うたかた晴れの街

三木有理

第1話 記憶売りのマーサ

「その頃、私は港町のアーロイに住んでいて、娘は17になったばかりだった。上の息子が内地から手紙をよこしてきてね、危ないからこっちに来るようにって……」

 老婆の声に耳を傾けながらメモを取っていた青年は、目線だけを上げて訊いた。

「危ないっていうのは……?」

「エスケネック諸島のクーデターがひどい方に転んで、無政府状態が続いていたの。そのせいで沿岸では海賊行為が目立つようになっていた。漁船も商船も出入りを控えたり傭兵を雇ったりして……町がギスギスしていてね」

「エスケネックといえば、アーロイの真南ですね」

「そう。よくない噂も色々立つようになって、内地に身を寄せることを考え始めた矢先に、娘がさらわれてしまったの」

 青年は色の白い、そばかすの散った顔をじっと動かさなかった。

「方々尋ね回って、人買いに売られかけていたのをすんでのところで見つけたの。私は全財産を差し出して、ようやく娘を取り返した。幸いにも無傷でね。あの時ほど神に感謝したことはなかったわ。財産なんて娘の命に比べたらどうでもいいものだとわかったの」

 青年は手帳にメモを取り続ける。老婆の手元のティーカップから、ハーブティーの温かい芳香がたゆたっていた。


   *


 サースエストは半島の南端にある街で、三方を海に囲まれていた。海は今日も凪いで、爽やかな風を運んでいた。

 少女アリナは雲一つない青空の下で足取り軽く石畳を駆け、花壇に囲まれた薄茶の建物の前で立ち止まった。

「ここ!」

 そう言って振り返ったアリナの後ろには、ふっくらと大柄な体には似つかわしくなく背中を丸めた青年がいた。

「ここの5階。階段で平気?」

「う、うん」

 青年──マッシュは抱えていた紙袋を抱き直し、太陽から隠れるようなていでアリナの後について建物に入った。

 やや砂っぽい階段を折り返し折り返し上りながら、マッシュは──おそらく初めて──自分から口を開いた。

「おばあさんが、こんな上の階に一人で住んで、大変じゃないのかな」

「大丈夫、反対側にね、長ーいスロープがあるの。ここはちょうど坂のふもとだから、坂の上からスロープを使えば、すごく楽ちんなの」

「へえ……」

 マッシュの額に浮いた汗が光る。アリナは疲れた様子もなく廊下を抜け、濃い緑のドアを叩いた。

「こんにちはー、アリナでーす。配達でーす」

 大きな声でそう言ってから、アリナはマッシュに向けて小声で

「ここ、ドアベルが壊れてるの」

と言った。

 部屋の中から返事はなく、聞こえるのは表の鳥の声ばかりだった。アリナは当たり前のような顔をして、ドアノブを回した。

「こんにちはー。お邪魔しまーす」

 外の陽光に比べると、部屋の中は夜のように暗かった。西側の窓が開いていて、そこだけがぽっかりと真昼だった。

「ご苦労様。アリナ」

 老いた声に、マッシュは思わず息を詰めた。部屋の主は、最初から視界の中にいたのだった。ただその姿が微動だにせず、その影がとても小さかったので、薄暗がりの中で気付かなかったのだ。

「いつものパンのお届けです! それからパン屋さんの新しいお手伝いの──」

「ま、マッシュ・ウィントー、です」

 マッシュはかろうじて頭を下げた。それだけで喉が渇いた。

 老婆は小さなテーブルセットに収まったまま、ゆっくりとお辞儀をした。

 アリナはくるりと身を翻すと、小さな老婆を両手で差し示した。

「そしてこちらが、マーサ・リベックさん! 記憶を売って暮らしているの。年齢は……レディなので秘密!」

 マーサは深い皺の中に両の目を隠してくすくすと笑った。

 マッシュは口の中でもごもごと、どうも、と呟いたが、記憶を売るという言葉の意味がわからなかった。わからないことを訊くのは苦手だった。

 立ちすくんでいると、アリナが下から紙袋をすくい取っていった。

「パン、台所に置いておくね。あっ、ハーブティーの匂い! 記者さんが来てたの? ついでだからお茶器も片付けておくね!」

 こまねずみのように動くアリナにマッシュはすっかり置いていかれて、マーサの前で手の平の汗を握りしめた。

 開け放した窓から風だけが入ってくる。部屋の中はおそろしく静かだった。

「あ、あの……記憶を、売る、というのは」

 沈黙に耐えきれなくなって、とうとうマッシュは口を開いた。

「お……僕は、この街に来たばかりなので、よくわからなくて……」

 マーサは小さな目でマッシュを見た。髪はすっかり白かったが、瞳は淡い緑が美しかった。

「そんな、大したものじゃないのよ。この歳まで生きていると、私にとってはついこの間のことが、いつの間にか大昔の出来事になっているの。歴史家が調べ集めるようなね。私は覚えていることを話すだけ。年寄りは昔のことほどよく覚えているから……」

 マーサの声は風に溶けるほど静かで、それでいてはっきりとマッシュの耳に届いた。マッシュは両手をもみ合わせる。

「あなたも本土から来たのね。ワグステンの生まれ?」

「え……あ、はい」

「私は結婚してワグステンに住むようになったの。育ったのはもっと西の国よ。ずいぶん東へ来たものだわ……」

「……」

「私はもう本土に渡ることもないけど、あなたはこれからどこへでも行けるわね。西でも、北でも、南でも」

「ぼ、僕は」

 マッシュは慌てて言った。口の中が乾いて、しゃべりづらかった。

「仕事が何もできなくて。ずっと怒られてばかりで。だから、本土には戻れないし、こ、ここでも、何も」

「ここで何もできない人はいないわ」

 マーサは言った。

「生きていればそれでいいの」

 マッシュは意味を取りかね、そして訊きあぐねて、また沈黙に取り囲まれた。

 アリナが戸棚を閉める音がするまで、部屋ではただ風が遊んでいた。


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