第7話 奏

 立ち止まりスマートフォンの画面を確認すれば、自分が向いている方角を地図上の矢印が正確に指し示してくれていた。阪急宝塚駅の南側、武庫川に掛かるS字型に湾曲したおしゃれな橋の上から見える川の向こうの景色は、山間に建ち並ぶマンションと落ち着いた色合いのホテルの群れだった。


 地図アプリの指示に、素直に従い橋を渡っていく。振り返ると、七夕の時に演奏したソリオ宝塚が見えていた。


 結局、みなこは奏の誘いを断れなかった。逃げるための言い訳を文字にしてしまうと、どうも奏を突き放しているようで傷つけてしまう気がする。奏が発しているメーデーは無視することが出来ない。それはきっと、彼女が本質的に持っている健気さのせいだろう。


 スマホが示している住所は奏の家のものだ。外では話しづらいのか、家に招かれてしまった。迎えに来てくれると奏は言ってくれたのだが、この暑い中わざわざ外に出て来てもらうのは罪悪感があり断った。そもそも自分は大したアドバイスなど出来ないはずなのだ。


 高級感が溢れる空気に気圧されながら、みなこは緩い坂を上っていく。


 たどり着いたのは、駅から数分の距離のマンションだった。高級感の漂うエントランスを前にみなこの足は竦む。頭の中ではいやらしく数字が踊っていた。転勤が多いと言っていたから賃貸のはずだ。下世話な衝動を抑えて、みなこはオートロック手前の機械に伝えられていた部屋番を入力した。


「はーい」


 応答したのは、奏に似た声の女性だった。けど、そのトーンはいつもの奏とは少しだけ違う。お母さんかな、と思いつつ、みなこは、「清瀬みなこです。奏ちゃんと約束してたのですが」と金属が眩いインターホンのマイクに向かい返事をした。


「すぐに開けるねー」


 プツッと通信が切れるのとほぼ同時、オートロックのドアが開いた。ホテルみたいに綺麗なエントランスを抜けて、みなこはエレベーターに乗り込む。


 全く揺れのない箱に緊張しつつ、目的の階にたどり着き、部屋のインターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。


「おはよう」


 顔を覗かせたのは、嬉しそうにニッコリと笑みを浮かべた奏だった。「さっきインターホンに出たのお母さん?」と訊ねると、「ううん。お姉ちゃんだよ」と彼女は首を横に振った。


「へぇ、奏ちゃんってお姉ちゃんいたんや」


「と言っても、五つも上で今は大学生。普段は東京で一人暮らしをしてるんだけど、お盆休みだからこっちに来てるの」


 せっかく帰省しているのに悪かったかな、と思ったみなこの内情を察してか、奏は「お姉ちゃんは、この家に来るのは二回目だからホテルみたいで居心地よくないみたい」と眉尻を下げた。


 奏がこっちに引っ越して来たのは中学二年生の時だったはず。五つ上の姉なら、すでに一人暮らしを始めていたタイミングだったんだろう。それまで住んでいた実家がなくなるというのはどういう感覚なんだろうか。物心ついてから引っ越しをしたことのないみなこには全く想像できないことだった。


「それじゃ、たまにしか会えんのやな」


「うん。やっぱり、ちょっぴり寂しいかな」


 さぁ上がって、と招き入れられ、みなこは玄関に足を踏み入れた。他人の家というのは少しだけ緊張する。普段よく遊びにいく七海の家なら緊張しないけど。きっと、マンションの雰囲気のせいだ。スニーカーを脱いで、リビングの方に「お邪魔します」と声をかけ、案内された奏の部屋に入った。


「奏ちゃんの部屋めっちゃ綺麗やな」


「引っ越しが多いと物が少なくなるんだ」となんだか恥ずかしそうに、奏はローテーブルの前に置かれた可愛らしい座椅子を引いた。


「そういうもんなんや」


「引っ越す時に大変だから癖がついちゃって」


「七海の部屋とは大違い。物が多くて全然片付いてへんから」


「七海ちゃんらしいね」


 ふふ、と笑みを浮かべ、奏は引いた座椅子を手で指した。


「お茶入れて来るから座ってて」


 促されるまま、みなこは座椅子に腰掛ける。奏が部屋をあとにしてから、何気なく部屋の中を見渡した。


 本当に物が少ないシンプルな部屋だ。白い木枠のベッドに、スタンドにかかったベース、小さな本棚には小説とCDが並んでいた。


 それから、ふと、背後にあった木製のラックの上に視線がいく。可愛らしい観葉植物と一緒に写真が立て掛けられていた。ぐっと、腰を浮かしてその写真を眺めてみる。そのタイミングでお盆を持った奏が部屋に戻ってきた。


