38:蝶

「ようやくですね……ようやく、辿り着いた」


 まだ違和感があるのか、顎をコキコキと鳴らし、トキオが心から安堵の息を漏らした。


満身創痍まんしんそういのうえに色々と起こりすぎて、頭の整理がまったくできてないけどね」


 言って、Tシャツに血をこびりつかせたままのハナコは、洞窟の口にある秘密研究施設の扉を見た。


 まわりの岸壁に似せた、くすんだ茶色の塗装がところどころ剥がれ落ちた、大きな観音開きの鉄扉は、右の下部が内側からめくり上げられたかのようにひしゃげている。


 その穴の中へ、何十匹という黒い蝶が列を作りながら入ってゆく光景に、ハナコは倒錯的な幻影を見ているような感覚を抱いた。空を這う黒いヘビのようなうねりは、山の中腹へ向かって細長くのびている。


 やっぱり、が道標だったのだ。


 ホッと一息つく間もなく、マクブライトに背負われたアリスに視線を移す。そして意識を失ったままの少女の、右目から頬にかけて伝う一筋の赤い涙のあとを拭いてやりながら、その小さな左の鼻の穴に詰め込んだティッシュペーパーを確認し、どうやら鼻血は止まったようだな、と、ようやくハナコも安堵した。


「それにしても、はどうやっておれたちがここにいることを知ったんでしょうか?」


 トキオが首をかしげながら言う。


「さあな。もう今となってはどうでもいいんじゃないか?」


 マクブライトがそれに答える。


「とりあえず、脅威がひとつ減っただけでもよしとしようや。。それで充分だ」


 呑気なマクブライトの言葉を聞きながら左のあばらをさすっていると、


「まだ痛みますか?」


 トキオに訊かれた。


「ああ。ヒビは入っていないみたいだけどね」


 苦笑してみせたが、それでもあのとき実際には死んでいたかもしれないという事実に、今さらながらに怖気が走っていた――


◆◆◆


 ――二時間前。


 怒りを全身に纏い、血色の煙を裂いて突進してくる熊を見ながら、ハナコは心のどこかで驚くほど冷静な自分に気がついていた。


 あの〈血の八月〉の時とおなじ死の予感に、懐かしさすらおぼえる。


 


 腹を据えたハナコの目には、熊の動きのすべてが、まるで映画のスローモーションのように見えていた。


 ふと、警棒を強く握りしめた掌に汗が滲むのを感じる。


 つぎの刹那、横っ腹に衝撃を感じ、ハナコは気がつくと地べたに仰向けに倒れていた。


 一瞬、なにがあったのか分からずに呆然としながら見ると、庇うようにしてトキオが覆い被さっていた。


「死ぬ気か、バカヤロウ!」


 視界いっぱいまで近づいたトキオの顔が、怒りで紅潮している。その形相に喉が詰まりなにも言えないでいると、すぐさま我に返ったトキオはハナコから離れ、


「すいません」


 と、申し訳なさそうにして顔をそむけた。


 ハナコは無言のまま立ち上がり、


「……追うぞ」


 言って、マクブライトたちを目がけて突進する熊を追った。


 トキオが追いかけてくる足音を背に聞きながら、ハナコは、さっきまでの自分が少しも冷静なんかじゃなかったという事実にえもいわれぬ羞恥心を覚え、そしてまた死んでいたかもしれない事実に、今さらながらに全身から冷や汗が噴き出しているのを感じていた。


 前方を行く熊は、少しよろめきながらもマクブライトたちを追いかけ続けている。いずれ追いつかれるのは明白だったが、銃を使って万が一にもマクブライトたちに当たってはマズイ。


