第2話 忌子
児童相談所より少女の状態に関する連絡が来たのは、事件の発生から三日後のことだった。
「こりゃ、本当のことかよ?」
公用車の助手席に座った大瀧は、捜査資料の書類を読みながら、思わず苦笑した。
「はい。遺伝子検査でも、間違いなく
道路のカーブに合わせてハンドルを切りながら、羽生は答えた。ワイパーで雨滴を拭っているものの視界が悪く、睨むようにして進行方向に注意を払っている。
未優とは、部屋で発見された少女の名前だった。
縄月未優は縄月宗一の実子なのだが、大瀧が驚いたのも無理はない。彼女の容貌は、どこか西洋人を思わせるところがあり、尚且つその髪は薄い金色なのだ。ハーフと言われても信じてしまいそうだが、両親は確実に日本人なのである。ならば、養子か、でなければ不義の子という可能性もあるのだが、それは科学的に否定されていた。
ただし、話は少々複雑だった。未優は、現在の大瀧の妻である縄月薫(かおる)の娘ではない。未優の生みの親である女性は既に病死しており、縄月薫は父の再婚によって出来た義理の母親にあたる。彼女と未優の間に血縁関係は一切無いのだ。
兎も角、死亡しているその実母も間違いなく日本人だったのだから、未優の容姿はやはり不思議としか言いようがない。
「訳が解らんな。まあ、親父の縄月宗一からして大概だが」
大瀧の口調には、どこかウンザリしたような調子があった。隣で聞きながら、羽生も内心で賛同する。渡された資料を見れば、誰でもそうなるだろう。
事件後、警察はすぐに被害者である縄月宗一について調べた。詳しい住所や血縁関係はすぐに解ったが、職業が判然としない。自営業となっているが、具体的にどんなことをしていたのかは不明である。自宅で何かをやっていたらしいが、現段階では情報が不足していた。
縄月の自宅は、
「嫁さんが失踪した理由はなんだ?」
書類を捲りながら、大瀧はチラリと運転席へと目をやった。運転に集中していても何となく気配でそれを察した羽生は、同僚から聞いた報告を思い出しながら、
「……何かで悩んでいたらしいですけど、詳しいことまでは。今回の事件と無関係とも思えないので、詳しく調べる必要がありますね」
宗一の妻であり未優の義母である縄月薫は、半年に失踪していた。詳細は不明で、突然に姿を消したとだけ噂されている。しかし、縄月宗一が行方不明者届を警察に提出した形跡はなかった。すぐに戻ってくると思ったのか、それとも探しても無駄と諦めていたのか、今となっては死んだ被害者にしか解らないことである。
解らないといえば、縄月が死んだ場所も不可解だった。彼が家族で暮らしていたのは遠見の自宅だが、殺されていたのは別に契約していた市内のアパートだった。保管されていた契約書によれば、今年の四月に契約したことになっているが、彼は何故そんな部屋を借りていたのだろうか。
「失踪した奥さんの為に用意してたのかも……ほら、実はただの別居だったとか」
ふとした思いつきを羽生は口にしてみるが、大瀧は鼻を鳴らして頭を振った。
「別れ話がもつれての犯行だと? そんな単純な話なら、俺等も苦労しないんだがな。あの死体を見たろう? 性別どうこうというより、人間の仕業じゃあない」
捜査資料には、検死の結果報告も記されていた。死因は複合的で、断定が難しいらしい。直接的には喉を裂かれたことによる呼吸困難と失血性ショック死と見られているが、背骨を折られた時点でほぼ死んでいた可能性もある。喉の傷を作った凶器は金属製の刃物ではないとされていた。粗い傷口は、金属ではなく有機的な、ある種の牙か角状の物で切られた状態に近いという。背骨が単純な怪力によって折られたと見られているのは、他の箇所に強い衝撃が加えられた、つまり交通事故にあったような傷跡がないからだ。もっとも、担当した検視官の語るところによれば、「膂力のみでそんなことが出来るのは大型のゴリラくらいのもの」とのことである。
