三幕「心の傷跡」

第1話 歌劇団 

 しとしと、と曇天の空から小さな雨粒が降り注ぐ。みなこは窓の外に向けていた視線を足元へと戻した。愉快ではない雲行きを見ていても仕方ないし、階段をよそ見して登っては危ないと思ったからだ。蛍光灯に照らされた鈍色の煌めきが、部室まで続く廊下を、ジメジメした陰気な色に変えていた。


「お疲れ様ですー」


「あ、つぐみちゃん、おつかれー」


 ポップスのように軽い上履きの音を鳴らして、みなこの後ろからつぐみが掛けてきた。雨の日の廊下を走っては危ない。もちろん晴れの日もダメだけど。みなこが注意すれば、「ごめんなさいっす」と彼女はシュンと身体を小さくした。


「ギターケースが廊下の向こうから見えたので」


 自分を見つけて追いかけてくれることは嬉しいのだけど。そんな照れを顔に出さないようにしながら、「今度からは気をつけてね」と、毅然とした態度をとったみなこを見て、つぐみは少しだけ口角を上げた。どうやら胸のうちはバレているらしい。


「他のみんなは?」


「先に来ていると思いますよ。私は日直やったので。みなこ先輩もですか?」


「そうそう」


 六月に入って早くも半月が経とうとしていた。例年よりも早く梅雨入りをしたせいで、久しく青い空を見ていない気がする。心なしか心身ともに重たく、ずっしりした感覚があるのは、身体が湿気を吸い込んでしまったせいだろうか。人の心というのは嫌な空気をよく吸収するように設計されているらしい。


「雨ばかりっすね」


「ギターの持ち運びが大変。せめて登下校中くらいは止んでくれればええのに」


「楽器の保存には日本の気候は向いてないっすもんね」


 近頃は、土日以外、部室に置きっぱなしにすることも増えた。勉強だってある程度しておかなくてはいけない。いくら受験というものがまだまだ先の問題だと思っているとはいえ、あとから慌てても取り返しのつかないものであることくらい理解しているから。楽器の練習も勉強もコツコツと積み重ねておくことが大切だ。それに、家には父親のギターがあるから、練習に困ることはない。


「最近、先輩方の出席率低くないっすか?」


「そうかな?」


「いえ、入部した時はほぼ毎日、全員が顔を出していたので。もちろん、私はそれ以前のことは知らないんっすけど」


「近しい目標がないと普段はこんな感じかな? 三年生も受験勉強もあるだろうし。イベントが決まれば、みんな毎日顔を出すようになるよ」


「そんなもんなんすねー」


 つぐみの軽い声が少し強まった雨音にかき消されていく。わずかに開いた窓から吹く生ぬるい風が廊下をさらに湿らせた。


 *


「今度、一緒に見に行こ! 絶対に面白いから!」


 部室に行くと、どこか興奮気味のすみれが佳乃と奏と向かい合って話し込んでいた。ミーティングの時に使う丸椅子に腰掛けて休憩をしていたらしい。すみれが二人に何かを勧めているようだ。話に耳をそばだてながら、みなこはいつもの場所に荷物を下ろす。スタジオの隅に置いてあるスクールバッグを見るに、今日の二、三年生の出席率は半分ほどといったところだった。


 スクールバッグを抱えたまま、つぐみが会話の輪の中へ入っていく。


「何の話してるん?」


「宝塚!」


「宝塚? あー歌劇団ね」


 すみれはメガネの縁を持ち上げて、コクリと頷いた。


「もしかして、つぐみは興味あり!?」


 息荒く椅子から腰を浮かせたすみれの肩に、つぐみが落ち着けと言いたげに両手を乗せる。


「もちろん宝塚歌劇団は知ってるけど、私は見たことは無いよ」


「そっか、……つぐみもないか」


 つぐみに押し戻されるように、すみれが肩を落とす。どうやら佳乃と奏も見たことがなかったらしい。残念、と暗い声音になったすみれの吐息を躱すように、つぐみの視線がこちらを向いた。


「みなこ先輩はどうすっすか?」


「私も観に行ったことはないなー」


 宝塚と言う地名を聞けば、真っ先に歌劇団のことを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。宝塚市の近くに住んでいるみなこの印象も、県外の人とそれほど変わらないはず。


 違いがあるとすれば、その人気っぷりを体感しているということかもしれない。阪急電車の車内にはポスターが掲示されているし、宝塚の駅にも大きな広告が打ち出されているのを良く見かける。特に公演のある日は、みなこたちが通学で利用している宝塚線の乗車率が上がるのだ。