 するうちにトキオがようやくハナコの横に並んだ。


「どうします?」

「分からないけど、とりあえず追いかけるしかない」


 言いながらふと空を見上げると、いつのまにか頭上を飛んでいたクニオフィンチがハナコたち二人を追い越して、


「チチチチ チチチ チチチチチ」


 と、鳴き声をあげた。


 今までまったく姿を見せなかった小鳥に違和感を覚えたその時、黒い影がハナコとトキオの間を縫って、そのまま一陣の風のごとく一足飛びで熊に追いついた。


 突然のことにワケも分からずにいると、熊と併走していたソレは熊の脇腹へ目にも止まらぬ速さで拳をめり込ませた。


 熊は鈍い衝撃音をたてながらくの字に曲がり、木々をなぎ倒しながら吹き飛んでいった。


 異変に気がついたマクブライトが足を止めて振り向く。


 その間に追いついたハナコは、前へと回り込みながら警棒を伸ばし、黒い影へと向かって臨戦態勢に入った。


「なんで、お前がここにいるんだ?」


 言葉にこたえることもなく幽鬼のように佇む黒い影は――


 ――だった。


 ハナコの横に並びアサルトライフルを構えたトキオのこめかみを、一筋の汗が伝い落ちる。


 マクブライトは抱えていたアリスをおろし、庇うようにして無表情のままの少女の前に立った。


「何が目的かは知らないが、アリスは渡さないよ」


 言うと、ピクシーはゆっくりと視線をハナコに向け、その両眼のレンズのファインダーがキュインキュインと不気味な音をあげた。


『ピクシーの力を目の当たりして、まだそんなセリフを吐けるとは、つくづく愚かな小娘だな』


 筋肉で膨れ上がる胸に取りつけられた小さなスピーカーから、ボイスチェンジャーで加工された低い声が聞こえた。


 その口ぶりから、ピクシーがシロー・メンゲレ本人なのではないかと、ハナコは思う。


「あんた、シロー・メンゲレだろ? まさか、あんたみたいな老人ががピクシーになっているとはね」

『ワシの正体がなんであれ、お前らには関係のないことだ』

「お前がシロー・メンゲレだっていうことと、それに……それに、あの〈446部隊〉とつながっていることまで、こっちはとうに知ってるんだぞ、観念しろ!」


 トキオが凄む。


『……奴らは利用されているに過ぎん。それに、ワシが何者か知っているとして、それがこの状況に影響するのか? くだらん時間稼ぎはやめてさっさとアリスを――』


 ――つぎの瞬間、吹き飛ばされていた熊が地響きとともに突如として現れ、ピクシーのすぐうしろで止まると、口から血を吐き出しながら立ち上がった。


 ハナコが咆哮に鼓膜を揺らされたじろいでいると、熊はその凶暴な右の前肢をピクシー目がけて振り下ろした。


 しかしそれは空を虚しく裂いただけで、ピクシーはいつの間にかハナコたちの視界から消えていた……


「上だ!」


 マクブライトの叫びに呼応し、トキオが上方へ向かってメッタヤタラに銃を撃ち続けた。


 耳をつんざくような銃声と、腹に響く熊の咆哮とを聞きながら振り仰ぐと、銃弾をすべてその体に受けながら、ピクシーは熊をまるでいらなくなったオモチャのように踏みつけた。


 その衝撃は凄まじく、大の字に潰れた熊は、口から滝のごとく血を吐き出して小さくうなり声をあげた。


 熊の背に右足をめり込ませながらも、まるで何ごともなかったかのように悠然と佇んだピクシーの肩へ、どこからかやってきた頭頂部の赤いクニオフィンチが止まり、のんきに毛づくろいをはじめた。


『さあ、その娘をワシに渡せ』


 言って右手を伸ばしたピクシーに、ハナコは拳銃を向けた。


「あいにくと、諦めの悪さがあたしの性分なの」

『やれやれ、物わかりの悪いガキだな』


 苛立つこともなくピクシーが言う。圧倒的な力の差に慢心しているのだろう。ふとハナコは、ドンの六番目の教えを思い出していた。


 ――だけど、隙なんてどこに……?


