第3話 天才

 空調の効いたスタジオに響いているのは、『FIVE SPOT AFTERDARK』だ。休憩時間、桃菜が何気なくはじめた演奏に知子が加わりセッションが開始された。甘いトロンボーンのテーマを知子のピアノが支えている。繰り返される桃菜の優しいメロディのアドリブが、おやつを食べて満腹になったみなこの意識を眠りへと引きずり込んだ。


 もちろん、二人の演奏に聴き惚れているのだが、いかんせん眠い。きっと朝早く起きすぎたせいもあるはずだ。落ちてくる瞼を必死に持ち上げながら、意識が飛びそうになったところに、「上手やろぉ」と声がかかった。


 眠気のせいで声をかけてきたのが、どっちか一瞬分からなかった。ろくに返事もせずにじーっと顔を見つめて、美帆の方だと気づく。


「清瀬ちゃん、えらい眠たそうやな」


「ちょっとお腹いっぱいで」


「お菓子をバリバリ食べれるのはええなぁ。若い証拠や」


 美帆だって一つしか変わらないはずなのに。おばさんみたいなことを、なんて喉元まで出かかった言葉を、覚醒しだした理性が押し戻す。


「笠原先輩は本当に上手ですね。合宿の朝に吹いてた『Rain Lilly』を聴いて驚きました」


「あぁ、時間無視して吹いてた時のやつな」


 呆れた声で話す美帆は、まるで保護者のような口ぶりだ。ふっ、と短く息を吐き、美帆が続ける。


「うちらの学年やと桃菜が一番上手やろなぁ」


 そう言えば、以前に杏奈にも同じことを言われた気がする。みなこの視線は自然とベースの方へ向いた。杏奈のベースがポツンとスタンドに立て掛けられている。彼女は休憩になるなりすぐにどこかへ行ってしまった。午後の後半は、個人練習なので問題はないのだけど。


「あの子の魅力は、その圧倒的な技術。どんなに難しくて早い曲でも、なんともない表情で演奏してのける。見ていて怖いくらいに。それでいて決して技術頼りじゃないんよなー。感情までちゃんとこもってて、曲の中にあるストーリーをしっかりと表現できる」


 手放しに褒める美帆の目は、ピアノのそばでトロンボーンを吹いている桃菜を向いていた。その眼差しは空調の効いているはずの部屋の温度を少し上げてしまうくらい熱い。


「やっぱり、笠原先輩も小さい頃からずっとトロンボーンやってたんですか?」


「ううん。桃菜は去年まで初心者やってん」


「え? 初心者って?」


 まさか、と思った。「トロンボーンは初めてだったってことですよね?」とみなこの目はトロンボーンのプランジャーミュートみたいに丸くなる。 


「ええ反応やな」


 そう言って、クスクスと美帆は笑いをこぼした。


「桃菜は高校に入るまで楽器経験は全く無かったらしい。そりゃ、リコーダーと鍵盤ハーモニカくらいはやったことあるやろうけど」


「……信じられないです」


「そりゃそうやろうな」


 初心者がたった一年でこれほど上手くなるものなのか。みなこの耳に響いている音は間違いなく上級者が奏でる音だ。――天才。みなこは自分の中に浮かんだ単純な二文字を口の中で転がした。舌触りがザラザラとしているのはどうしてだろうか。


 こちらに一つ目配せをして、演奏を終えた桃菜のところへ美帆が駆け寄っていく。紺色のソックスには可愛らしいクマの刺繍が入っていた。


「なぁ桃菜、お盆休みなんか予定あるん?」


「ううん、ないで」


「ほんならどっか行こうや。桃菜行きたいところとかないん?」


「それじゃ水族館」


「おぉ、水族館か。なんかデートっぽい!」


「そう?」


「私とデート嫌?」


「嫌じゃないけど」


「やんなー。水族館といえば、やっぱり海遊館?」


 美帆と話す桃菜の表情はそれなりに明るい。あまり人と話しているところを見ない彼女には、どことなく暗いイメージがあったので、やっぱり意外だった。トロンボーンに一年生はいないけど、もし後輩がいたなら、きっとその後輩はこの先輩との関係に困るだろうな。そんな予想が容易に立つほどには、彼女は少し話しかけづらい印象がある。


 自分の直属の先輩は大樹で良かった。優しく話しやすいしギターも上手だ。おかげで人間関係に悩まなくて済む。どの先輩もそれなりに社交的で話しやすい。知子こそ初めは難しい性格かと思ったが、時間が経つにつれ慣れてきた。だからこそ、桃菜だけが話しかけづらい先輩だったのだ。だがここに来て、奏と杏奈の問題が浮上している。


 すっかりぬるくなったペットボトルを口に運び、二度ほど喉を鳴らす。


 そもそも杏奈は桃菜とは違い明るく良い先輩だ。奏を疑うわけじゃないけど、本来は気まずさなんて無縁の性格をしている。……そう思うのは自分が彼女を何も知らないからだろうか。そもそも自分は人の本質を見抜けるような人間ではないのだ。


 そばにいる奏の方が彼女を分かっているはずだ。そんなことを考えていると、背中をコツンと堅いもので突かれた。 


「なぁ、みなこ」


「なに?」


 みなこは不機嫌に振り返る。こちらに向いた七海のスティックの先端を握り、少し強めに引っ張ってやる。


「これは人を突くものなのかな?」


「えーっと。おそらくドラムを叩くやつです」


「恐らくじゃなくてそうやろ!」


 軽く怒鳴ったみなこに、七海はわざとらしく肩をすぼめさせる。彼女と話していると、なんとなく悩んでいるのが馬鹿らしく思えてくるから不思議だ。みなこは溜息をこぼす。


「それでなに?」


「うちらもお盆にどっか遊びに行こうや」


 どうやら美帆と桃菜の話を聞いていたらしい。


「どっかって?」


「海かプール!」


「うーん。海かプールねぇ」


 どちらも嫌いじゃないが、人混みはあまり好きではない。この間の合宿の時みたいな静かな夏の雰囲気の方が好きなのだ。まぁ七海はどちらも好みらしいが。


「なになにー?」


 こちらの会話を聞きつけて、めぐと奏もそばに寄ってきた。「お盆に海かプール行こう!」と七海が明るく二人に声をかける。


「ええなぁ」


「おぉ、めぐは乗り気! 奏も行きたいやんな?」


「うん! 合宿もみんなで行けて楽しかったから」


 めぐと奏まで賛同するなら仕方ない。「ほんなら行こうか」とみなこが頷けば、一番嬉しそうにしたのは奏だった。


「あ、でも水着中学の時のやつや」


 去年は受験もあってどちらにも行けていないので、最後に着たのは中二の時だ。デザイン的にも厳しいものがある。流石に新しい水着が欲しかった。


「ほんなら、水着買いに行こうや。私も新しいの欲しいし」


 ご機嫌にめぐのツインテールが揺れる。そこに七海が抱きついた。


「それじゃ決まりやな! みんなで水着買いに行って、海かプール!」


「私は、どっちかというとプールの方がいいかなぁ」


「みなこちゃんがプールがいいなら、私もプールでいいよ」


 奏のその一言でプールに決まった。休みの初日はみんな用事があるらしく、行くのはお盆の休みの最終日だ。その前日に水着を買いに行くことになった。


「あ、そうだ。佳奈も誘わないと」


 断られるかなぁ、なんて思いつつ、誘ってみれば二つ返事でオッケーだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る