現代版 徒然なるがままのタクシー旅日記

犬山猫三

其の一

個人タクシーの人生模様


此処では現代版、芭蕉風の徒然なるがままの旅日記を記したいと思っている。

芭蕉は江戸時代中期の俳諧師で、日本各地を何千里と徘徊したことであろうか。つとに有名な「奥の細道」は600里(約2400Km)を弟子と共に行脚したといわれる。現代の世の中と違い、高い山、深い谷あるいは川を越え、海を渡り殆ど道無き道を走破した事であり、幾多の困難を乗り越えたに違いない。余程の健脚で無

い限りは途中で挫折したであろう。

生まれが伊賀上野とくれば、言わずと知れた忍者の里である。子供の頃から鍛えており、十数里を一日で走破するのは納得である。

其れに、今の発達した情報手段とて全く無く、殆ど、足の向くまま気の向くままの成り行き任せであった。 

 よく言われる、徳川幕府の隠密、忍者説、それにより各地の不穏大名の情報集めだの、世間の噂がかまびすしい。

行く先々での情報は、俳諧師仲間や道中での宿泊先、出会う人々から得ていたのであろう。

 又、徳川幕府になってからは参勤交代制度が設けられ、全国の大名が領地と江戸を往復させられた。これにより各地の情報が随分と得られやすくなる。

 然しながら、その芭蕉の足跡情報が世に出たのは、旅を終え「奥の細道」が編さんされた後の何年、いや何十年も経た後の出来事である。

 現代であれは地震、災害情報伝達など、マス・メディアやインターネットを通じてほんの一瞬の間に、日本国中の隅々までに広まるのであるのだが。


 因みに、日本国中を一番旅した人物は?

 

 江戸期からそれ以前の時代、ダントツ一位は伊能忠敬であろう。 

 十七年の歳月をかけ、日本国中の海の周りを自分の足で歩き日本地図を作成した男である。

 又、忠敬の測量技術を教授された間宮林蔵あたりも長い距離を走破している。

そのあとの順位は、目的が夫々違うが、芭蕉もいい位置に来るであろう。

いずれにしても健脚揃いである。さもあろう御庭番、忍者の里の出である。然し、忠敬だけは違う。商人の出で其れも五十五才からの出発で、並み外れた体力の持ち主であったのであろうか。

 

 一方、現代版の、こちとらの旅の足といえば車である。日本国中、都会から田舎の山奥迄、道という道は殆ど舗装され網の目の様に網羅されている。車社会の世の中、何万、何十万キロも走行する事はごく当たり前で、地球を延べ何周分も走行する事だろう。

 老若男女、体力に関係なく、座ったまま乗り心地良く走行するので、足腰が疲れる事はまず無い。まぁ、誰もが運動不足で体力が落ち弱るばかりだけれども。


芭蕉といえば伊賀国の生まれだが江戸に出た為、主に東日本を記した俳諧が多いが、私が住んでいる広島は西日本である。其の為、特にこちらを中心に活躍した歴史上の人物の足跡を辿りたいと思っていた処、水墨画の禅僧である雪舟の軌跡が有った。だが色々調べてみても両者の接点は何も無い。年代も違い雪舟の方が遥か昔である。

何はともあれ、こちらも現代風に芭蕉、雪舟気取りで各地を飛び回ってみたいと思った。

 然し、私は個人タクシーの事業主だ。幾ら何でも思い通り勝手に走れるものではない。あくまでお客様有っての商売だからだ。常日頃の営業は広島駅に待機して順番にご乗車頂くのが主で有った。

 然し、これでは毎日が同じ事の繰り返しで、人生の何の糧にもならない。

 何か人のやらない事が出来ないものかと、有りもしない頭で思案をしていた。

 そうした時、閃いたのがインターネットだ。

 此れだけは私のオンボロ人生、最大のヒットだ!