「アリスをどうするつもりだ?」


 マクブライトが訊く。


『お前たちには関係のない話だ。だがワシは快楽殺人者じゃあない。殺すのは恨みのある政府筋の奴らだけだ。大人しくアリスを引き渡せば、お前らは見逃してやろう。お前らにも悪い話ではないと思うぞ。この娘がいれば、ワシはあの憎き政府を完膚無きまでに叩き潰すことができる』

「妄言だな。いくら強いとはいえ、妖精一匹でなにができる?」

『ナメたことを言ってくれるな』


 未だ息のある熊が、苦しそうに低いうなり声をあげた。


 一瞬、それに気をとられたピクシーを目がけて、ハナコは拳銃をぶっ放した。弾丸は左胸へ見事に命中したが、しかしピクシーはさきほどと変わらず何ごともなかったかのように佇んでいる。


は、これには効かんよ』


 その言葉を無視し、警棒をピクシー目がけて突き出したハナコは、つぎの瞬間、胸にはげしい衝撃を喰らって思うさま吹き飛ばされ、そのままアリスの横に立つ樹へと激しく背中を打ちつけていた。


 足に力が入らず膝を突くと、その鳩尾へ、ピクシーの怪力によってねじ切られた熊の頭部がめり込んだ。


 その鈍痛に胃液が逆流し、ハナコは嘔吐した。


「貴様!」


 トキオの声が聞こえ、続いて銃声が鳴り響いたがすぐにやみ、痛む胸をこらえて顔を上げると、トキオは顎をピクシーの手の甲でなぎ払われたらしく、うつぶせになって倒れていた。


 ピクシーがマクブライトへ視線を向け、


『さあ、お前はどうする?』


 と、静かに言う。


 マクブライトは構えていたネイルガンの銃口を下ろし、そのままそれを放り投げ、両手を頭のうしろで組んだ。


「連れてけよ、おれは引き際をわきまえてる」

『フフフ、お前は、物わかりのいい大人のようだな』

「よせ……」


 声を上げようとしたが、腹に力が入らない。


 ピクシーはマクブライトの横を居丈高いたけだかに通り過ぎ、脅えることもなくじっと佇むアリスの前に立った。


『さあ、来い』


 アリスは身じろぎもせずに、ピクシーをただ見つめている。


 その光景を無力感にさいなまれながら見ていると、ピクシーの背後に立っていたマクブライトがゆっくりと振りかえってピクシーに襲いかかり、そのままスリーパーホールドを極めた。


「油断大敵だぜ、マヌケ」


 ほくそ笑み力を込めていくマクブライト。


『……なるほどな、勉強になったよ』


 言って、ピクシーは組んだマクブライトの両手を掴むと、いとも容易く、それをほどいた。


「んなバカな……」


 その言葉を最後に、ピクシーに背負い投げをされたマクブライトは、白目をむいて気を失った。


 余裕をあらわすためか、首を二度鳴らしてにじりよるピクシーに対し、アリスは無表情のまますり足で左へと動き、おもむろに後ずさった。しかしすぐ樹に阻まれ、それに背を預けたアリスは、目を瞑って首からさげた笑い袋を両手で強く握りしめた。


「ギャーハッハッハ!」


 この場に不釣り合いな笑い声が響き渡り、一瞬、ピクシーがそれに気を取られる。


 それを、ハナコは見逃さなかった。


 ハナコは、ピクシーへと向けた拳銃の引き金をゆっくりと引いた。


 発射された弾丸が、ピクシーの背中の中央部分から頸椎へと伸びる黒いチューブに命中し、白い液体が噴水のごとく噴き出した。


 ピクシーが、振り返る。


 ハナコは二度引き金を引いて、弾丸が尽きてしまったのを確認すると、拳銃を握ったままその手を地べたに落とした。


『小娘が』

「言ったろ、諦めの悪さがあたしの性分なんだよ……」


 息も絶え絶えに言って笑みを浮かべると、よろめきながらやって来たピクシーに左手で首を掴まれ、軽々と持ち上げられた。その手に力がこもり、首に巻いた防具が意味をなさなくなるのを感じる。