 透明なおしゃれなグラスに茶色い液体が揺れる。「烏龍茶で良かったかな?」と奏に問われて、みなこは慌てて頷く。


「それから、お姉ちゃんが買ってきてくれたケーキだよ」


 真っ赤なイチゴが乗ったショートケーキがみなこの前に並べられた。この近くのお店のものだろうか。「お土産?」とみなこが訊ねれば、「みなこちゃんが来るって話したら買ってきてくれたんだ」と奏は頬を赤くした。


「わざわざ買いに行ってくれたん? あとで、お礼言っとかなくちゃ」 


「友達が来るって伝えたら張り切っちゃって」


 インターホン越しの声から優しそうな人だな、tp思ったが、その所感は正解だったようだ。わざわざ妹の友達のためにケーキを買いに行ってくれるなんて。もしかすると、大人しい印象だった奏が友人を連れてくるのが嬉しいのかもしれない。


「あ、みなこちゃんが見てた写真がお姉ちゃんだよ」


 みなこが写真を眺めていたことはバレていたらしい。奏はラックの上から写真立てを手に取り、みなこに手渡す。


 写真に写っていたのは、宝塚南ではない高校の制服を着た奏……ではなく、奏のお姉ちゃんだ。奏と同じ少しだけカールした髪、スタイルの良さを含めてそっくりだ。その隣にいる可愛らしい少女が奏のはず。まだ小学生くらいの頃だろうか。無邪気な笑みを浮かべて姉の腕に抱きついている。


「奏ちゃんってお姉ちゃんにそっくりやな」


「そうかな」


「うん! スラッとしてて綺麗!」


「へへっ」


 照れて頬を掻く奏の仕草に、みなこの口端は緩んだ。


「奏ちゃんのお姉ちゃんもベースやってたん?」


 写真の背景はどこかの高校の体育館だった。ベースを抱えた奏のお姉ちゃんは、恥じらいながらこちらに向かって両手でピースを作っている。


「中学生の時から軽音部に所属しててね。それに憧れて私もベースをはじめたの」


「そっか、お姉ちゃんへの憧れやったんや」


 恥ずかしそうに頷き、みなこから返された写真立てを奏がラックの上に戻す。


「お姉ちゃんは今でもバンドしてるんだよ」


 奏のお姉ちゃんは、転勤が多い中、運良く高校三年間を同じ学校で終えられたらしく、今でもその当時の仲間とバンドを組んでいるらしい。話を聞く限り、奏のお姉ちゃんは普通のロックバンドをやっているようだ。なら、奏はどうしてジャズ研を選んだのだろうか。もちろん宝塚南に軽音部はなく、ベースをやるならジャズ研しか選択肢はないのだけど。学力的には他の学校を選ぶ選択肢もあったはずなのだ。


「ベースはお姉ちゃんに教えてもらったん?」


「そうだよ。けど、当たり前だけど、お姉ちゃんの方が上手で……。いくら練習しても追いつけないんだ」


「お姉ちゃんに勝ちたいんや」


「うん! カッコいい演奏をして、えっへんって威張ってみたいの」


 可愛らしい奏の野望に、みなこの口元はつい緩む。少しだけ声のトーンを落として奏は続けた。


「……きっと、ずっと遠い背中を私は追い続けているんだと思う。ベースを初めた憧れが、いつの間にか目標に変わってた。多分、褒めて欲しいんだ。妹としてじゃなく、ベーシストとして」


 きっと、奏のお姉ちゃんは優しい人なんだろう。いつも仲が良くて、奏のことを褒めているに違いない。二人の関係性は容易に想像できた。けど、その褒め言葉は妹への言葉なのだろう。だからこそ奏は満足していないのだ。ベーシストとして姉を越えたいという思いが、奏を突き動かしている。それはなんて純粋な気持ちだろうか。姉妹としてじゃなくミュージシャンとして。その言葉を口の中で転がした時、なんとも言えない濃厚な舌触り広がった。 


