第4話 蛇災
「お前、まさか本気にしてるんじゃないだろうな?」
口の端に煙草を咥えたまま、大瀧は唸るように言った。眉間には深い皺が刻まれ、声には僅かに怒気がこもっている。
児童相談所の駐車場に停めた車の中だった。運転席に座った羽生は、否定も肯定もせずに大瀧の髭面を真っ直ぐに見返していた。
不自然な程に外は静かで、車の屋根やボンネットに当たる雨音が普段より響いて聞こえている。エアコンを止めているせいか、車内は紫煙で薄く煙っていた。
「縄月の家がどういう家なのかは解った。蛇神を奉る呪術師だというのは別にいい。だが、縄月宗一が呪いか何かで殺されたと思ってんのなら、それはありえない話だぞ」
大瀧はそう吐き捨てると、煙草を携帯灰皿で揉み消した。窓の外へと顔を向け、小さく溜息を吐く。不機嫌そうな横顔に、羽生は躊躇いつつも、
「自分もそう思ってます。呪いで人が死ぬはずがないと。でも、だとしたら、あの縄月の死体は何なんですか? 検死をしても解らないことが増えるばかりじゃないですか」
出来るものなら、大瀧は羽生を一喝してやりたかった。しかし、羽生の言うとおり、こと死体に関してはまるで捜査が進んでいないのが現実なのである。理屈で考えれば考えるほど、あの死体を作る方法も意味も解らなくなってくる。
だからといって、羽生が安易に呪術を口にするのは、刑事として大瀧には見過ごせなかった。
大瀧は羽生に顔を向け、凝ッと彼の両目を見つめた。
「俺達は警察官だ。俺達が扱ってるのは現実の事件だ。被害者がいて、加害者がいて、凶器や物的証拠があって、物質的に起こった事実を論理的に証明するのが仕事だろう」
形而下の物理法則という絶対の前提のもとに、事件も犯罪も起こりうる。それが警察の事件に対する大前提だと言っていい。
「もし、仮に呪術なんてものが関わってるとしたら、もう俺達の出る幕はない」
呪術を認めた瞬間、それは最早警察の管轄ではなくなってしまうのである。だからこそ、大瀧は認める訳にはいかなかった。彼にとって、それは職務放棄以外のなにものでもない。警察が投げてしまったら、誰が事件を解決するというのだ。
「死体のことは俺もまだ説明は出来ない。だが、あれが自殺でない以上、犯人がいるはずだ。俺はそいつを逮捕する。それが俺の仕事だからだ」
強く言い切ると、大瀧はノートサイズの携帯端末を車内の充電器から取り外して、それを羽生に手渡した。
おずおずと受け取った羽生がそれを起動させると、画面に市内の地図が表示された。その地図には所々にマークがつけられており、タッチするとその住所や情報が開示される。その内の一つは、事件のあったアパートの場所を示していた。
「これは?」
「この半年間で、縄月が宿泊したことのある場所だ。ビジネスホテル、カプセルホテル、ネットカフェ……あのアパート以外にも宿を頻繁に変えている」
大瀧は足を使って、縄月の足跡を調査していたのである。東京なら、街中にしかけられた監視カメラから対象者の行動を追うことも可能だろうが、地方都市となるとそうもいかない。地道な聞き込みをするしかなかった。これは彼の努力の成果と言えよう。
この情報により浮かび上がってきたのは、縄月の不可解な行動だった。生活の為の住居ということであれば、アパートだけで充分なはずである。一時的にとはいえ、他に居を移す意味が解らない。
「まるで逃亡犯ですね、これじゃ」
率直な感想を述べた羽生は、自分の言葉にハッとして、思わず大瀧を見やった。大瀧はニヤリと笑いながら、ゆっくりと頷いた。
「そうだ。これは逃げている人間の行動パターンに近い」
居所を知られないように、次々と住む場所を変える。一体誰に知られてはいけなかったのか。縄月宗一が誰かから逃げていたのだとしら、素直に考えれば、その人物こそが彼を殺した犯人だと推測出来る。