 すみれの足元にしゃがみ込んだつぐみは、すみれの太ももで頬杖をついて、奏の顔を見上げた。


「奏先輩は、宝塚に住んでるんじゃなかったでしたっけ?」


「引っ越して来たのは去年だから、まだ行く機会が無くて。毎朝、近くを通るから気になってはいるんだけど」


「それならやっぱり、一度、一緒に観劇しましょう!」


「いいよ。今度のお休みの時でも。みなこちゃんも行く?」


「うーん。お母さんからお小遣い貰えればかな……。キラキラした感じが楽しそうやし、女優さんもみんな綺麗やから、観てみたいんやけど」


 可憐で美しい娘役と優美で美麗な男役の歌にお芝居。その綺羅びやかさに惹かれないと言うと嘘になる。けど、観劇にどれくらいの費用がかかるものなのか。みなこの最近のお財布事情は、日頃のコンビニでの買い食いでかなり厳しい。


「一番安い座席なら五千円まででありますよ」


「それくらいならお父さんに頼めば……」


「お父さんに強請るなんて、みなこ先輩も意外とワルですねぇ」


 口元を隠すように手を添えて、佳乃が猫撫で声のようなおっとりとした声を出す。小さな手からは釣り上がった口元が垣間見えていた。余計な硬さが取れて、フランクさが出てきたのは、打ち解けている証拠だろう。


「すみれちゃんはいつから宝塚が好きなん?」


「お母さんがファンだったので物心ついた時から自然にって感じです」


「あー、親の趣味が影響するのはわかるかも」


 何を隠そう、七海にバンドを誘われた時、ギターを選んだのは、父が家で演奏をしていたからだ。目にする機会が多ければ、自然と親しみが湧いてくる。


「そういえば……!」


 奏は何かを思いついたのか、つんと人さし指を立てた。七海がこの場にいれば、その指を掴みに行くんだろうな、と想像して、すぐに脳内の絵をかき消す。

「宝塚なら、めぐちゃんも好きそうじゃないかな?」


「あー確かに」


「宝塚の駅の方まで行った時とか良く看板を見てるよね」


 意外だったのか、すみれは驚いた顔をこちらに向けた。


「そうなんですか?」


「多分だけどね。私たちもめぐちゃんの趣味を完全に把握しているわけじゃないから。それにアイドル好きって知ったの最近だし」


「めぐちゃんって、あんまり自分の趣味を表に出すタイプちゃうからなぁ」


 めぐは、自分の外面を露骨に形成するタイプの人間だ。親しくない相手に、ブリっ子な仕草で対応するのもその一つ。仲良くなれば、その輪郭がボロボロと崩れていってしまうところが彼女良いところなのだけど。


「でも隠してるってことですよね?」


「そういうつもりは無いんちゃうかな? 聞けば話してくれるし。むしろこっちから質問しないとわざわざ言ってくれないだけって感じかも。すみれちゃんが宝塚を好きだって言えば食いついてくれるんちゃうかな」


 めぐが形成しているのは、理想の先輩像だろうか。それをあえて崩しにかかるのは如何なものかとも思ったが、放っておいたって時間の問題だ、とみなこの心のそこに住み着いている悪魔が囁いた。


「行くなら、七海ちゃんや佳奈ちゃんも誘おうね」


「佳奈はこういうの好きそう」


 意外という言葉は、めぐよりも佳奈の方が似合う。いつも澄ました顔をして、距離をとっているくせに、こういう女の子らしいものには興味津々なのだ。興味あるものを前にしたときの崩れた澄まし顔をみなこは良く知っている。

 宝塚歌劇団観覧の約束は、みなこがお小遣いを貰えるか決まってから詳細を決めようということになった。別に自分がいなくともみんなで行ってくれて構わないのだけど。その旨を伝えようとしたところで、スタジオの扉が開いた。


「おはようございます」


 入室してきたのは愛華だった。入口近くに溜まっていたこちらにペコリと頭を下げて、椅子が重ねられている辺りに彼女はスクールバッグを置く。すっと静かになった一年生組に変わって、奏が愛華に声をかけた。 


「愛華ちゃんもどう?」


「何がですか?」


「宝塚の観劇に行こうって話しなんだけど」


「ごめんなさい。私は大丈夫です」


「好きじゃなかった?」


「いいえ。そういうわけでは。私、練習するので……」


「そっか、こっちこそ気を使わせて、ごめんね」


 柔らかい笑みを向けた奏に、愛華は頭を下げて、楽器室の方へ消えていく。


「ちょっと無愛想っすね」


 毒づいたのはつぐみだった。冗談交じりな言い方だったので注意はしなかったけど。みなこには無愛想と言うよりかは、申し訳無さそうな表情をしていたように見えた。


「まぁまぁ……、私たちも練習しよっか」


 いつまでも駄弁っていてはいけないと、みなこはギターの準備を始める。ソフトケースのチャックを開けて、アンプにギターを繋ぐ。みんなが散り散りになって行く中、一人だけがみなこの背後に近づいてきたのを感じた。


「みなこ先輩、あとでちょっといいですか?」


 しゃがんでギターを抱えたまま、首だけで振り返り見上げると、すみれの真面目な面差しがこちらを見下ろしていた。

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