「何にせよ、情報が足りなさ過ぎる」
まるで、ピースの足りないジグソーパズルを解いているようなものだった。現状では、完成図の青写真すら描けていない。犯罪捜査をする上では非常に面倒な状況である。
それだけに、未優の証言には期待していた。犯人を目撃している可能性もあるし、少なくとも謎の多い縄月家の実像を知ることが出来る。
だが、父親が殺されたことで心に傷を負っている少女に、それを尋ねるのは酷な話でもあった。傷口に塩を塗り込むに等しく、彼女に二度目のショックを与えることにもなりかねない。その為、慎重を期して児童相談所の許可が下りるまで待っていたのだ。
彼女のことを考えると、羽生も大瀧も気が重くなった。それでも、事情聴取をする必要がある。憎まれるとしても、それは承知の上だった。仕事として割り切れば、それに耐えるのは難しいことではない。しかし、彼女の痛みの肩代わりは出来ないのだ。
「子供に無理はさせたくないですけどね」
溜息を吐いた羽生の目に、児童相談所の施設が飛び込んで来た。こぢんまりとしたコンクリート造りの二階家で、モスグリーンの外壁がまだ真新しい。入口の鉄門には錆一つなく、羽生達の車の姿が逆しまに映り込んでいた。
敷地内の駐車場に車を停めて、心なしか重い足取りで二人は施設の中へと入っていった。
出迎えてくれた小柄な女性職員に訪問の意図を告げると、彼女が奥の部屋へと二人を案内してくれた。
咳ひとつ聞こえない深閑とした廊下に、三人分の足音がやけに大きく響いて聞こえる。
羽生は緊張した面持ちで廊下の奥を見つめていた。未優に話を訊くのは、彼の役目である。これは彼が進んで手を挙げたのだった。損な役回りなのは解っている。少しでも彼女の痛みを受け止めてあげられたら、という動機なのが実に彼らしい。
目的の部屋の前で、職員に幾つかの確認をしてから、二人は静かに部屋へと入った。
部屋の中央に置かれた椅子に、ぽつねんと縄月未優は座っていた。
長い金髪をお下げ髪にし、俯きがちに自分のつま先を見つめている。借り物らしい、長袖のシャツとスカートを着ていた。三日前に比べれば、確かに元気を取り戻しているようには見えるが、体調はそうでも心の中までは窺い知れない。
羽生は彼女に近づくと、その場にしゃがみ込み、視線を同じ高さに合わせた。一つ小さく息を吸ってから、
「こんにちは、未優ちゃん。自分は刑事の羽生融。あっちは、上司の大瀧さんだよ」
なるべく刺激をしないように、抑えた声で優しげに語りかけた。
未優の双眸がついと動き、羽生の顔を捉えた。警戒、恐怖、疑念、様々な感情がその黒い瞳の中でチラチラと瞬く。羽生という見知らぬ人間を、値踏みしているようでもあった。
「今日は、未優ちゃんのお話が聞きたくて来たんだ。お話、してもらえるかな?」
実生活で娘を持つ父親だけあって、羽生の口調には慣れたところがあった。強ばっていた未優の身体から、少しだけ力が抜ける。しかし、視線は羽生から逸れて、自分の足下へと戻ってしまった。
羽生と大瀧は顔を見合わせた。承認とも拒否とも取れない、微妙な反応である。逡巡した後、大瀧は続けるよう促し、羽生も腹を括った。
「未優ちゃん。あの部屋でのことを話して欲しいんだ。未優ちゃんは、あそこでお父さん以外の誰かを見なかったかな?」
少々直接的過ぎたかもしれないが、遠慮して時間が掛かるのも精神衛生上よくないと思い、羽生は踏み込んだ。
暫時の間、彫像のように固まっていた未優だったが、やがてほんの僅かに頭を横に振った。
「未優ちゃんはどうして押入に隠れてたの?」
言葉が与える影響を考慮しながら、羽生は質問を続ける。後ろでは、大瀧が二人の様子を鋭い目つきで観察していた。どんな微かな反応も見逃すまいとする刑事の目である。