だが、縄月宗一の交友関係を洗ってはいるものの、それらしき人物の姿はまだ浮かび上がってこない。呪術師としての仕事の依頼者や被害者という線もあるが、それに関する一切の記録が彼の家からは発見されていないため、確かめようがなかった。恐らく、後の障りとなるので記録を残さないようにしていたのだろう。仮にそれが本当だとしたら、彼は相当に用意周到な人物だと言える。
もっとも、縄月の関係者ということなら、誰よりも近しい人間に動向が不明の者が一人いた。
「……縄月薫はまだ見つかってないんですよね?」
縄月の妻である縄月薫は、半年前に失踪して以来、未だに姿を見せていない。事件のことは大きく報道されているので、どこかで目にしたら何かしらの反応があっても良いようなものだが、それも無かった。
「探しちゃいるんだが、駄目だな。まだ容疑者でもないが、消えたままというのが気になる。本当に犯人なのか、或いは……」
既に、彼女もまた犯人に殺されているか、である。縄月宗一が彼女の死を悟って家を出たとすれば、彼の行動の辻褄も合う。娘は親戚の家に預けて、自分だけ逃げたということは、犯人の狙いが己だと解っていたのだろう。しかし、必死の逃走も虚しく遂に見つかり、殺害された。
「ったく、判断材料が足りんな。今のままじゃ、ただの妄想でしかねえ」
眉を顰めて舌打ちする大瀧だが、車内時計が午後三時を表示しているのに気づき、顔色がにわかに変わる。
「もう約束の時間じゃねえか。いくぞ、羽生」
ドアを勢いよく開け、大瀧は小雨の降る駐車場に降り立った。羽生もそれに倣うが、その顔は憂鬱に沈み、どこか動きも緩慢である。
「あの子が少しでも話してくれると良いんですが」
前回のことを考えると、羽生はどうしても気が進まなかった。児童相談所に何度も確認して、ようやく再度の事情聴取の許可が下りたのだが、素直に喜ぶことが出来ないでいる。それは大瀧も同じなのだが、職務への責任感の強い彼はそれを決して顔には出さなかった。
今回の事情聴取は、カウンセラーが同席することが条件になっている。前回、未優が取り乱したことを踏まえて、念のためにそういう措置が取られることになったのだ。
事前に診察をしたカウンセラーによれば、未優は解離性同一性障害の疑いがあるという。彼女が見せた別人のような言動、行動はそれが原因らしい。悲惨な境遇にある児童が発症する傾向があり、父の死が切欠になったのでは、というのがカウンセラーの見方だ。
もっとも、この話を聞いたとき、羽生は別のことを考えていた。九段肆鶴の話を受けて、個人的に憑き物について調べた彼は、かつては精神の障害が「狐憑き」「犬憑き」等と受け取られていたことを知った。彼女の症状も、精神医学の未発達な時代ならば、そういった憑き物と見なされていたのではないだろうか。
未優は、「何か」に憑かれているのだと。
「変に影響されちゃってるかもなあ」
羽生は独りごちると、肩を濡らす雨を気にしながら玄関へと向かいかけたが、ふいにその足を止めた。
誰かの強い視線を、羽生は感じていた。気配のする方へ目をやるが、そこには誰もいない。赤と青の紫陽花が生い茂り、雨粒に揺れているだけである。人が隠れるようなスペースもないので不気味だった。
「おい、何やってんだ」
いつまで経っても来ない羽生に業を煮やし、先に玄関に入った大瀧が戻ってきた。羽生は歯に物が挟まったような物言いで、
「いえ、なんか視線が……あそこから、なんですけど」
羽生が指をさすと、大瀧はその方向へと怪訝そうに近づいていった。無造作に紫陽花を覗きこもうとしたが、いきなり後ろに飛び退ってしまった。
「どうしたんですか?」
大瀧の大袈裟な反応に、己も近寄ってみる羽生だが、原因を悟った彼の顔がいきなり引き攣った。
紫陽花の中から、一匹の大きな蛇が頭を出していたのだ。縦に裂けた瞳孔を持つ黄金の両眼が、羽生の方を凝ッと見つめている。胴体は完全に紫陽花の茂みに隠れているので、全長がどれくらいあるかは想像に任せるしかない。
