第3話
時雨さんが言った名前。
今の……聞き間違いじゃないよな?
「ダークティアラ? ほんとですか?」
「あぁ、確かにそう言っていた。颯太君、興味があるのかい?」
「うん、知ってる作家だから」
時雨さんに渡されたノート。表紙の隅に白いインクで書かれた
ダークティアラの本名なのかな。
脳裏をよぎる残像。
すれ違ったあの男。
「時雨さん。売りに来た人、黒いコートを着ていましたか?」
「おや、颯太君は客人を見たのかい?」
「ここ来る前に。何か……話してたことは」
「悪いが、客人について他者には話せないんだ。余計な詮索は控えてくれるかな」
ひび割れた眼鏡越しに、時雨さんの目に鋭い光が宿る。お店のことはよくわからないけど、人のことを簡単に話すのは許されることじゃない。
時雨さんを怒らせちゃった。
気まずさと後悔が僕を固めていく。謝らなきゃいけないのに……何も言えない。
「颯太君、お茶は熱いうちが美味い」
沈黙を破る時雨さんの声。
間違いない。
リオンを思わせる白と黒の風貌。彼がダークティアラだったんだ。資料だなんて……大切なものをどうして売りに出したんだろう。
ノートを持つ手が震えだした。
僕の物じゃないし返さなきゃいけない。だけど。
「颯太? 何してるんだお前」
「お帰り郁人君、お使いご苦労さん」
ふたりの声が僕を弾く。
時雨さん言ってたな。今日の茶飲み話、ノートをいくらで売ろうかを話し合うって。兄貴の様子を見に来たのにそれどころじゃなくなった。
ノートに何が書かれてるのか。
リオンとマリーのこと、物語が生まれた経緯を知ることが出来るかな。
「時雨さん。買ってきた大福2個なんですけど、僕のを颯太にあげていいですか?」
「構わんよ。郁人君、風丸は颯太君を怖がらなかった。君達の優しさが伝わっているようだね」
時雨さんにうなづきながら大福餅を手渡してくれた兄貴。透明なセロハンに巻かれた大きな大福餅。時雨さんが急須に湯を注ぎ、兄貴は僕の隣に座り込む。
「颯太がいるとは思わなかった。なんだ? そのノート」
「時雨さんが買い取ったものなんだ。作家が持ってきたんだよ。あの……時雨さん」
時雨さんに見られ、緊張が僕を包む。
僕の話、聞いてくれるよな。緊張を打ち消すように息を吸い込んだ。
「ノート、僕に売ってくれませんか? いくらでもいいんです。今日払いきれなければ来月の小遣いで払います。だから」
「いいだろう。まずは売値を決めなければね」
「待って時雨さん、決めるのは颯太が帰ってからにしましょう」
兄貴は何を言ってるんだ?
僕がいたって困らないのに。お店の決め事なんて知らない。知ったとしても迷惑をかけはしないのに。
「なんだよその顔は。買ってやるよ、颯太へのプレゼント」
呆れたように兄貴は笑う。
「ここ何年か、誕生日やクリスマスに何も買ってやれなかったからな。家に帰って楽しみに待ってろよ」
「僕も渡せてないけど」
「弟がそんな気を使うなって。それよりも大福餅、美味いから食ってみな」
兄貴に言われるまま、セロハンを剥がし食べる大福餅。程よい甘味が口の中に広がっていく。
「どうだい颯太君。美味いだろう? 渋いお茶に合うと思うんだが」
「美味しいです。ごめん兄貴、いきなり来たから兄貴の分がなくなっちゃった」
「謝ることじゃないだろ。それよりお前、何しに来たんだ?」
「兄貴の働き先、どんな所か知りたかったんだ。なんで……大学を辞めてまでって思ってたから」
『そんなことか』と言うようにうなづく兄貴。大福餅を食べ終えてすぐ、時雨さんが手を伸ばしてきた。
商品を渡せってことか。
このノートはまだ、僕の物じゃない。
ノートを渡してすぐ細まった時雨さんの目。商品の見定めってやつなのかな。
「颯太、いい店だと思わないか? いっぱいの思い出が眠る場所……オモイデ屋を知ったのは、『妙な店がある』って大学の講師に教えてもらったからなんだ。それが大学を辞めるきっかけになったのは皮肉だけどな」
「来たばっかりでよくわかんない。店の雰囲気に惹かれたってこと?」
「まぁ、そんなところかな」
なんでだろう。
兄貴の顔が赤くなっていく。
そういえば、他に同僚さんはいないのかな。女の人が一緒に働いてるとか。兄貴……片思いだったりするのかな?
「兄貴、同僚さんは? 誰かいないの?」
「そんなのいないって。時雨さんと僕だけの気ままな仕事。風丸はマスコットで見張り番」
「颯太君、風丸は店の前に捨てられてたんだ。ダンボールに閉じ込められていた。出られないようガムテープが貼られていてね。助けてからしばらくは、僕に近づこうとしなかったんだ。僕に懐き始めた頃郁人君がやって来た。風丸は郁人君と、すぐ仲良くなったんだよ」
風丸はどれほどの恐怖を感じてだんだろう。ダンボールの中、助けを求めて鳴き続けたんだろうな。凍える寒さの中、僕と出会ったチビのように。
兄貴の優しさは、風丸の心を癒し幸せを与え続けている。
「ここはね颯太君、捨てられ忘れられた思い出達の居場所なんだ。僕は日々願っている。1日だけでいい、買われていく
微笑む時雨さんを見ながら思う。
思い出達の居場所。
物に詰まった思い出を大切にする場所か。時雨さんは優しい人なんだな。
「時雨さん、帰る前にお店を見ていっていいですか? 並んでるものを見てみたいんです」
「構わんよ。ゆっくり見ていくといい。
お茶を飲む時雨さんと嬉しそうに笑う兄貴。
脳裏に浮かぶチビの可愛らしい残像。
***
晩ご飯を食べ終えたあと、兄貴から受け取ったノート。オモイデ屋で見た時には気づかなかったけど、何枚ものスケッチ画が挟まれている。
描かれているのは女の人だけど、ダークティアラが描いたものなのかな。
兄貴と話す中、顔が赤くなった
兄貴によると、祖父は優しく穏やかな人だったらしい。小さな頃、祖父が買ってくれた駄菓子の味を今も覚えていると、兄貴は噛み締めるように語った。
時雨さんとの茶飲み話の中、兄貴は大福餅に駄菓子の味を重ねてるんだろうか。
2度と会えない祖父とチビ。
会える日々が続く時雨さんと風丸。
兄貴にとってオモイデ屋は、悲しみと喜びが混じりひとつになる場所だったんだ。
次章〈幕間・ダークティアラ(霧島貴音)の独白〉
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