21.連絡員と情報局員の邂逅
チ…… ン、とグラスの音は、人気の少ない店内の空気を震わせた。薄い、よく磨かれたガラスの音だ。
キムはその音にちら、と視線を走らせた。するとその音の主は、手をひらひらと振る。それだけではない。顔には非常ににこやかな笑みをもたたえて。
だがその相手に対して、キムは即座ににこやかに笑うという訳にはいかなかった。条件つきの笑いが、顔中を一瞬にして被うのを感じる。自分の愛人があまり好きではない、この表情なのだが、ある種の人間に対しては非常に有効ではある。
「何か俺に用?」
明るい声の調子。わざわざ立ち上がり、キムはそのグラスの男に近づいた。テーブルに手をつくと、緩く編んだ三つ編みがざらりと背中からすべり落ちた。
奇妙なバランスだ、とキムは思った。顔全体の骨格のはっきりした男だった。そしてその男は、自分同様、その顔の上に、得体の知れない笑みを一杯に浮かべている。
「いや、とりあえず君自体には今は、無いよ」
なるほど、と連絡員は思う。金色のトランペット、と盟友が評したことがあったが、確かにその声質は、高音を張り上げれば出せばそのタイプだろう。レプリカントの耳は即座に判断する。
「ふうん」
キムは曖昧にあいづちを打つと、男の斜め前に座った。そこは先日同僚と話した席だった。座ってからやっと、その事に気付く。
同僚の姿は今日はこの店内にはない。ピアノの前は空席だった。
そのせいなのか、店内の客の数はやや少なかった。あの同僚目当ての客も少なからず居たとということだろう。だが彼が「エビータのお召し」で第一層に向かったことは、既にこの店中に知れていた。
連絡員はその良い耳で、それらの噂を既に聞き知っていた。無論自分もその一端を担っていた訳だが……それは連絡員にとっては大した問題ではない。あの時も、客の視線は、自分よりも、同僚の姿に注がれていたはずだから。
そしてもう一人、この店内から消えていることにも、キムは気付いていた。
流れている六弦の音が、いつもより単純なのだ。いつもだったら、タイプの違う音が、絡み合って、面白い音色になっているはずなのに、どうも今日は一人しか六弦弾きがいないらしい。
「つまり今日は、俺には用はない訳ね、鷹さん」
「そう。君には用は無いよ、キム君」
腕を前で組んで、およそ傲慢な程な笑みを浮かべ、帝国内調局員は、反帝国組織の幹部に、自分の正体を宣言した。
名前を公言するということは、自分がその正体である、という情報を相手に手渡したことになる。つまりは、情報の取引である。それを相手に渡した時点で、取引材料を一つ手渡したことになるのだ。
この場合は、敵対するつもりはない、という中立の意志が材料である。確かに、キムにとっても、この場所で内調局員と対立する気は無かった。
内調は帝都における国家直属の最高の情報機関だが、情報のために動いているのであるので、直接反帝国組織に手を出す特高や軍警とは別の行動理念を持つ。時には、任務のためには反帝国組織と手を組む場合もある。そしてそれは彼らの正義には決して反しないのだ。
「はじめまして、と言うべきかな」
そして無造作に鷹はキムに向かって大きな手を差し出す。キムはそれをやはり無造作に取ると、ぐっと握りしめる。強い力だ。そしてその皮膚からは、長い闘争の経験が感じ取れる。
「顔を合わせるのは初めてだ。だけど俺はあんたの存在は知っていたよ」
「おやおや。彼は俺のことを言っていた?」
「固有名詞を出す訳じゃあないけどね。だけど奴の身体が言ってたよ。もっと自分を熱くさせる相手が居るんだって」
ふうん、と実に面白いとでも言いたげに、内調局員は目を細める。
「仲がいいんだね君達」
「仲はいいけどね。妬ける?」
「いや」
そしてひらひらと再び手を振る。
「今更」
「今更、かなあ?」
「今更、さ。過去は、過去に過ぎない」
そう言うと、鷹は良い音を立てたグラスを掴んで、一息に飲み干した。