作り物と見紛うばかりに蛇は微動だにせず、羽生を観察しているようだった。
羽生の脳裏に、あの日の夜のことが過ぎった。階段の下に潜んでいた不気味な何か。アレは、蛇ではなかった。思えば、何故あの事件現場に蛇がいたのだろうか。恐らくは相当に巨大な蛇だったはずだが、都会の真ん中にそんなものが生息しているとは到底考えられない。
二人は口を失ったかのように押し黙って、魅入られたように蛇を見ていた。
奇しくも二人の脳裏には同じ言葉が浮かんでいた。
九段肆鶴曰く、縄月家が奉っているのは――。
「ヒイイイイイイイイイイイイイイイイ!」
突如、空気を切り裂くような凄まじい悲鳴が辺りに響いた。
羽生と大瀧は頭を殴られたような衝撃受け、互いに顔を見合わせた。正気に戻った二人は、警察官としての本能からか、次の瞬間には走り出していた。
悲鳴は間違いなく施設の中からだった。玄関で放り捨てるように靴を脱ぎ、廊下の奥へと飛ぶように駆けていく。
廊下のドアや窓から職員や子供達が頭を出して、不安げな顔を悲鳴のした方向へと向けていた。
そんな彼等には目もくれず、羽生達はひたすらに走り、遂にとある部屋の前で蹲っている白衣姿の女を見つけた。彼女は体中をガタガタと震わせながら、擦れた嗚咽のようなものを喉から絞り出している。見開かれた両目は血走り、部屋のただ一点だけを見つめていた。
大瀧は彼女の肩を揺さぶり、何が起こったのかを問い質そうとした。だが、恐慌状態に陥った彼女に答える余裕はないらしく、逆に凄い力で大瀧の身体にしがみついてくる。
大瀧が悪戦苦闘しているのを尻目に、羽生は部屋の中に思い切って飛び込んだ。
僅かに逆光になった部屋の中、影絵のようにその光景が広がっていた。
未優は椅子に座っていた。細い手足をだらりと垂らし、前屈み気味に顔を俯かせて。
床には、彼女を囲むようにして、ぶつ切りのホース状の物が何本も何本も転がっていた。放射線状にそれらが規則正しく配置された様は、さながら巨大な何かの紋様のようにも見える。
だが、それはホースなどではなかった。
何故なら、ホースは独りでに動いたりはしないからだ。
それは、生きた蛇だった。
蛇。
蛇。
蛇。
蛇。
焼け爛れたような赤黒い鱗をした蛇。
何十という数のそんな蛇達が、赤黒い鱗にまみれた身体をくねらせ、鋭く尾を鳴らしながら、未優を囲んでいるのだ。
「……み、未優ちゃん」
常軌を逸した悍ましい光景に、羽生は呻くように彼女の名を呼ぶのが精一杯だった。手足は恐怖から硬直し、金縛りにあったように動かせない。たとえ動かせたとしても、あの大量の蛇を前に何をどうすればいいのか、まるで思いつかなかった。
女を引き摺りながら入ってきた大瀧も、羽生同様に愕然として言葉を失っている。彼の中で、何かが必死に耐えていた。彼の精神を現実に繋いでいる舫い綱が、軋みをあげているのだ。それほどまでに、眼前の光景は想像を絶している。
「……いぐのおおかみのましますみざは」
その時、未優がゆっくりと顔を上げた。円らな瞳に意思の光はなく、瞳孔の拡大した穴のような黒瞳が、周囲の蛇達を見据えている。
喧しい程だった蛇達の尾を鳴らす音が、一斉にピタリと止んだ。
シン、と部屋が静まりかえる。外の雨音が、羽生達の呼吸音が、小さなノイズとなって微弱に空気を震わせるだけの、ある種の荘厳な空気すら感じさせる静寂だった。
「さばえなすこらの……おろちのてての……」
未優の口から切れ切れに零れる言葉の一つ一つに、蛇達は身を震わせ、鎌首を持ち上げた。何十という蛇が全く同じ動作をする様に、羽生の肌は粟立ち、嘔吐感が込み上げてくる。そこに、インドの蛇使いのような愛嬌などありはしない。これは、もっと邪悪な別の何かに思えた。
「かんなぎは……けんのうの……てごす……はん……」
彼女の呟きは、寝言のようだった。実際、彼女に意識があるようには見えず、その動きは夢遊病者のそれに似ている。もしくは、ある種の憑依状態、トランス状態を彷彿とさせた。