 私が商用ホームページを開設した時、全国に同業者が法人、個人共に十社(十人)もいなかった。その時、東京、大阪とも零であった。

 当時、インターネットでお客様を獲得出来るなど及びも付かない時代であったからだ。

 爾来、運行を重ねて観光、ビジネス利用で東日本はとも角、西日本中、車で行ける処は殆ど行き尽している。

 北は青森下北半島むつ市、南は鹿児島県指宿市、此れ皆、タクシーでお客様を乗車して走行した本当の事である。東京へもタレントさんを乗せて一夜にしてテレビ局にお送りしている。朝の番組の生放送に出演される為だ。其れも何度もだ。


初志貫徹、志は何時しか通ずるものだ。

 其れがたまたま開業医のお医者さん夫婦と知己を得てからは、似たような境遇となって来たのである。

とに角、先生夫婦は旅好きだ。知り合う迄にも、他の交通機関を利用し日本各地を網羅されている。

 ただ、先生は飛行機嫌いで、空を飛び海を渡るのが大の苦手なのだ。

 鉄の塊が空を飛び、海に浮かぶなど考えられない古風な人で、反対に、奥様は何でもござれのおてんば女性である。

先生夫婦には、子供がいない。運転免許が無い為に、新幹線を始め一般交通機関を利用せざるを得ず、限られた場所への限定にならざるを得ない。

又、体力的にも、日に何度もの乗り換え走行には無理が生じてきた。

丁度、その頃に、たまたま私と出会った次第である。


 渡りに船で真似をして徘徊をしてみる事にした。でも此れはお客様あっての物種だ。自分一人で走り回るなど到底あり得な い。

 気分だけ。芭蕉、雪舟は共に歴代の偉大過ぎる人物だ。其れに旅するこちらは、整備された道路網を走る現代の車であり、情報網の発達した中での道行きは比較の対象にもならない。

然し、ここに記している現代の徒然なる旅日記は、嘘も隠しも無い現実の体験記である。旅好きの他のお客様のご利用もあるが、殆どがお医者さん夫婦との道連れの旅日記である。


 [雪舟、涙で描いた鼠の絵]


今日も朝から快晴で絶好のドライブ日和だ。

前日に奥さんから

「明日は高梁川を下流から上ってみたいそうよ。テレビを見た影響よ」

笑いながら電話をしてくれた。何の番組かは知らないけど。

開業医である先生の医院は広島インターのすぐ近くで、山陽道に乗るには都合がいいのだ。此処から高速に乗り東に向かって走って行く。

約30キロで西条ICだ。今は東広島市といわれるが、此処は日本三大酒処といわれ、兵庫灘、京都伏見、広島西条、と江戸時代から並び称されている。

因みに、北広島市は遠く離れた北海道にあり、東と北は凄く離れているが、これは明治17年頃に広島県人が、蝦夷と呼ばれ原野だったこの地に入植し開墾した事に由来する。今は仲良く姉妹都市として交流を深めている。

車窓から酒造りの為の、高く赤いレンガ造りの煙突を何本も遠目にしながら、更に休まず走り続ける。三原、尾道の背後を通過し福山東インターを降りる。其処から江戸時代からの旧山陽道を東に向かう。

 のどかな田園風景の中を並行して井原鉄道の高架線が走っている。一昔前までは芦田川を遡ったこの辺り迄、入り組んだ瀬戸内の海だったのだ。

童謡「ゆうひ」や「とんび」の作詞家で知られる、葛原しげるの生家に立ち寄る。

「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む〜」の歌碑が有り看板によると、全国の津々浦々の学校の校歌を四百曲も作ったとある。

 言われてみると、私の故郷の広島県北で山の中の中学校時代に歌った校歌は、信時潔の作曲だ。この当時は如何に有名作家であっても所得が少なかったのであろう。教師の傍ら副業をしていたと思われる。

 そもそも著作権法なるものがある訳ではなく、其れが制定されたのは昭和45年の事である。二人とも明治の時代の生まれであってずっと後の事の様だ。

両側が田んぼの田舎の道を井原鉄道がのんびり走って行く。下に線路が有ってよさそうなものだが何故だか高架が多い。山坂が無く殆ど平地で有り、この方が農地利用には効率が良いのであろうか。

神辺を出てから間も無くの処で一里塚の標識が見えた。昔の山陽道の参勤交代や旅人の距離の目安であろう。然し、今は松の木は一本も無く、何の名残りも感じさせなかった。

高屋の駅前に来ると大きな看板が見え、そして優しい心地の良い音楽が流れている。

中国地方の子守唄「ねんねこさしゃリませ ねたこのかわいさ おきてなくこのつらにさ ねんころろん」

「あ〜、このメロディ聞いた事ある!」

と奥さんが叫んだ。そうなのだ、かっては民放テレビのエンディングテーマでこのメロディが流れており、昔からよく聴いていた。

今、訪れているこの地から生まれた子守唄が、遠い子供の頃を忍ばせる。

此処で聞いた子守唄に惹かれたのか、この後、五木の子守唄、島原地方の子守唄、と哀愁に満ちた故郷を巡る事になろうとは。

 因みに、瀧連太郎の「荒城の月」のモデルとされる岡城址見学に訪れた時、此処の豊後竹田市が「竹田の子守唄」の発祥地とてっきり思っていた。然し、実際は京都地方で歌い継がれたものである事を知った。

