第2話 アドバイス

 カツカツ、とドラムスティックの弾ける音が、みなこの鼓膜を太鼓のように揺する。すっかり聞き慣れた七海のダブルカウントに合わせて、優しいピアノの音色が、いつもよりも広く感じる部室を包み込む。


 ピアノを演奏しているのはめぐだ。というのも、二年生は来週に控える修学旅行の説明会、三年生は受験関係の用事があるとのことで、一年生だけで練習をしていた。上級生がいないのはある意味チャンスでもある。もうすぐ大会のオーディションがあるのだが、その為に差を埋めるのにはもってこいの時間だ。一分、一秒も無駄には出来ない。


 ……とは言っても、この一時間で埋まる差ではないことくらい分かっている。けど、じっとはしていられなかった。きっと、自分の中にある負けたくない気持ちが闘争心をかきたててくれているに違いない。


「伊藤さん、もっと周りの音を聴いた方がええと思う」


「ごめん、ちょっと走ってた?」


「ううん。リズムは大丈夫やけど、アドリブが独りよがりになってる」


「分かった。気をつける」


 佳奈をまじまじと見つめるめぐの双眸は鍵盤の色に染まっている。それは白と黒だからじゃなく、彼女がひたむきに練習をし続けているからだ。もともとクラシックを習っていためぐにとって、コードやアドリブへの適応が至上命題だった。夏頃までは苦戦していたけれど、文化祭ではすっかりジャズピアノが板についていた。


 けど、佳奈の求めているレベルはもっと高いところにある。それに、めぐだって現状では満足していない。戦わなくてはいけない相手が知子だからだ。めぐは、本気で知子に勝つつもりで練習に励んでいる。そのために、有名なジャズピアニストの演奏をネットなどで見るなど日々研究に余念がないらしい。


「俺はなんか気をつけた方が良いところある?」


「高橋は、高音が時々不安定な時があるから、もっと正確さを意識した方がいい」


「うわあ、そんな基礎的なところかー」


「基礎的なことは何より重要やで。一流の人は必ず基礎がしっかりしてる。だから、そこを怠ったらあかん」


「なるほど」


 素直に納得した航平に、「音楽教室の先生の受け売りやけど」と佳奈が付け加える。教える側に立つことが少々恥ずかしいらしい。


 先輩たちがいない時は、こうして佳奈が積極的にアドバイスをくれた。一年生の中で一番うまいのは佳奈だ。いや、部活内でもトップスリーに入っているはず。そんな佳奈のアドバイスをみんな素直に聞き入れる。


 ちなみに、三本の指を埋めるのは、部長である知子と天才と誰もが認める桃菜だ。


「それじゃ、もっかい頭からいってみようか!」


「七海は走り過ぎ! 少しは落ち着いて」


 みなこが叱りを入れると、七海はぷくっと頬を膨れさせた。不満を発散するように、バスドラムが二度、ドスドスと低い音を立てる。


「ちょっと早くなっただけやん」


「そのちょっとが問題やろ」


「うぅ、みなこがいじめてくるぅ」


「いじめてへんから」


 助けを求めて佳奈の方を見れば、「谷川さんのベースをよく聴いて」と肩をすくませた。佳奈に言われては反論できないのか、七海は素直に「はーい」と返事をする。


「はじめから素直にそう言ってればいいのに」


「なら、佳奈みたいに的確なアドバイスをしてくださーい」 


 悪戯に弾まされた声に苛立ちを覚えつつ、みなこは「はい、はい」と返す。すると隣から、クスクスと笑いが漏れてきた。


「奏、なんで笑ってんの」


「ごめん、ごめん。二人のやり取りが可愛らしくて」


「やったー、奏にかわいいって褒められたー」


「七海のことは褒めてへんから」


 こういうやり取りが喧嘩でないことを奏も分かってきたらしい。それはそう思わせるお気楽な七海の素質的な部分が大きいのかもしれないけど。佳奈とのやり取りの場合、本気だと思われるのは仕方のない気もする。佳奈は冗談を言う様な性格には見えない。


「もう」と拗ねた素振りをしたみなこの頭を、真顔のままの佳奈が不器用にポンポンと撫でた。


 こちらのやり取りを見ていた航平が、「真面目に練習しろよー。もうすぐ大会のオーディションもあるんやから」と呆れた声を出す。


「ごめん、ごめん」


 謝りながら、みなこはふと視線を時計の方に向ける。先輩たちが来るまではもう少しだけかかるだろうか。


 時計の真下の壁には過去の大会成績の表彰状が飾られていた。大層な額縁に入れられている去年の成績は「奨励賞」。何も賞を貰えていないわけじゃないが、宝塚南が目指しているのは「最優秀賞」だ。決して満足できる成績じゃない。


