第6話 優しさとお節介の境目

 桃菜との話を終えて準備室を出ると、廊下の隅に奏が立っていた。真っ白な夏服が、沈みきった夕陽の影で灰色に染められている。驚いたみなこは、思わず声が漏れた。


「奏ちゃん先に帰ってなかったん?」


「うん。ちょっと、みなこちゃんが気になって」


 そう告げた奏の表情は暗い。細い眉根がピクピクと震えている。だらんと垂れた肘を手で掴みながら、視線を音楽室の方へそらしていた。


「そっかー。ごめんな。用事は済んだから帰ろうか」


 なるだけ明るい声を出して、奏の前を通り過ぎる。もしかしたら桃菜との会話は聞かれていたのだろうか。だとするなら、それを追求しないで、そんなニュアンスを込めて。だけど、奏はみなこのその思いを受け取ってはくれなかった。


「待って、みなこちゃん……」


 細く柔らかい声がジメッとした廊下に響く。明かりの消えた蛍光灯に、外から迷い込んできた蛾が張り付いていた。


「なに?」


 なるだけ声は優しくしたつもりだ。だけど、強張った顔が奏を威圧していたかもしれない。ぐっと噛み締めた奏の唇が白く滲んでいく。肘を掴んだ手に力が込められて、制服の胸の辺りに皺が寄った。


「さっきの話は本当?」


「さっきの話って?」


「笠原先輩と話してたこと」


 やっぱり聞かれていたらしい。奏はどこから聞いていたのだろうか。夜を迎えて蝉が鳴き止んだせいで、廊下はやけに静かだった。


「どこから聞いてたん」


「……多分はじめから。杏奈先輩が辞めるって」


「それは奏ちゃんのせいじゃない!」


 思わず語気が強くなる。肩にかけていたギターがずれ落ちた。慌てて、それを手で掴む。


「奏ちゃんのせいじゃないねん……」


「……でも、杏奈先輩が私にそっけないのって」


 桃菜との会話だけでは、奏がこの問題の全容を理解できないのも仕方ない。


「違う。杏奈先輩は笠原先輩にトロンボーンで負けて。それで部活を辞めようとしてるだけ」


「でも、それって一年前のことでしょ? 今、杏奈先輩はベースだよ」


 奏の言いたいことはこうだ。一年前の出来事が尾を引いているのは分かる。でも、今さら辞めるなんて判断に至ったのには別の要因だってあるんじゃないか、だろう。確かに奏の言う通りだ。それは奏にとって辛い真実かもしれない。だけど、告げなければいけないはずだ。


「確かに、杏奈先輩は奏ちゃんと競うことからも逃げてる。笠原先輩の時みたいに」


「だったら、やっぱり」


「違う! 奏ちゃんは何も悪くないやんか。……それは笠原先輩だって同じで。……ただ、杏奈先輩が弱かっただけやから」


 やっぱり奏は悪くない。奏が気に留めることなんて何もないのだ。杏奈が弱く脆かっただけ。実力主義な以上、勝ち負けが出てくるのは仕方のないことだ。そこから逃げ出すのは、自分がやって来たすべてを否定すること。音楽と向き合うことを辞めるということだ。それでも、杏奈に同情出来るところが全くないわけじゃない。


 それほどまでにトロンボーンや文化祭の思いが強かったのだろう。なら、どうしてその思いを練習にぶつけられなかったのか。こみ上げてきたのは怒りに似た感情だった。だけど、こんな理不尽なものはない。彼女にだって、その気持が初めからなかったわけじゃないはずだ。それを粉々に砕いてしまうほど、桃菜の成長、才能の開花が恐ろしいものだったに違いない。


 だったら、桃菜が奏みたいに杏奈のことを思いやっていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。だけど、それはきっと望み過ぎだ。桃菜にとって杏奈が特別な存在ではないのなら、友人以下の相手に、そこまでの優しさをかけるべきだなんて言えない。


 結局はやっぱり杏奈自身の問題だ。周りは悪くはないと思う。だったら、杏奈に対して「諦めずに戦い続けなさい」と発破をかけることしかできないじゃないか。


「……杏奈先輩は優しい人だから」


「奏ちゃんの言う通りだと思う。でも、このことで奏ちゃんが責任を感じるんは違う」


「でも、みなこちゃんが笠原先輩とこうして話をしてたのも、私が相談したことが回り回ってでしょ?」


「そうやけど」


 だけど、そのことで何か問題が大きくはなったりはしていないのだ。桃菜だって、気に留めている様子はなかったし、状況は好転もしていなければ悪化もしていない。それは航平の言う通りだと言える。だけど、一つだけ想定外なのは目の前の奏だ。


「ということは、みなこちゃんにも迷惑をかけていたんだよね」


「私は迷惑なんて思ってへんから! 里帆先輩と杏奈先輩が話してたんを聞いてもうただけで……」


 奏のために動いていたのは間違いない。けど、それはみなこのお節介だ。杏奈が勘違いで奏を避けているなら解決してあげたいと思っただけ。奏には気づかれないように動くつもりだった。


 奏の表情は硬いまま。廊下の色がじわじわと夜の闇に染まっていく。みなこは奏に向かい言葉をかけ続ける。


「これは、杏奈先輩自身が変わらないとどうしようもない問題。それに杏奈先輩は、奏ちゃんのことを嫌ったりはしてない。ただ、辞める自分が仲良くなると寂しくなるだろうからって……」


「やっぱり杏奈先輩は優しいんだね」


「うん。だから、奏ちゃんが悩むは必要ない。私は盗み聞きをしてしまって、そのモヤモヤから自分勝手に動いていただけ。もちろん、奏ちゃんのためでもあるけど。それは自分が動くための言い訳やったから」


 言えることを言い終えてしまい、みなこは言葉を詰まらせた。反応もなく、奏はゆっくりと階段の方へ歩き出す。


「奏ちゃん帰るん?」


「うん。もう下校時間過ぎてるから……」


 コツコツ、と上履きの音が静かな廊下に響く。遠ざかっていくその音はやけに切なく、みなこの胸を痛めつけた。こんなことなら大人しくしておくべきだったのだろうか。だけど、あのままじゃ奏は傷ついていたはずだ。優しさとお節介の境目が分からない。自分が取るべき最善の選択はなんだったのだろう。


 翌日、夏休み最後の練習に、奏は姿を見せなかった。

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