「さぁケーキ食べよう」


 そう言いながら、奏はラグの上に腰掛けてフォークを手にとった。


「そうやなぁ」


 みなこはショートケーキの上に乗ったイチゴにフォークを突き刺す。ほんのりとした酸味となめらかな生クリームの香りが口の中に広がった。自分がここに呼ばれた意味を奏に確認しなくちゃいけない。憶測が当たっているなら……。烏龍茶を一口含んで、みなこは真っ直ぐ奏の方を見つめる。


「奏ちゃん、今日、私を誘ったんって杏奈先輩のこと?」


 図星だったらしく、奏の朗らかな表情が僅かに曇った。そばにあったクッションを抱きかかえ、瞳を少しだけ潤ませる。


「そっか……」


「わざわざそのために呼び出して、ごめん……。迷惑だったよね?」


「そんなことないって。むしろ相談してくれて嬉しい」


 手を前に出して否定する自分の仕草はわざとらしくはないだろうか、と心配になった。嫌じゃないのは本当だ。ただ、どうして自分なんだろうか、という疑問があるだけで。


「本当……?」


 心配そうにこちらを見つめる奏の双眸を見つめ返して、みなこは大袈裟なくらい頷いてみせた。すると、奏は少しだけ安心したように短く息を吐き、「そっか……」と呟く。


 困った表情の奏を見るのはなんとも心苦しい。彼女の力になってあげたいと思うのと同時、そこへ踏み込むことに恐怖もあった。


「杏奈先輩とやっぱり話しづらいん?」


「うん……私もなるべく明るく振る舞ってるつもりなんだけど。避けられてるというか。何か嫌われるようなことしちゃったのかな……」


 奏は他人に対して無自覚であってもそういう行動をしない人間だ。春先の七海の時とは違う。ほんの数ヶ月の付き合いだけど、それはよく分かっている。それに杏奈がホテルで言っていた言葉は「お互い好きになれん」だったはず。つまり、杏奈も同じことを感じているというのだ。はたして、奏は杏奈のことを嫌っているのだろうか。


「奏ちゃんは、杏奈先輩と仲良くしたいんやんな?」


「もちろんだよ」


 少しだけ奏の語気が強くなった。大きくなった自分の声が恥ずかしかったのか、奏は少しだけうつむく。


 仲良くしたいというのは本音らしい。なら、どうして杏奈は嫌われているなんて思ったのだろう。「仲良くしたい」と思っているなら奏の行動も好意的なものになっているはずだ。杏奈はそれを感じ取れない人間なのか。明るく先輩や後輩に分け隔てなく接する彼女からは、そういう印象は受けない。


「奏ちゃんが杏奈先輩のこと嫌いなわけないか」


 そもそも嫌いならこんな相談はしてこないわけで。抱えたクッションをグッと抱きしめて、奏は顔を埋めた。


「でも、やっぱりめぐちゃんが言うように私の気にしすぎなのかも」


 もしかしたら、気にし過ぎじゃないかもしれない。そんな言葉がイチゴの酸っぱさと共に喉元まで上がってくる。奏は気づかないうちに杏奈に嫌われることをしていたとするなら……。だけど、杏奈が話していたニュアンスはもう少し違って聞こえた。


 もう改善の余地はないほど破綻した関係。はたして奏と杏奈にそこまでの亀裂があるというのだろうか。たった数ヶ月しか共にしていないはずなのに。


 漠然とした違和感が、奏に伝えるべきかもしれない言葉を躊躇わせる。直接、杏奈に聞いてから。そんな逃げるための口実が心の中で渦を巻いた。


「もう少しだけ様子を見てみよか……。何かあったらまた相談に乗るから。力になれることがあるなら手伝うし。……それに奏ちゃんの言うように気のせいかもしれないから」


「そうだね」


 文化祭が終われば杏奈は退部する。それはもう一ヶ月後の話だ。もう少し、だなんて猶予がないことはみなこが一番よく分かっていることだった。

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