羽生は眼球だけを動かして、隣にいる大瀧の顔を見た。
大瀧の厳めしい顔は苦しげに歪み、額には大量の脂汗が浮かんでいた。呼吸は荒く、未優を見つめる目の瞼はピクピクと痙攣している。目を瞑ろうとする本人の意思を無視して、身体が拒絶しているかのようだった。
恐怖に身を竦ませる羽生達を余所に、未優はフラフラと立ち上がり、胸の前で両手を拝むように合わせた。そして、深く頭を垂れながら言葉を紡ぐ。
「さればいぐのおおかみにねんごろかしこみかしこみもうす」
少女の厳かな声が細波のように部屋に広がると、ふいに蛇達の動きが変わった。
それが解散の合図でもあったかのように、一斉に蛇達はドアの方向へと這い出したのだ。
己の足の下を奔流となって移動する蛇の群体に、羽生と大瀧の意識は途切れる寸前だった。
実際、女はとうの昔に気絶してしまっている。もっとも、彼女の足の上も容赦なく蛇は通過していくので、その方が幸せだったかもしれない。
部屋の外では、いたる所で金切り声と絶叫が上がっていた。ドタバタと聞こえるのは、半狂乱になって逃げ出す職員や子供達の足音だろう。
暫く続いていた悲鳴と足音は、徐々に小さくなっていき、やがて雨音しか聞こえない静寂が戻ってきた。
部屋にはもう一匹の蛇もいなかった。先程までの騒ぎが幻であったかのように、その名残は些かも見られない。
椅子に腰掛けた未優は、放心状態で宙の何も無い空間を見つめていた。目元には色濃い疲労が見られ、乾いてひび割れた唇が細かく震えている。
その小さな身体が椅子からずり落ちそうになっているのを見て、羽生は咄嗟に駆け出し、床に落ちる寸前に抱き止めた。驚いたことに、蛇が消えるのと同時に金縛りも解けていたらしい。大瀧もその場に片膝をついて、安堵の息を絞り出すように吐いていた。
未優を抱いた羽生の顔に驚きが浮かんだ。彼女の身体の柔らかさと軽さは、愛娘のものと少しも違わない。今更になって、縄月未優がほんの十歳の少女に過ぎないことを思い知らされた気がした。
「……お父さん……どうして……行かないで……」
羽生の腕の中で、未優は身を縮ませながら、呟いた。涙声にも思えるそれを聞いた羽生は、まんじりともせず彼女を見つめていた。
縄月家の少女と蛇――これは、偶然などではない。
自分の住む世界にあるはずのない力が、確かに蠢いているのを羽生は感じ取っていた。
脳髄の皺や血管、細胞の一つ一つにまで、毒のように恐怖が染みこんでいく気配に、背筋が凍り、冷や汗が止まらなくなる。
恐ろしい。
恐ろしい。
自分の信じる世界が、裏返ってしまうような気がして――。
※
羽生達が児童相談所で蛇の災禍に見舞われていた頃、警察署のパソコンに一通の電子メールが届いていた。
送り主は、例の古文書の分析を依頼していた某大学の教授である。
文面は、分析が不首尾に終わったことの謝罪だった。専門家である彼にも、縄月家の『でれみすさいもん』の詳細は掴めなかったらしい。ただ、作成されたのが四百年近く前の戦国時代であることは確実だという。
内容は、宗教や呪術に関するものと見えるが、その取り扱っている神というのが問題で、およそ仏教にも神道にも属しない謎の神々であり、教授にも説明の出来ないものだった。
そこで、教授は自身の知人である専門家を紹介することにしたのだ。
メールには、その人物の名前と連絡先が書かれていた。
彼によれば、学術の徒ではないものの深甚な知識の持ち主で、業界でも比する者がいない程だという。ただし、多分に気難しい人間なので接し方に注意が必要、とも。
その人物は名前から察するに女性だった。
大学教授すら兜を脱ぐ程の博覧強記な才女。
九段肆鶴――それが、教授が推薦する専門家の名前だった。
つづく
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