出来ない事は明白であった。
師範代の三郎太殿と従う女子(にょしょう)お有様、師範代の平四郎殿と従う女子・お峰様、少年の部の勝者・誠一郎殿、正業が岡っ引きの清吉と妻女の船宿女将・お駒、その倅の平太・・・殿、そして江戸でも有名な料亭・揚羽亭の女将・お高様、男衆の中で技量の劣る者はやはり一番年少の平太殿と思えたのであるが、醸し出す空気、気配は年少の部の勝者・誠一郎殿を凌ぐ物だと感じられた・・・のでは有ったが・・・鰐淵の心は当初の意気込みと緊張から皆の技量比べと不安へと移行していた。
突然、気配の変化も見せずにお花が前に進み死線を超えた。
驚いた鰐淵が竹刀を胸元に一旦引き寄せ面打ちに行った。
お花は鰐淵の竹刀を右に交わし鰐淵の腹に竹刀を送り込んだ。
一瞬、鰐淵の身体がくの字に曲がりお花の竹刀に乗りその場に倒れ込んでしまった。
お花は倒れる鰐淵の身体から竹刀を引くと後ずさりで開始位置に戻った。
暫し痛みに動けずにいた鰐淵が開始位置に戻り「参りました」と言った。
その表情には悔しさ、情けなさなどの負の感情は無く、晴れ晴れとしていた。
「うむ、お花の勝ちじゃな・・・お花、弛まぬ鍛錬が伺える物である・・・だが、館長の様に竹刀に乗せて回すにはまだまだ修行が足りぬ・・・な」
「はい、難しゅう御座います、修練致します」
「うむ・・・では次は井上殿の出番じゃ・・・」
三郎太の声を遮る様に龍一郎の声が飛んだ。
「三郎太殿、お花相手よりも、お高殿はいかがかな」
珍しい龍一郎の注文に皆が龍一郎にそして名指しされたお高にと視線を巡らせた。
龍一郎の言葉に開始線を離れ自席へと戻るお花が開始線へと向かうお高に擦れ違いざまに竹刀を渡した。
龍一郎の言葉で鰐淵と井上は一番技量の劣る者が誰かを理解した。
井上は微かに笑みを浮かべていたお花とは異なり眼の前にいる対戦者・お高が若干の緊張を見せている様に思えた・・・事実、お高にとって仲間以外の対戦は初めてだったのである・・・此れからは仲間に成るのではあるが。
井上が「来る」と思い竹刀を引かずそのまま突きに行った。
お高はその突きを予想していたかの様に大きく踏み込み右肩の上に躱すと井上の腹に胴切りを放った。
打たれた井上はお高の竹刀を軸に前転し床に上を向いて寝かされた。
お高の竹刀の先端が井上の首筋に寄せられて止まった。
「参りました」
井上の負けの宣言にお高は眼と竹刀を井上に向けたままに開始線へと戻った。
「お高殿の勝ちにこざる・・・お高殿、お花との腕力の差じゃな、お花の身体が大人になれば・・・・解るな、其方が修練を怠れば差は開くばかりぞ」
「はい、心得て御座います、お言葉ありがとう御座います」
師範代の三郎太に礼を言ってお高は控えの席へと戻って行った。
「館長、師範、お言葉をお願い申します」
三郎太が館長と師範に評価を願った。
「うむ、もう言うまでもあるまいが、其方ら二人の技量に近い者はそこに居る十兵衛と鐘四郎であろう、鰐淵と井上は剣の修行に明け暮れていた、本来なれば十兵衛と鐘四郎は相手に成るまい、が十兵衛と鐘四郎の二人は既に一度だけとは言え山修行をしておる・・・丁度良い修練相手に成ろう」
「山修行とは何で御座いますか、尾張にも山に籠っての修行が御座います故お聞き致します」
「山修行に参加した者が真の家族なのじゃ、我ら橘の技量はその山修行故のものなのじゃて」
「館長、我らは何時・・・何時山修行に行けましょう」
「皆の都合が着き次第どゃな、十兵衛と鐘四郎、其方らはどうするな」
「無論、同道させて頂きます、何時成りとも良い様に同僚に急な用向きが生じましたおりには某が率先して代役を務めております、お声掛けをお待ちしております」
「某も同様で御座います、前回の様に館長にご迷惑の掛からぬ様にしております」
鐘四郎の初回の山修行は小兵衛の共に同道したい旨を奉行にお願いし、日程を確保したものであった。
「其方らは藩での役務は良いのか」
「我らはこちらへの弟子入りに際し役務を放免され某は殿付き、この者は江戸家老付きと成りました故に剣術の技量向上が役務と言えば役務に御座います」
「何とも羨ましい役務だのぉ~」
役務で江戸中を走り回っている鐘四郎が思わず言葉を漏らした。
「十兵衛、鐘四郎、其方らが二人を内弟子用の長屋へ案内致せ」
「はい、しかし、羨ましい、我らは奉行所の役務が何時来るかも判らぬ故に長屋住まいが出来ぬ、しかし羨ましい、のぉ~鐘四郎」
「はい、某も出来るものならお長屋に住みとう御座います」
「何と言っても飯が美味い、量も好き放題じゃからのぉ~」
「あら~お二人共、朝も昼もこちらで食べられるようですが」
お駒が合いの手を入れた。
「鐘四郎殿は夜も食べに来られるそうな」
お高がお駒の合いの手に乗っかった。
「何~其方、夕食(ゆうげ)も食べに来ておるのか」
十兵衛が驚きの声を漏らした。
「おやおや、食い物の恨みは大きいと申しますが・・・」
お久まで合いの手に乗っかった。
「十兵衛、其方も食べたければ何時でも来よ、遠慮は要らぬ」
「はい、遠慮無く来させて頂きます、早速ですが我らまだ昼餉を食べておりませぬ、よろしくお願い致します」
「まずは、二人を長屋に案内致せ、それからじゃ」
「ありがとう御座います、お二方参ろう」
「ありがとうございます」
「本日よりよろしくお願い致します」
「よろしくお願い申し上げます」
四人が皆に礼を言って長屋へと向かった。
「二人の気質が変わりましたなぁ、お前様」
お佐紀が龍一郎に問い掛けとも取れる言葉を投げかけた。
「人と言う者は善の心を持って日々を全力で過ごして居れば自ずと自信と寛容が育つもの・・・と私は思っています」
龍一郎の言葉に皆が頷き、清吉は帳面と矢立を出して書留めていた。
「留吉殿、後で某にも写させて貰いたい」
「承知しました」
岡っ引きと言う商売柄、清吉は帳面と矢立は手放さない。
「龍一郎、其方と言う奴は・・・まるで僧侶の様じゃのぉ~」
「本に、本に」
「それで、義父上、次回の山修行の日程は如何に」
「そうじゃのぉ~、儂が行くとなれば三郎太か平四郎に道場の番を願わねば成らぬしのぉ」
皆で日程や鍛錬内容の要望などについての話会いが続いた。
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