 そしてピクシーは、腕の内側にある収納筒から滑り出てきた鉤手状のナイフを握り、その切っ先をハナコの左の胸に押し当てた。


『調子に乗りすぎたな』


 ピクシーに胃液混じりの唾を吐きかけて、ハナコはほくそ笑んだ。


 切っ先が、ゆっくりと刺さってゆくのを感じる。


 その時、耳をつんざく甲高い金切り音が聞こえ、ピクシーの手が緩んだ。


 解放され、地べたに尻もちをついたハナコは、目眩を感じながらピクシーを見上げ、眼前の光景に我が目を疑った――


 ――ピクシーが、大の字になって宙に浮いている。


 限界まで伸びきった四肢は、それでもギチギチと音をたてながら、さらに外へと向かって裂けんばかりに伸びようとしていた。


 いや、ように、見えた。


『バカな……』


 ピクシーが言う。


 混乱しながら視線を移すと、天をもかんばかりに長い金髪を逆立たせたアリスが、ピクシーに向けて開いた左手を突き出していた。


 目の前に広がる光景に混乱していると、


『ナメるな!』


 ピクシーは四肢を胴体に引き寄せ、そのまま卵のように丸まった。


『どうやら、〈〉の力のほうが上のようだな』

「……」


 無言のままのアリスはそれに応えず、下げていた右手を上げると、開いた両手をピクシーの首のあたりへと向けた。すると、ギチギチと筋肉繊維が切れる音とともに、ピクシーの首が飴細工のようにゆっくりとねじられながら伸びはじめた。


『やめ――』


 言葉を遮るように捻りきられた頭部が、まるで砲弾のように空へと消える。


 頭部を失った頸部からは白い液体が噴き上がり、四肢を力なく垂らすは、地べたへとゴミのように崩れ落ちた。


 眼前で繰り広げられた光景に、ただ、唖然とすることしかできないでいると、


「うう……」


 力がぬけ膝をついたアリスが、両手で頭を抱えて苦しみだした。それに呼応するかのように、辺りの木々の枝がはじけ飛び、山のうなり声のような風が吹き上げてくる。


 ハナコは痛むあばらをこらえて立ち上がり、危険を承知でアリスへ歩み寄った。


「大丈夫か?」


 声がかすみ、呼吸するたびに胸が痛む。だが今はそんなことより、苦しむアリスをなんとかしてやらなければ。


 ハナコは膝をついてアリスと顔を突き合わせ、そのまま少女の顔を胸に埋めた。


 荒い息がシャツの中を蒸らすのを感じる。どうすればいいのか分からず背中を優しくさすってみたが、それでもアリスは苦しみ続け、ハナコの頬を、はじけ飛んできた木っ端がかすめた。頬に冷たいものを感じ拭って見ると、ケガをしたらしく掌いっぱいに血がこびりついていた。


 するうち、突然こわばっていたアリスの体から力が抜けたのに気がつき、仰向けに寝かせて膝枕をしてやると、左の鼻の穴から、血が伝い落ちていた。そして、右目から赤い涙が一筋ながれ、頬を伝う。


 辺りは、静かになっていた。


 赤い涙をぬぐってやりながらハナコは、アリスと初めて出会った日のツラブセでの光景を思い出していた。


 ――あの時、ピクシーを吹き飛ばしたのはアリスだったのか。


 ねじれにねじれたアリスの髪を指でかしながら頭を撫でていると、どこからともなく現れた黒い蝶が、ハナコの手にふわりと舞い降りた。


 まるで死に神の使いかのように妖艶な魅力を湛えた蝶は、二三度、羽を広げたり閉じたりし、ふたたび空へと舞い上がった。


 すっかり憔悴しながらもそれを目で追ったハナコは、いつのまにかおびただしい数の黒い蝶が列をなして飛んでいるのに気がついた。


 まさか本当はすでにみんな死んでしまっていて、気づかぬうちにあの世へといざなわれたのではないかという、バカげた妄想がふと脳裡を過ぎる。


 そんな、どこか落ちついた感情を自嘲し、ハナコはゆっくりと深呼吸をした――

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