第117話 傲慢の悪魔
「エレナ──」
弱弱しい魔王の声に、返ってくるものはなかった。ただただ重苦しい沈黙だけがそこにはあった。
魔王はどうしようもなくなり、そっとエレナの手を握ることしかできない。
──あの後、ドリアードが森の異変に気付き、すぐにそちらへ向かった。しかしその頃には既にセロの姿はなかったのだ……。エレナは迅速に自室へ運ばれたが、その身体は酷く冷えていた。一応呼吸はしているものの、まったく目覚める気配がない。このままだと餓死してしまうだろう。目覚めたシルバーの証言でウィンがエレナに何かをしたのは分かってはいるが、それ以外は情報がなかった。
(一体、今、エレナの身に何が起こっているんだ……)
エレナを見つめる魔王の背後でノームは、何もできない自分に苛立ちを覚える。
……と、掠れたシルバーの声が部屋に響いた。彼はエレナを守れなかったショックで酷く憔悴している。
「──これは、吾輩の憶測にすぎませんが」
そう前置きすると、その場にいる全員がシルバーに注目した。
「悪魔とは、人間の大罪の具現化。この世には大まかに分けて七つの大罪があると神々によって定義されています。つまり強い力を持つ悪魔は七人いるということです。それを踏まえた上で今まで吾輩が知っている悪魔は
「つまり、その二人のどちらかの能力かもしれないと?」
「……、」
アムドゥキアスがシルバーの言葉を簡単にまとめる。その後ろでアスモデウスが微かに呼吸を乱したのを一番傍にいたサラは見逃さなかった。
「色欲は、ないでしょうね。有力なのは傲慢の悪魔。傲慢という言葉から察するに“人を侮り見下す罪”とはなりますが……」
『──半分正解で、半分不正解、といったところか』
「「!?!?」」
聞き慣れない低い声。しかしノームだけはそれに覚えがあった。ふと軽く肩を叩かれ、振り向くと──
「ひ、久しぶりだね、ノーム君」
「ハーデス様!? どうしてここに!?」
死人のように真っ白な肌に、蜘蛛の巣のような髪。間違いない。彼はノームとエレナが数年前に出会った冥界の主──ハーデスその人であった。ハーデスの突然の登場によって周囲は警戒するが、ノームが慌ててそれを止める。ハーデスは内気な性格のようで、さっとノームの背中に隠れた。
「おい兄上。その胡散臭いおっさんは誰なんだ」
「こら。失礼だぞサラマンダー。この方は冥界の主であるハーデス様だ。デウス様の他に唯一存在する神だぞ。数年前、色々と事情があって知り合ったんだ」
サラマンダーは素っ頓狂な顔をしたが、この状況でノームが嘘をつくとは到底思えなかった。それに魔王がエレナに集中していたとはいえ、城の監視を抜けて今一瞬でこの場に現れた得体のしれない男の力にそう納得できなくもない。
皆がひとまず警戒を解いたところで、ノームがハーデスに尋ねる。
「ハーデス様。先程の言葉は一体どういう意味でしょうか。ハーデス様はエレナの現状を理解しているような口ぶりでしたが……」
「まぁ、大体なんだけどね。ここに眠っているエレナさんの肉体には魂がないんだよ」
「魂……?」
「うん。今の彼女は正確には死んでいるんだ。身体だけ生きているだけで」
その言葉にノームは鈍器で頭を打たれたような衝撃が走った。
「しかし彼女の魂は
「ほぉ? つまりそれが半分正解の部分というわけですか。ではハーデス神よ。吾輩の憶測のどこの部分が不正解なのです?」
「傲慢が“人を侮り見下す罪”という点だ。傲慢の大罪は神々の中でも尤も嫌われている大罪と言っていい。何故ならここでいう人間の傲慢の大罪とは……“自らを神と名乗る”ことだからね」
「!」
ハーデスは語る。傲慢の大罪とは神の権力が強いこの世界だからこそ生まれた大罪だと。人間は強い力を本能的に求めてしまう。故に、その権力を持つ神に自らなろうとする人間も出てくるだろう。神の存在を侮辱し、人間の限度を越えようとする。それが傲慢の大罪。
「──これを前提にすると、傲慢の悪魔の能力はなんとなく推測できる。この世界の神になることは絶対に不可能だが──ならばその神の手が及ばない世界を自分で作ればいいんだ」
「世界の、創造……? そんなの、悪魔ごときにできるはずがない!」
「あぁ。だからこそエレナさんは身体まで奪われなかったんだ。おそらく悪魔の能力は『仮想世界の創造』。非常に強力なものだが、少しの
「……つまり、その世界にどうにか潜り込んできっかけを作ればエレナは戻るんですね」
ノームがハーデスを見上げる。そのあまりに強い形相にハーデスは思わず後ずさった。
「その仮想世界とやらに心当たりがあるのですねハーデス様。だからここに冥界を飛び出してまでわざわざ現れたのでしょう」
「……あぁ、その通りだ。本来私が管理しなければならない魂が攫われたことは冥界の主としてどうにかしたいし、ペルセネにお願いされたからというのもあるがね……。心当たりといってもシンプルさ。その創造された世界がどんなに遥か遠くにあったとしても、
「十分です。余がいきます。魔王殿──」
ノームは間髪を入れずに名乗り出た。そして魔王に振り返る。魔王は──黙って頷いた。本当は自分が一番エレナを救ってあげたいだろうに、彼はエレナをノームに託したのだ。ノームはしっかりとその重さを受け止める。
「じゃあ、ノーム君。早速君の魂をそこへ飛ばそう。次に目を開ければ、君は傲慢の悪魔が創造した未知の世界にいるだろう。どんな阿鼻叫喚かは想像できない……。しかもそこは悪魔自身が創造した世界だ。故にそこでは悪魔は無敵と考えていい。勝利は絶望的! 勝利以外の方法をどうにか見つけ出さないといけない。それでもいいんだね?」
「はい」
「分かった。君がその覚悟なら私も答えよう。いいかい、ノーム君。君が行くところは本来あってはならない曖昧な世界だ。君がその世界にいるエレナさんにその矛盾を伝える事ができれば、きっとエレナさんを取り戻せるはずさ。……じゃあ、目を閉じて。エレナさんと一緒に帰ってきてくれよ……」
言われるままにノームは目を閉じた。ハーデスの魔法陣の光に包まれながら──強い決意を胸に秘め──彼は、旅立つ。
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