第2話 プレッシャー
「みなこ、早く寝ないと、明日早いんでしょ?」
「流石にまだ眠くないからー」
大会前日の二十二時過ぎ、ぼやいてきた母に歯を磨きながらそう返せば、「行儀が悪いわね」となじられた。「じゃあ、どうして話しかけてきたのだ!」とみなこは心の中でごちりながら、鏡に映ったタオルでぐるぐる巻きの頭を見つめて目を細める。
ゆっくりと浴槽に浸かっていたせいか、気持ちが高揚しているせいか、ポカポカと身体は火照っていた。
「明日は、お父さんと来てくれるんやろ?」
「お父さんすっごく楽しみにしてたでー」
母が口元を緩めながらリビングの方を見遣った。漏れ聞こえているのは、BSの音楽番組の音だ。こちらからは見えないが、父がお酒を呑みながらくつろいでいるらしい。
「……あんまり期待されるとプレッシャーなんやけど」
「なに言ってんの! ちょっとしたプレッシャーくらい弾き飛ばさなくてどうすんの」
「出ない人にそう言われても」
「私は人前に出るの好きな方やったけど?」
「経験あるん?」
「文化祭の劇とか町内のイベントとかには積極的に参加していた方よ」
母にそういうイメージは無かったので意外だった。楽器をやっていた父が、高校や大学時代にステージを経験しているのは聞かされていたけど。「緊張とかせんかったん?」と訊ねると、母は明るく眦を持ち上げた。
「もちろん! いつだって自信満々よ!」
その度胸を少しは七海に分けてあげたい。今頃、彼女はベッドの上で震えているんじゃないだろうか。
「お父さんは緊張しぃやったけどな。学生時代に私が観に行った時もブルブル震えていたし」
どうやら自分は二人のちょうど間の性格らしい。二人の子どもだから当たり前だが。本番前にブルブルと震えることもないが、自信満々というわけでもない。どちらかに振れているわけではなく、天秤はちょうど真ん中でどちらに傾くか悩んでいる。なんとも自分らしいと思う。
「てか、お父さんの演奏観に行ったことあるんや」
「そりゃ、大学の頃に出会ってるからね」
「へー、聞いたこと無かったなぁ」
言ったことないもの、と母はやけに平坦な声を出した。どうも少々照れているらしい。みなこは泡がついた口端をぐっと釣り上げた。
「そうや、聞かせてよ!」
えー、と渋りながらも、母は気恥ずかしそうに承諾してくれた。「お父さんに聞かれないようにみなこの部屋でね」と唇に指を当てる。
ラブソングのような優しい母の声は、どこか懐かしく、少しだけ浮ついていた心を落ち着かせてくれた。ベッドで座って聴いていれば、じわじわと瞼が重たくなっていく。まるで子守唄のようにみなこの心に染み渡っていったらしい。
*
目覚ましが鳴る二分ほど前に目が覚めた。まだ薄暗い窓の外を見遣って、みなこは身体に纏わりついてきた毛布を振り払う。温もりは名残惜しく、思いっきらなければ、ずるずると誘惑に囚われてしまいかねない。身体を締め付けてくる冬色の空気に、身震いをしながら洗面台の方へと足を擦っていく。
「おはよう」
廊下の奥から母が顔を出した。手にはフライ返しを持っている。朝ごはんを作ってくれているらしい。
「パンがいい? お米がいい? 今日、お弁当は?」
そう連続で問いかけられて、「ご飯がいい。コンビニで買うから大丈夫」とあくび混じりに返した。
スマートフォンに里帆からメッセージが入っていることに気がついたのは制服に着替えていた時だ。万全を期すためらしく、「起きたら部員は連絡をするように!」と可愛らしい猫のキャラクターのスタンプが貼られていた。
――起きています! とメッセージに返信をしてからギターケースを背負い、家を出る。玄関の前で赤く色づいた木々を見上げて、冷たい空気を吸い込み、みなこはぐっと胸を張った。
あと数時間で本番だ。カサカサと風になびく葉擦れの音を聞きながら、ステージの上で浴びる拍手の音を想像してみる。静かな胸の高鳴りが、どくどくと耳元で鳴り響いていた。あぁ私は緊張しているんだ、と俯瞰的に心で呟く。けど、胸を騒ぎ立てているのは、それだけじゃない。期待も一緒に胸の中で渦を巻いている。みなこはそいつらと一緒に、集合場所である学校を目指した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます