エピソード51 親切からの成り行き
ウッドデッキのオープンテラスからは湖と富士山が見える。コーヒー一杯のつもりが、メニューをめくって美味しそうだった紅茶とスコーンのセットを注文する。
横のテーブルでコーヒーを飲んでいた2人組が席を立った。黒地に金のラインが入ったジャージの坊主頭とよれたスーツに派手な柄シャツ、いかにもチンピラ風情の男たちだ。こんな場所に似合わないな、と思いながら去ってゆく男の背を見送った。
伊織は入り口のラックから取ってきた河口湖周辺マップをぼんやりと眺める。夕方まで部屋に戻らない方が曹瑛も集中できるだろう。
スコーンには地元で収穫したブルーベリーの自家製ジャムが添えられていた。歯ごたえはさっくり、中身はしっとりで香り高いアールグレイと良く合う。昨日一緒にいた連中には笑われそうな乙女なチョイスだな、と思うとおかしくなった。
ふと、隣のテーブルの足元に4つ折にした紙が落ちているのに気が付いた。A4サイズのコピー用紙を重ねたもので、ポケットにでも入れていたのだろう、しわくちゃになっている。伊織はそれを拾い上げる。大事な落とし物なら店員に渡しておく方が良いだろう。
紙を広げてみると、水滸館、取引、警備配置などの文字が並んでいる。それにタイムテーブルと地図。心臓がドキンと高鳴った。
「これは・・・」
今日の龍神の取引の資料ではないか。さっきまで座っていたガラの悪そうな男たちが落としていったものだ。そういえば、今日はめんどうだとか愚痴を言い合っていた気がした。男たちが出て行って15分以上は経つ。もう車で去ってしまっただろう。返そうにも返せない。
偽の資料を掴ませてこちらを騙そうとしているのか、とも思ったが伊織はどうみても普通の観光客にしか見えない。しかも伊織の方が後から入ってきてこの席についたのだからそれはあり得ない。この資料、使えるかもしれない。伊織は周囲を確認し、バッグにコピー用紙を突っ込んだ。帰ってみんなにも見てもらおう。
思わぬ土産ができたので、すぐにホテルに帰ろうと伝票を持って席を立った。レジに行くと、前にいる長身の男性客と店員が何やらもめている。
「申し訳ありませんが、当店は現金のみなんです」
店員はおろおろしている。
「えー微信ペイもアリペイもあかんのか・・・今財布忘れて現金がないんや、どないしよ」
関西弁の男性客も困った様子で頭をかいている。若い女性店員は奥にいる責任者を呼ぼうとしている。
「俺、一緒に払いますよ」
伊織がその間に割って入った。男性の伝票はモーニグセットの850円。人助けと思えば別に高いものではない。
「ええのか?おにいちゃん」
「あ、ありがとうございます!」
店員はうまく片付いたと思ってホッとした表情だ。伊織は2人分の会計をして店を出た。
「おおきに、ほんまに助かったわ」
関西弁の軽い響きは嫌いじゃ無い。男は飄々とした笑顔で長身を折り曲げて伊織に礼を言う。薄いグレーのロングカーディガンに白のカットソー、黒いパンツ。30代後半に思えるが、はにかむ表情はもっと若く見えた。短髪に形の良い眉、ぱっちりした目に高い鼻筋が通っている。無精髭を生やし、口角がきゅっと上がっているのは笑顔のくせがついているのだろうか、気さくな男だなと思った。
「いいえ、大丈夫ですよ」
伊織はじゃあ、とその場で別れを告げようとした。せっかく観光に来たのにこんなことで嫌な思いをするのは気の毒だ。払った代金は返してもらうつもりは毛頭ない。
「おにいちゃん、1人なんか?」
男が伊織を引き留めた。
「え、あ、ホテルに連れがいるんですけど、今日はちょっと休みたいというので」
「なら、今は1人やろ?俺も今日は1人やねん。一緒に観光せえへん?」
「ええっと・・・」
伊織は言葉に詰まった。連れはホテル、自分は一人と言っておいて用事があるというのも言いにくい。この男もはるばる関西からやってきて、誰かと一緒に観光したいのだろう。男は微笑みながら伊織の返事を待っている。
「時間が気になるんか?俺も夕方から用があんねん。せやから、2時まででどうや?昼飯食べて解散や」
2時か、そのくらいなら問題ないかな、という伊織の表情を読み取ったのか、男はニコッと笑った。
「ほな決まりやな!一緒にいこ」
「あ、はい・・・」
断り切れないところが自分でもお人好しだと思う。あの書類を早く持って帰りたいが、観光に付き合うか、と伊織は観念した。曹瑛からのバイト代を貰う身で他人と観光というのは悪いことをしている気になるが、仕方が無い。
駐車場に向かい、男に車に乗るよう促された。
「わ、いい車ですね」