ずいぶんと濃いものであったように見えたのだが、確かにこの類は大して効かないだろう、とキムは思う。この内調局員は同僚と同じ種族なのだから。
「であんた、お目当ては? まさか、うちの同僚じゃないだろ?今更」
キムは足を組み替える。内調局員は、ふふん、と鼻で笑いを浮かべた。
「目的はね。目的自体は違う。ただちょっとだけ利用させてもらったけどね」
「ふぅん。そんなこったろうと思った。気付かないあいつも馬鹿だけどさ。目的は、アレかい?」
「そう、アレ。さすがにアレは、うちでも興味の的でね」
それはそうだろう、とキムは思う。ただ、内調の必要とするものは、「エビータの好意」ではないことは確かだ。彼らには、わざわざそれを取り付ける必要はない。
内調の不気味な程の、事実に対する態度の平たさというのは、実にキムには判りやすかった。必要とされるのは、情報であって、そこに関わる人間ではない。だから彼らはどんなものでも利用するのだ。
まあそこまで徹底すれば、なかなか気持ちいいものも無くはないのだが。
「で、奴に発信器でもつけたの?」
「発信器? そんなもの」
くくく、と鷹は頬杖をついて笑う。と、その大きな目は、不意に天井に視線を飛ばす。猫科の動物を思わせるその瞳は、何やら、ここでない何処かを見ているかのようだった。
「さて、そろそろ彼らはエビータの宮殿の玄関か」
「あんたテレパシイなんかあったっけ」
「いや」
ひらひらと鷹は手を振る。
「俺は、見ているだけさ」
「ふうん」
そう言うと、キムはいきなりその拳を前に突き出した。拳は真っ直ぐ目の前の相手の首の前、3センチくらいのところで止まる。
「本当に、それだけ?」
キムは全く口調を変えずに訊ねた。
はめている銀色の指輪から、細い針が飛び出していた。殆どそれは、相手の喉に当たるか当たらないか、というところである。それに気付いているのかいないのか、鷹は相変わらず頬杖をついたまま、不敵に笑いを浮かべている。
そして言う。
「なるほどね。でもやめといた方がいいよ」
どういう意味だ、とキムは問いかけようとした。だが、その意味を耳にするより、両頬に金属の感触を感じる方が早かった。
「おいおいやめてくれよ。ほっぺたに丸く跡がつくのは御免だよ?」
「あっそう。背中ならいいのかい?」
やや高めの、元気な声が背中から聞こえてくる。
いつの間にか、あの小楽団の三人が、三方から自分に銃を突きつけているのに気付いた。気配は無かった。さすが訓練された内調局員である。
それでいて楽器も弾けるなんて、色々才能があるもんだ。
そして悠長にそんなことを考えたりもしてしまう。だが、それは言葉には出さない。言ったところで怒らないとは思うが、まあ後で言うことにしよう、ととりあえずキムはこんなことを言ってみる。
「どっちも嫌だね。俺を殺す奴のことは俺が決めるもん」
「決めてるのかい?」
意味ありげに鷹は口元に笑みを浮かべる。そしてふふん、と今度はキムが鼻で笑いを浮かべた。
「そう言われたからね」
そして指輪の針を引っ込め、拳を下ろしてテーブルの上に置く。
するとあっさりと三方の銃も身体から離れた。
ジョーはそのまま腰にすっとそれを差し、ニイはくるくると回してからもう一度構え、それからベストの下のホルスターにしまった。
シェ・スーだけはそのまま銃を握ったまま、それで威嚇するかのようにキムを眺めていた。なかなかこの青い髪の男はだるそうに見えて迫力があるな、とキムは思う。
まあ元々、敵対する気は、今回はさらさら無いのだ。肩をすくめ、指輪をくるりと反対側に向けた。それを確認すると初めてシェ・スーは銃を腰に納める。
「で、どぉなの?リーダー。奴は今」
「んー? 玄関で、『ごめんください』してる頃かなあ」
再び遠い目で、内調局員は、そう仲間に告げた。
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