エピローグ

エピローグ

 まだざわめきの残る校舎がオレンジ色に染まっていく。電気の消えた誰もいない廊下の向こう側で、ポツリと音楽室が佇んでいた。カーテンの隙間から漏れた光が、一筋の線となって、扉が開いた準備室の方まで伸びている。みなこは「失礼します」と声をかけて、その中へと歩を進めた。


「おつかれー」


 軽く声をかけられて、「お疲れ様でした」と返す。カチャカチャ、とサックスのハードケースが音を立てた。少しだけ背伸びをしながら、里帆が棚に向かって手を伸ばす。


「わざわざ呼び出してごめんな」


「いえ、それは構いませんけど」


 里帆は下ろした髪を撫でる。「よいしょ」と声を出して、ハードケースを棚に押し込んだ。


「今回、清瀬ちゃんにはきつい役回りさせてもうたかもな」


「こうなるって、全部、分かってたんですか?」


「まさか、奏ちゃんにあんな思いがあったとは思わんかったよ」


 奏があんな風に本音をさらけ出すのは意外だった。だけど、奏がベースを初めた理由をみなこは知っている。それは姉への憧れだ。けど、どうして奏はこの学校を選んだのか。奏の家で抱いた疑問の答えは、すごく単純なものだった。


「けど、……本音は、清瀬ちゃんが杏奈を説得してくれることに期待してた。やっぱり杏奈は頑固で私の言うことは聞いてくれへんから。後輩にこんな期待するなんて駄目な先輩やろ」


 それでもみなこが杏奈を説得する確証はなかったはずだ。淡い期待を込めての行動だったのかもしれない。「いえ……私は何も出来ませんでした」とみなこが返すと、「清瀬ちゃんが責任を感じる必要は一ミリもないやん」と里帆が口端を緩める。自分はあくまで首を突っ込んだだけ、そういう役回りにしてくれたのはきっと里帆だ。


「杏奈先輩はどうするんでしょうか」


「どうやろ。少しは頭を冷やした方がええやろうけど、心変わりはあったんちゃうかな。ありがとうな」


 杏奈の気持ちを繋ぎ止められているとすれば、自分ではなく奏だ。そのお礼は奏に言ってあげるべきだろう。きっと里帆は言うだろうけど。


「これに懲りて、もう少し練習に励んでくれたら文句なし」と里帆は笑みをこぼす。


「里帆先輩はどう思ってますか? 勝ち負けがあること」


 杏奈の気持ちは理解出来る。彼女のプライドが傷つけられたことも、それで自暴自棄になってしまうことも。


「うーん。悔しさはもちろんあるよ。まさか今年、井垣ちゃんみたいな子が入って来ると思わんかったし。コンボは奪われるんだろうな、って脅威に感じた」


「やっぱりそうですよね……」


 もし来年、自分よりも遥かに上手な一年生が入ってきたら。一体なんの為に頑張っているのだろう、と努力することを辞めてしまうかもしれない。――けどな。と里帆が上履きを鳴らす。


「そこで諦めたら本当にすべてが無駄になってしまう。劣等感から逃れる方法は、逃げるか勝つか。……逃げることは楽やけど、私がそれを選択しないのは、最後の最後で逆転できるかもしれん、と思っているから。どれだけ無謀でも手を伸ばし続けたいことがある。掴みたいものに手を伸ばさないのは、死ぬのと一緒や」


 ちょっと大げさやったかな? そう付け加えて、里帆は歯並びのいい口元を緩めた。みなこは「私もそう思います」と頷く。自分がどうして杏奈の退部を止めたかったのか。そのせいで奏まで退部してしまう時の恐怖、その理由が明確になった。


「……お疲れ様です」


 準備室内の話し声に遠慮したのか、囁くような声が聞こえて、みなこは振り返る。そこには、おずおずとめぐが顔を覗かせていた。


「お、来た来た。将来の部長さん!」


「やめてください、そんな言い方」


 へへっと笑う里帆に、めぐは頬を膨れさせる。こうして呼び出されたのは、杏奈のことを話すためではなく、役職について話があるからだった。その全容は容易に想像できた。


「やっぱり、めぐちゃんが学年リーダーですか?」


「そうやで。そんで、清瀬ちゃんが書記」


 つまるところ、何もなければ、再来年にはめぐが部長で自分が副部長になる。めぐは適任だと思うが、自分が副部長というのは如何なものか。


「どうして私なんですか?」


「これだけ暗躍しておいて、謙遜はないやろ」


「暗躍はしてないですよ」


 何のことか分からないめぐが可愛らしい素振りで首を傾げる。その空気感がおかしかったのか、ケラケラと里帆が声を出した。


「実際に稼働するのは、大会が終わったあと、再来月の新体制になってからやから。そうなると、二人はジャズ研のナンバースリー、とナンバーフォー。よろしく頼むで」


「えっ」


 めぐとみなこの声が重なる。「あからさまに嫌な顔せんといて! 普通に傷つくわ」と里帆は破顔する。仕方ないじゃないか、役職を任されるなんてこれまでの人生で経験がないんだから。それはめぐも同じだったらしい。「そういうの任されたことないんですよ」と口を尖らせた。


「意外と二人とも経験ありそうやのに」


「里帆先輩は経験ありそうです」


「あ、委員長もやってたことあるって聞きました」


 みなこがそう言うと、里帆は眉根を下げて、「伊坂?」と声を低くした。


「そ、そうです」


「あいつー。……まあ、委員長とかの経験はあるけどさ。部長っていうんは一度もないよ。それに私だってまだ部長にはなってない。けど、この一年、織辺先輩の背中を追いかけてきた。それは理想の部長像やと思ったから。つまりやな。この後の一年間は、あんたらの準備期間やねん。私の背中を見てなんて言われへんけど。どういう部活にしたいか、どんな音楽を奏でたいか。それと向き合える時間や。急に指名されるよりは、随分良いシステムやと思わへん?」


「まぁ確かに……」


 二人して納得したけど、上手く丸め込まれた気がする。今はまだどんな音楽がしたいか、どんな部活にしたいか、なんて分からない。けど、それを模索しろということなのだろう。


「さて、明日からは大会の練習やな。今日は本当にお疲れ様」


 そう言って、里帆はぐっと身体を伸ばした。大きなあくびを噛み殺しながら、恥ずかしそうにはにかむ。沈む夕陽がその笑みを照らしていた。


 選ばれたことに不安はある。みんなをまとめられるだろうか、後輩に上手く接することが出来るだろうか。だけど、少なくともまだ先輩たちが自分たちを引っ張ってくれている。里帆が言うように、この一年間で答えを見つけ出せればいいのだ。今はただ、来たるジャパンスクールジャズフェスティバルで最優秀賞を取ることに集中しなくちゃいけない。


 それはもちろん先輩たちの為に。みなこはひっそりと心に誓いを立てた。



『ブルーノート 第二楽章~特別な文化祭~ 完』


 ――――第三楽章へ続く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る