目の前に停まっているのは黒のBMWだった。
「せやろ、さあ乗って」
伊織は恐縮しながら車に乗り込む。黒い革張りのシートに腰掛けた。ほのかに男物の香水とタバコのにおいが染みついている。
男はエンジンのスイッチを入れた。低い始動音がしてエンジンが動き始める。エンジン始動は驚くほどスマートだ。伊織の実家のバッテリー上がり気味の軽トラは、エンジンをかけるのに気合いが必要だったことを思い出す。
「借りものやねん、なかなかええ走りしよる」
男はシフトレバーをドライブに入れ、車は走り出した。
「俺のことはリュウって呼んで」
「リュウさんですか、俺は宮野伊織です」
「そうか、伊織くんか」
リュウ、竜一か隆太か、そんな名前なのだろうか。軽く踏み込んだだけでスピードが上がる。しかし、反動が少なく静かなものだ。リュウの運転は丁寧で快適だった。そういえば、海外仕様の左ハンドルだ。借り物だというが、リュウは慣れた様子で運転している。
「俺、ここに行ってみたいんや」
リュウが伊織にチラシを手渡す。それは湖の反対側にあるオルゴール館だった。男一人でオルゴール館は確かに周囲の目が気になるかもしれない、と伊織は思った。
「うん、行きましょう」
館内はレストランもあるようで、観光してそのままランチをして解散すればちょうど良い時間になりそうだ。
20分ほどでオルゴール館に到着した。森に囲まれた南欧風のかわいらしい建物が見える。車から降りて案内図を見ると、園内は美術館の他にヨーロッパ庭園も併設しており、見所がたくさんありそうだ。
「おもしろそうやな」
「そうですね」
チケット売り場に並ぶと、リュウがスマホで決済を済ませ、2人分のチケットを用意してくれた。
「ありがとうございます、でも払いますよ」
伊織が財布を出そうとすると、ここは自分が誘ったから、それにさっきのお礼だとかたくなに受け取らなかった。
「ありがとうございます」
「ええんや、さっきの店くらいや、現金しかあかんかったところ」
園内に入ると、家族連れやカップルでよく賑わっていた。富士山をバックに緑の庭園が広がり、色鮮やかな花があちこちで咲いている。尖塔のついた欧州風の建物と相まってメルヘンな雰囲気を醸し出している。
「わあ、きれいですね」
伊織は思わず声を上げた。
「ほんま、きれいやな」
リュウも喜んでいる。池に沿った歩道を散策する。白い石が敷かれた道は太陽を反射して輝いている。その奥には広大なチューリップ畑が広がっていた。青空と富士山、大地には花の絨毯。伊織は時折立ち止まり、スマホで写真を撮っている。
「伊織くん、写真撮ったろか?」
リュウの提案に、せっかくなのでここに来た思い出に一枚撮ってもらうことにした。おっさんにさしかかる年齢の自分とお花畑、滑稽な気分だがこれも記念だ。
リュウにスマホの操作を説明していると、近くにいた若い女の子2人組が声をかけてきた。
「良かったら撮りますよ、お二人で。その後私たちも撮ってもらえませんか?」
「うん、ええよ」
伊織とリュウが花畑をバックに立つ。笑ってくださーい、と女の子にかわいく言われて悪い気はしない。リュウもノリノリでピースサインをしているので伊織も恥じらいながらピースサインをした。
「はい、どうですか?」
スマホの画面を見ると男ふたり、いい笑顔で映っている。背景の富士山もきれいに撮れていた。最近の子はSNSにアップするために勉強しているのか、写真の構図が上手い。
「じゃあ撮りますね」
伊織も彼女たちの写真を撮ってあげた。スマホを返すと嬉しそうにはしゃいでいる。お礼を言って彼女たちと別れた。
オルゴール美術館に入ると、正面に巨大なオルゴールが展示してあった。ダウンライトの中、心地よいオルゴールの音色が流れている。
「これは見事や、癒やされるわ」
「いい音ですね」
展示室にはレトロなオルゴールがずらりと並んでおり、オルゴールの歴史や音が出る仕組みを解説するパネルがある。リュウは興味深く説明を読んでいる。
「11時から演奏会があるみたいですよ」
「ええな、それいこ」
少し早めにホールに入り、席に着いた。大聖堂を模した細長いホールで、天井には宗教画が描かれている。ステンドグラスから入る光が館内を照らし、正面には壁面全体に設置された巨大なオルゴールが見える。アールデコの装飾が豪華で、伊織は目を丸くして館内をキョロキョロ眺めている。リュウは長い足を組んで、美術館のパンフレットを読んでいる。
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