秘密兵器猫壱号

津嶋朋靖

第0章

第1話 俺は猫である。名前はまだない。

「気分はどう?」


 声の方を振り向くと、白衣姿の女がいた。

 年のころは四十くらいだと思うが、どこかで見たよう気がする。

 誰だっけ? 思い出せない。

 というか、その前にここはどこだ? いつから俺はここにいる?

 それよりもっと重要な事が……俺はいったい誰なんだ?

 これってもしかして記憶喪失?


「大丈夫? どこか痛くない?」


 なんでそんな事を……? そうか、記憶喪失なら何かすごい事故に遭ったのかも……

 という事はここは病院?

 とりあえず、どこも痛いところはないな。

 俺は女の方を向いて『大丈夫です』と言おうとした。


「にゃあ」


 え! な……なに俺今……『にゃあ』って言った?

 女が俺の顔を心配そうにのぞきこむ。

 やべえ……俺変な奴だって思われているよ。


「大丈夫よ。意識して喋れば人間の言葉も喋れるから」


 え? 人間の言葉?


「にゃあ」


 うわ!! またにゃあって……


「ち……違うよ。俺……けっして変な奴じゃ……にゃあっていうのはわざとじゃなくて」


今度はちゃんと人間の言葉がしゃべれたか。なんだったんだ? さっきの「にゃあ」は?


「どうやら、意識はしっかりしているようね。よかったわ」

「にゃあ……うわ!! また……」

「落ち着いて。あなたが無意識に声を出すとき、にゃあと言ってしまうのは仕方ない事なのよ」

「どうして?」

「だってあなた……猫だから」

「え? えええ!?」








 その時、俺は初めて気が付いた。

 俺の両腕が真っ黒い毛で覆われていることに……

 いや、腕だと思っていたのは前足だった。

 掌には指はなく、出し入れできる鋭い爪と肉球があった。

 さらに身体が異常にやわらかく、尻の方まで顔を動かすことができた。

 そしてそこには立派なしっぽが生えているのが目に入る。


「な……なんでえ」


 記憶喪失どころか、猫に転生?

 俺は猫である。名前はまだない。

 いや! いや! いや! そんな馬鹿な事…… 


「落ち着いて。今から説明するから」


 博士の話によると、どうやら俺は遺伝子操作で生まれた知性化猫らしい。

 ちなみに博士というのはこの白衣の女の事。

 てっきり看護師かと思っていたら科学者だという。

 専門は何か知らんが……

 人間並みの脳を持ち、人間の言葉が話せるように作ったそうだ。

 ただ、一から教育するのは大変だから知識を直接ダウンロードしたそうだ。

 日本語、英語、仏語、中国語、ロシア、数学、科学、歴史、その他諸々の知識だ。

 すげー!! そんな技術あったんだ。もう学校行って勉強しなくていいじゃん。

 あ! どのみち俺は猫だから学校行かなくていいのか。

 ただ、ダウンロードしたのはあくまでも人間に必要な知識。そのせいでさっきまで自分が人間のような気がしていたわけだ。

 記憶喪失でも転生でもなく、最初から俺は猫だったというわけ。

 なあんだそうだったのか。悩むことなかった。

 ペロペロ

 ん? うわ!! 俺何を? 自分の尻尾を舐めてる。

 うわわ!! 口の中が毛だらけだ!! 


「しばらくの間、あなたは猫本来としての本能と、ダウンロードした人の知識がせめぎ合って齟齬が生じると思うわ」


 今、そうなってる!

 口の中が毛だらけ……

 だけど、全然気持ち悪いという感覚がない。ていうか飲み込んでるし……


「時間が経てば慣れてくるはずよ」

「なんでそう言い切れるの? 知性化猫って俺が初めてじゃないの?」

「猫は初めてだけど、今まで他の動物でもやってるから、心配ないわ」

「他にもいるの?」

「例えば、彼とか」


 博士はパソコンディスクを示す。

 俺から見て背を向けた白衣の人物がパソコンを操作している。

 ずいぶん小さいけど、子供かな?


「猿壱号。こっちを向いて」


 パソコンを操作していた人が振り返る。て……人じゃねえ!!

 背後から見ると白衣着て帽子かぶってたから気が付かなかったけど……


「やあ。猫壱号。目が覚めたかい」


 俺にそう話しかけてきたのはニホンザルだった。


「さ……猿が喋った?」


 猿が顔をしかめる。


「なんだよ。自分だって猫のくせに」

「あ……いや……そうだけど……」

「猿壱号。猫壱号はまだ目覚めたばかりで混乱しているの。許してあげて」

「まあ、博士がそういうなら。おい、今度から口には気をつけろよ。猫壱号」


 なんか、猿が先輩風吹かせてるんですけど……まあ、いいとして……


「あの……猫壱号って……俺のこと? もっとちゃんとした名前とかないの?」

「何言ってるんだよ。お前は猫なんだぞ。猫だから名前はまだないんだよ」


 いや、それは夏目漱石の猫であって……いや、自分だって猿壱号って呼ばれてたくせに……

 あれ? ダウンロードした知識の中に小説もあったのかな? でも、あの小説は本で読んだような気がするんだが……まあいいか。


「大丈夫よ。名前は私が後でつけてあげるから」

「ああ!! ひいきだ。俺はずっと猿一号で、名前を付けてもらえなかったのに。猫だとすぐにつけてやるなんて」

「あなたは別にそのことに不満は言わなかったでしょ。言ってくれたら考えていたわよ」

「え? じゃあ俺にも名前つけてくれるの? やったあ」


 単純な奴……

 それにしても……


「あの博士……」

「ん?」


 博士が俺の顔をのぞきこんできた。


「頭のいい動物なんか作ってどうするの?」

「さあ? 実を言うと私も目的は知らないの」


 おいおい……


「ここは国立の研究所だけど部門がいくつもあってね、あなた達を作ったのは遺伝子工学の研究グループ。頭のいい動物を作ったのはいいんだけど、猫も猿も成長速度が速いのよ。普通に教育を施していたら間に合わないという事が分かって急遽私たちに協力要請してきたの」

「協力要請? 博士は何の研究をしていたの?」

「私の専門は脳科学。人間の脳にある知識を電子データ化したり、逆にデータを人間の脳に送り込む研究をしてたのよ」


 結局、博士も手伝っただけで肝心なことは何も知らなかったようだ。

 ただ、博士の推測では研究者は俺たちの利用法なんて考えてなく、ただ頭のいい動物を作りたかっただけじゃないかと。動物とおしゃべりしたかったのではないかと……

 しかし、その推測は外れていた。

 俺たちは目的があって生み出されていたのだ。

 それを知ることになるのはしばらく後のことになる。


 その前に博士は、俺にリアル、猿壱号にはトロンと名付けてくれた。

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