「……怖かったから」
震える唇から、一欠片の言葉が零れた。それは羽生が初めて耳にした未優の言葉だった。蚊の鳴くような小さな声だったとしても、それは紛れもなく彼女の意思表示に他ならない。
「何が怖かったの?」
実際の現場にいた人間の証言である。たとえ正確でなくとも、捜査の上で何らかのヒントになることもあるのだ。羽生の声も、期待からか自然と上擦っていた。
しかし、未優はそこで口を噤んだ。話せないのか、話したくないのか、ただ首を横に振るばかりである。身を乗り出した羽生の声が、無意識に熱を帯び始めた。
「誰かの声を聞かなかった? 知ってる人の声だったりしないかな?」
「わからない」
「お母さんとは最近会ったりした?」
「おぼえてない」
「お父さんとあの部屋で暮らしてたの?」
「……ううん」
「お父さんとお母さんの仲は良かった?」
「……わからない」
「未優ちゃん、お父さんは――」
矢継ぎ早に質問を投げかけていた羽生が、急にそれを止めた。大瀧が彼の肩を強く掴んだからである。振り返ると、大瀧が苦み走った顔で部屋のドアを指差していた。ガラス窓から中を見守っていた職員が、険しい表情でこちらを睨んでいる。
羽生の顔面は血の気が引いて青くなり、今度は恥ずかしさから血が上って赤くなる。つい夢中になって、未優への配慮を忘れてしまった己がひたすらに情けなく、羽生は申し訳なさそうに頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。
「いいよ、別に」
その様子がおかしかったのか、そう答える未優の口が少しだけ綻んでいた。クスクスという控えめな笑い声を耳にした羽生は驚いたように頭を上げ、ホッと胸を撫で下ろす。それだけで、救われた思いがした。
「ねえ、あの本は……どこにあるの?」
笑っていた未優が、フッと思い出したように言った。
「あの部屋にあった古い本のことかい?」
後ろにいた大瀧が思わず尋ねると、未優は小さく頷いた。
縄月の死体の下にあった古文書じみた本は、現在警察署の中で科学的な調査の最中である。どういった性質の本であるのか、その内容についてはコピーをとった上で、そのデータを協力してくれる大学の教授に送っていた。今のところまだ返事は来ていない。
「あれは誰の本? お父さんの?」
未優がもし知っているのなら貴重な情報である。訊いた羽生も、大瀧も固唾を飲んで彼女の言葉を待った。
未優はキョトンとした顔で二人を眺めていたが、ふいに「くひ」と笑った。
くひ。
くひ。
くひくひくひ。
部屋の中に、未優の笑い声がこだまする。
笑うというよりも、嗤うとした方が正しいような、どこか嘲笑じみた不気味な響きがあった。
蕾のような唇から、ゾッとするような音が途切れもせずに漏れてくる。
くひくひくひ。
くひくひくひ。
二人の刑事は、唖然として未優を見つめていた。先程までとは、明らかに彼女の雰囲気が変わっている。
「あれはねぇ、縄月のものだよ。ずっと昔から、ずっと、ずうっと……」
腕を組み、尊大に羽生を見下ろしながら、未優は言った。
そこに、父親の死に打ちひしがれていた少女の印象は重ならない。
これは最早、別の誰かだ。
未優の変化を精神の異常と取った大瀧は、即座にドアを開けて職員を招き入れた。慣れているのか、職員は然程慌てた様子も見せずに未優を部屋の外へと連れて行く。
その去り際、彼女は呆然とする羽生に何かを言い残していった。
羽生の耳には、はっきりとその言葉が届いていた。意味は解せずとも、その響きが持つ不穏さ、悍ましさに、全身が総毛立ち、背中に冷たいものが流れた。
彼女はこう言ったのだ。
「『でれみすさいもん』は、ぐろりあのものだから」
つづく
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