 でも此れだから徒然なる旅はやめられない。

暫く走ると左手に山の上に銀色に鈍く光る物が見えてきた。更に右手には国立天体観測所の看板がある。

昔から、晴れの国、岡山と言われているほど日照時間が長く、それほど高くない山々が多く、人家の明かりも無く空気が澄んでいる為、天体気象観測に適しているのであろう。

此処には美星町星田という地名がある。正に満天の星空で、信じられないくらいのお星様が見えるのだ。

高梁川を渡ると堤防の上の道を遡って行く。今日は総社の古い史跡の多く有る場所は予定にない。

この川は何時から存在するのか、遥か、遠い遠い昔から変わらず流れている。今から約五百年前の室町時代に活躍した、雪舟が育った子供の頃の原点であるこの地に思いを馳せ、この山でこの川で遊んだであろう、変わらぬ風景を頭の中で想像すると、今、此処に子供の雪舟が飛び出して来て、話しかけてくる錯覚に陥っているのである。

時代は変わり人の世も変わる、されど高梁川は何も知らんぷりで静かに流れていく。

今日は先生夫婦との徒然なるがままの旅の原点である、雪舟に所縁の名刹、臨済宗宝福寺を訪れる事が第一目的である。

互いに両手を合わせて山門をくぐった。創立年代は不明ながら、歴史の重みを感じる境内を歩くと綺麗な石庭がある。国の重要文化財である立派な三重の塔や方丈があり、秋は紅葉の名所とある。さぞ美しい事であろう。

寺社内を歩くと橋本なる墓が有る。墓誌は無い。お参りされていたご婦人によると、橋本龍太郎元総理大臣の墓らしい。方丈を眺めていると、あの有名な少年時代に、雪舟が涙で描いた鼠絵の伝説の板の間がある。

 然し、中は公開されていなかった。そして外には小僧さんの頃、柱に縛られている像がある。あれだけの立派な禅僧に成ると、嘘もまことしやかに伝わるものなのであろうか。

雪舟は武家の生まれである。

当時、この地に学問所はなく、学問や文芸などは禅僧であるお寺さんか教えていた。宝福寺に預けられたが短い期間しか在籍していない。その後は京都相国寺へ禅僧として修行に入っている。

 そこでは禅僧修行を積む傍ら師匠に絵の教えを受けている。当時は絵を極めるのも修行の一つであったのだ。

 又、遣明船で明(中国)に渡り、三年間水墨画に励み、日本に帰国、各地に墨の濃淡だけで描く山水画の国宝級の名作を数多く残している。又、山口、益田と雪舟庭も造営している。


お寺を後にし、其れから山間の道を高梁川と並行して走ってく。綺麗な水の流れだ。

暫く行くと難解な駅名の看板が現れた。「美袋」と書いてある。

「奥さん、あれを何と読む」

「エ、エッ、みたい?」

「お父さん、分かる」

「サァ、ワシが知るか」

「あれは、みなぎですよ」

「へぇ〜、全く読めんわ」

「此れは難解駅名の一つですよ」

何のことはない、自分は出掛ける前に予習をしていたのだ。

余談だが三つ並べると超難解な駅名がある。何と読む?

「三次」「八次」「木次」

さぁ、分かるかな。(中国地方の駅名) 正解は巻末で

高梁の街に入って来た。ここの古い街並みの、美観地区を散策しながら奥さんはお土産を買っている。其の即ぐ近くには、山田方谷先生寓居跡がある。

其れから鎌倉時代に築かれた、日本三大山城と呼ばれる備中松山城へと車で駆け上がる。標高の高い所にあり霧のシーズンになると天空の城と化す。

だが本日は、急な坂道に恐れをなして途中で引き返す。

其処から離れ、暫く伯備線、高梁川に沿ってどんどん北に上がって行くと、川向こうにある「方谷」という小さな駅のホームが見える。谷合いに有る小さな駅舎である。此れも読み難い駅だ。

