第3話 ばったり

 渓谷から響くヒグラシの声が、鼓膜を激しく揺する。イオンへと続く緩やかな坂を自転車のブレーキを掛けながらゆっくりと下っていけば、ひんやりとした風が頬をなぞった。帰りの上り坂が大変だけど、買い物袋をかごに入れられるだけ幾分か楽だ。


 青々とした草が生い茂る猪名川の川辺を眺めながら橋を渡っていく。近い山並の向こうに身を隠そうとする夕陽が町の輪郭を曖昧に長く伸ばしていた。


「あれ、みなこも買い物?」


 橋の中腹あたりで声を掛けられて、思わずブレーキを掛けて止まる。短パン姿の航平が漕ぐ自転車がみなこを僅かに追い越して止まった。


「週明けには合宿やから色々とね。航平も?」


「俺は普通にお使い頼まれた」


 前かごに入れられたエコバックを引っ張り出し、航平は僅かに肩を落とした。試験終わりすぐの練習後で、お腹を空かせているのか少々元気がない。


「おかんは人使いが荒いわ」


「優しいお母さんやん」


「外面はいいのよ。あ、そういやさ、竜二やねんけど」


「ん、井上くん?」


「前のイベント前に相談したから、少し気にしてるかなって思って」


「あー」


 すみれのことや桃菜のこともあり、正直にいうと竜二のことにまで頭が回っていなかった。


「あんまり気にしてなかった?」


「ううん。もちろん気にはなってたけど、ちょっと色々あって」


「一年生、女子の間で揉めてたらしいしな。仕方ないって、男子のことはこっちがなんとかせなアカンとは思ってたし」


「ごめんな」


「やからええって」


 カラスとコウモリが浮遊して、オレンジ色の空を藍色に変えていく。川の心地の良いせせらぎは、車のクラクションに塗りつぶされる。山と家々、自然と人工物の境目は、夕暮れになると曖昧で、夜がゆっくりと町を飲み込んでいくのが分かった。


「竜二もその喧嘩のことを少しは気にしてたみたい」


「そうやったんや」


「正直、それで少しは安心したというかさ。自分には関係のないことやとどこまでも無関心なやつやと思ったから。それに雨宮が自分のことを嫌っているのかもってことも悩んでたし」


「すみれちゃんの井上くんに対する嫌悪感は嘘やで」


「分かってるって。喧嘩のあとにそのこともちゃんと伝えた。あいつは表現がするのが下手くそなんよな。思ってることを人に素直に言えない。だからまるで何も考えていないみたいになる」


 駐輪上に着いて、お互い少し離れたところに自転車を止めた。大きな声を出すのも憚られて、会話が一度途切れてしまう。週末の夕方であるせいか、いつもよりも混雑していた。


「竜二は人よりも鈍感で熱量とかは少ないタイプやってのは否定できんけどな。本当に何も感じないのかと思って怖かったから。安心したっていうのはそういうこと」


 丸めたエコバックをポケットにしまいながら、先に自転車を止めた航平がこちらに近づいてきた。みなこはスタンドを足で下げて鍵を締める。


「みなこは小幡がビックバンドに受かったら、どうするつもりなん?」


「どうするって?」


「今の大樹先輩みたいにビッグバンドでは別の楽器に回らな出られんようなるやん」


「あ、そうか」


「考えてなかったん?」


 ポケットに手を入れたまま呆れた仕草で航平が肩をすぼめる。考えていなかったのは事実だから反論出来ない。


「ほんならトランペットにしようかな」


「なんでトランペット?」


「航平でも吹けるんやから私でもいけるやろ」


「言ってくれるなー」


 簡単ちゃうんやけど。拗ねたような航平のもぞもぞとした口ぶりに、なんとなく幼さを感じた。白い半袖のシャツから伸びる腕を持ち上げて、彼は切りそろえられた襟足に手のひらを当てる。なにか言いずらそうなことを吐き出そうとしているように見えた。


「そういや、みなこ。なんか欲しいもんある?」


「急に何?」


「ほら誕生日やん」


「あー」


 わざとらしく鳴った咽を誤魔化すように咳払いをして、みなこは自動扉を開いた。冷気に乗った店内のざわめきが、先程のみなこの言葉を包み隠すように二人の間に流れていく。


「去年はなんも聞かずに渡しちゃったからさ。みなこは何か欲しい物あるか聞いてくれたやん? そりゃ欲しいものもらった方が嬉しいやろうって思うし」


「なんでもいいよ。貰えれば何でも嬉しい」


「卑しいな」


「そういうんじゃないから」


 航平から貰えれば、なんて言うことも出来ず、気が付かないうちに尖らせていた唇をすっと引き締めた。

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