「ほら、もっかい行くで。ちんたらしてたら先輩たち来てまうから」


「はーい」


 一同のまばらな返事に、航平はやれやれと言いたげに肩をすくませた。


 *


「一年生みんな集合ー」


 知子のように手を打つ里帆に呼ばれたのは、上級生たちが徐々に集まりだした頃合いだった。


 里帆は、すぐに目の前に集まった一年生を見渡して満足げに頷いた。なぜか、みなこたちの後ろにひょっこりと美帆もいる。それに対して、里帆は少し不服そうに眉根を潜めた。


「なんで美帆もおるん?」


「別にいいでしょ? 邪魔はせんから」


 本当だろうか、と目を細めた里帆の低いツインテールが揺れた。珍しく美帆の方は髪を下ろしている。いつもは揃えているのに。「喧嘩でもしたんですか?」と不躾な質問をした七海に、二人は仲良く咳払いをした。


 どうやら図星だったらしい。


「なんの喧嘩ですかー」と七海が訊ねると、「別に喧嘩はしてないやんなー」と美帆が平たい声で返す。


「あんたが私のお気に入りのワンピースを勝手に着ていったからやろ」


「いっつも借りたって怒らへんやんか」


「あの日は使う予定やったの!」


 腰元に手を当てて、里帆が鼻息を荒くする。怖さよりも可愛さが際立ってるのは、黙っていて方が良いに違いない。


「それで、俺らを集めたのはなんでですか?」


 航平が話を本題に戻すために質問を投げた。確かに、こうして一年生全員が同時に呼び出されるのは珍しい。


 里帆は、つい感情的になってしまったことを恥ずかしがるように空咳を一つ飛ばして続けた。


「再来週の日曜日なんやけど、近くの保育園で演奏して欲しいねん。二年生は今週修学旅行、三年生は模試があって、合わせる時間が少ないから。それに保育園に大所帯で行くのもあれやから――」


「一年生だけで演奏しに行って欲しいってこと」


 最後の言葉を美帆に取られ、里帆はぐっと眉根に皺を寄せた。邪魔はしないと誓ったはずの美帆は知らん顔だ。恐らく、はじめからこのつもりだったんだろう。


「俺らだけで行くんですか?」


 そう航平が訊ねると、美帆が「そうやで」と笑みを浮かべて返した。里帆が不服そうに続ける。


「毎年の恒例やねん。去年は私らも行ったから。伊藤ちゃんと清瀬ちゃんが中心になってまとめて」


「私たちがですか?」


「なんのために学年リーダーとかを決めたと思ってんの?」


「……そうですよね」


 役職を受け入れた時点で覚悟はしていたが、稼働は三年生が引退してからだと聞いていたので少々驚いてしまった。


「川上先生は用事があって今年は引率出来んらしいけど、……向こうに保育士の方がおるから大丈夫やと思う」


 例年のことなら向こうも勝手が分かっているはずだ。「子どもたちに楽しい曲を聞かせてあげて」と憎ったらしいくらいの笑みを浮かべて、美帆がめぐの肩を掴んだ。


「曲はどうしたらいいんですか?」


 背中にひっつく先輩に困った表情を浮かべながら、めぐがため息混じりにそう告げる。


「選曲は任せるけど……、」と話し始めた里帆の視線はじっとめぐの背後を捉えていた。


「出来れば、保育園の子らも楽しめるような曲にして欲しいかな」


「保育園の子らが楽しめるジャズですか?」


「なにも本格的なジャズの曲じゃなくてもええねん。アニメの歌とかそういうのをジャズっぽくアレンジしてくれれば」


「……アレンジですか?」


 そう言いながらみなこが佳奈の方へ視線をやると、彼女はコクリと頷いた。


「曲を決めてくれれば、アレンジして楽譜に起こしてくるけど」


「さすが、井垣は頼りになるわー」


 里帆の声が陽気なものになる。ポンと肩を叩かれ、佳奈は意外に満足げだ。


「それじゃ、時間と場所教えてください」


「うん。保育園の連絡先も教えとくから、聞きたいことがあったらそっちに連絡して」


 めぐは真剣な表情で、里帆の言葉をメモに取る。その風体はまさしく学年リーダーに相応しいものだ。自分がリーダーの立場だったらこうはいかないだろうな。そんなことを考えていたみなこに、美帆がにっこりと笑みを向けてきた。その表情の意味がよく分からず、下手くそな愛想笑いを返した。

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