「ほうこく」と読ませる。

でもこれが全国的にも珍しい人名を冠した旧国鉄時代に名付けられたので、先程、高梁市内で見た山田方谷の生誕の地である。

昭和の初め鉄道省は「人名は絶対に駄目だ」と却下したのだが何度も請願し認められている。

方谷は備中松山藩に士分に取り立てられ藩政改革、財政立て直しを行い藩の為に貢献をした人物であった。

一夜漬けの予習でも、しているしてないでは大違いで有る。印象が何時迄も残っているのだ。其れがお客様を案内する真のサービスというものだろう。

昼飯はこの先の手打ちうどんの“くさまや”での遅い昼飯だ。新見市から高梁川下り探訪で一度立ち寄っている。今日は逆のコースなのだ。

「 食事を済ませると其処から吹屋の里を目指して駆け上がって行く。

此処は、かって栄耀栄華を極めた銅山、赤の顔料、ベンガラを産出した処だ。

小高い峠の頂上に家並みが続く通りに入って来た。

 他とは全く違う光景に出会す。赤銅色の石州瓦に赤い格子戸、江戸時代から昭和初期に栄えた街並みだ。 

 当時は多くの人達が住んでいた事で有ろう。

通りから少し高い処に、今は廃校になってしまったが吹屋小学校がある。明治6年に開校した国内最古の立派な木造校舎だ。

 然しながら、日本人の先達も賢いものである。江戸時代が終り、明治維新後すぐにこうした学校が国中に建設されている。こんな田舎の山村に迄もだ。昔から読み書きが普及し、更に、国民の殆どが学ぶ事が出来る様になったのだ。

 以降、綿々と続き多くの卒業生が巣立っていった。 

 現在も日本国民の識字率が世界でダントツのトップである筈だ。

 今は文化財に指定され、後世までも残す為に修復工事がなされていた。

赤の顔料は、有田焼や九谷焼にも綺麗な赤い絵付けで高級品として重宝され、其れを営む庄屋も潤い、現在も山中に其の痕跡が残っている。

其の中の一つに広兼邸が有る。山の中に異様に大きな白壁の邸が高い処にある。

銅鉱山やベンガラ製造を営んでいた大庄屋で、映画ロケにも度々使われ、八つ墓村や他のテレビドラマの撮影も数多く行われている。

又、近くの高草八幡宮に三人で上がってみた。創建は千二、三百年前と思われる。

昔の最盛期の頃は鉱山、ベンガラの鉱夫や職人、家族と何千人もいて、神社の村祭りで昼は祭礼、夜は神楽と大人も子供も盛大に楽しんだ事であろう。三人で昔の人達の暮らし振りを想像しながら、石段を登り鳥居をくぐると、目の当たりにした現在の寂れた辺りの景色を見るにつけ感慨深いものがある。

吹屋の里からの帰り道、

「先生、今日は新見から中国縦貫道を走らず、このまま山道を神石高原へ抜けましょうか」

「そうしょうか。まだ日が高いからのんびり帰ろう

や」

そうは言ったものの、険しい悪路が続く。重なる深い山また山の中が、高梁市、神石高原町とは名ばかりで恐れ入る。まるで車と人に出会わさない。たまにウサギや狸の小動物が道を横切って行く。谷間には数頭の鹿も目撃した。

 然し、何で昔のままの村にしておかないのだろうか。

要らぬ節介で有ろうが行政上の市町村区分などどうでもいい、村は村の呼び名でいいのだ。

幾ら、何十分、走れども集落どころか一軒家らしきものも標識も見当たらない。実際のところ広島県も岡山県も標高は高くないのだが、重なる様に山が連なり谷間が多く通行を遮ぎるのだ。

「先生、こりゃ又、凄い山道ですね。考えればええ時代になったもんですね」

「何がよ」

「こんな山深くても狭いながら道が舗装してあるんですよ。一日に何台も車が通らんし、人っ子一人として歩かんでしょう。ほんま何時、工事をしたんですかね」

「そうよな、ワシらの子供の頃は、広島の街中の山陽本線、横川駅の近くに住んだ事が有るが周りは殆ど舗装してなかったよ。車もたまにしか通らんかったし砂利道の上で、球投げをしたりビー玉遊びをやっとったな」

「そういえば、道路舗装いうたら今と違ごうてコンクリートでしたでしょ。乾燥に何日も掛かり、子供の足で靴の跡をつけては走って逃げていましたよ。其れが何年も残っているのが嬉しくてね」

「そういやぁ、わし等もやっとったな」 

 昔の思い出話しをしながら、くねくねした坂道をゆっくり上がったり下ったりしていた。

「凄い所を走っとるな。まかり間違えりゃ谷底で」

「怖いからゆっくり気を付けてね」

「奥さん、酔わん?」

「今のところは大丈夫よ」

 離合も出来ない様な杉や松林の細い道のその先が急に開けてきた。

そんなに広い空間では無いが、何がしかの耕作地がある。

何という!

 その先に子供の手を引いた女性がいるではないか。

 其れも背中には赤ん坊を背負っている様だ。然し、人家は見えない。

突如、現れたこの光景に、先生夫婦と私は思わず声をあげて感激してしまった。

「何という事じゃ」

「ワァ〜、子供さんがいる!」

今時、奥深い山の中で、子供連れの若い女の人を見かけるなど殆ど有り得ない。

「一寸、止めて!」

車を止めると奥さんが降りて、親子に近づいて行きそして話しかけた。

「こんにちは、子守りも大変ね」

「こんにちは」

「コンチワ」

 小さな子も嬉しそうに声をだしてきた。

「でも別に、子供といると楽しいですよ」

「こんな処に住んでいて寂しくない」

「とんでもない、おじいちゃんとおばあちゃんが何時もいるし、自然の中で子供は伸び伸びしているし幸せですよ」

確かに子供さんは、他所の人を見て嬉しそうに駆け回っている。

こちらも親子連れと奥さんの会話を聞いていてほのぼのとしてくる。

 聞けば自分は高梁の町から嫁入りしたらしい。旦那は近くのダム事務所に勤めているとの事、此処が生まれた家らしい。

 奥さんは帰り際に、高梁市内で買ってきたお土産を差し出した。

「此れを食べてね」

「そんなぁ、見ず知らずの人から頂くなんて」

「いいから、いいから」

と子供に手渡した。

「アリガトウ」

この若い奥さんは、

「このお菓子は自分の家の近くのお店なんですよ」とはにかみながら礼を言った。

小さなお子さんの嬉しそうな笑顔、車が見えなくなる迄、この親子は手を振っていた。

別れて直ぐの左手に、小さな赤いトタン屋根の一軒家があった。昔は藁葺き屋根であっのを現在はこうしてカンカンを被せているのだ。築年数もかなり古く、代々に渡りこの家に住んでいるのであろう。

暫く走ったが人家は見当たらない。以前は、何軒か此処の土地に住み集落をなしていたものであろう。

此れだから、人里離れた山の中で暮らす人達との、一寸した触れ合いが印象に残って忘れられない。この人達にしてみれば、此処での暮らしが最上のものに違いない。

今日は道を違えて帰って来た為に、一日中、幸せな気分に浸れる事が出来た。

話しが逸れるが先生夫婦には子供さんがいない。

地域の学校が夏休みの時、地区の小学生達が朝、広場に集まってラジオ体操をする。その後、医院開業時間の前に待合室にゾロゾロと子供達が集まって来る。そして奥さんは紙芝居をされるのだ。

開業以来、何十年と続けておられ其れも全くのボランティアである。ここに観に来た卒業生は今迄に何百人もいるという事だ。マスコミにも何度か取り上げられて報道されている。

少しでも子供達の心を豊かにする為に、体を動かした後に静なる「紙芝居」を取り入れて生活を充実さる、お医者さんの奥様らしい配慮があるのです。今時、アニメ、テレビゲームの時代に逆行すると思われるかもしれないが、小さな頃から絵本を読み聞かせてもらっている子は、人の声に耳を傾ける様になり、集中力が高く、何事にも飽きっぽくなく、感性豊かな人間形成に役立つのではなかろうか。

今日の山の中での出会いにも、奥さんの優しさと愛情が溢れるさりげない姿勢に、本当に頭が下がる思いがした。

其れから又、山道を下って川の側を暫く走ると大きなダムが見えて来た。多分、主人の勤め先は此処ではなかろうか。この上流は帝釈峡のある処だ。

広島県側に入ってきた。然し、中国山地は山また山である。

此処だけではないが日本国中、国土の70パーセント以上は山で有り、綺麗な水や空気に恵まれて緑豊かな自然が溢れている、本当に有り難い事である。

庄原ICを中国自動車道に入り、一路、帰宅の途についた。



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