第7話 枯葉

 口の中にほんのりと甘いパンケーキの香りが残る中、午後の練習が始まった。


 一ヶ月後の文化祭に向けて、セットリストに入っている曲を順番に確認していく。演奏が途切れるたび、客席の一番うしろで聴いている川上が指示を飛ばす。そのアドバイスは実に的確だ。部員たちもそれぞれ意見を出し合い、そうして曲をブラッシュアップしていく。


 ちなみに、今練習をしているのは、二、三年生を中心としたコンボの曲でみなこの出番はない。まだ慣れていない一年が一時間の公演のすべての曲を演奏するのは難しいという判断だ。実力を買われている佳奈はしっかりと出番がある。


「うん。この曲はオッケーやな。それじゃ、次は『枯葉』」


 川上の指示に上級生たちが次々にステージからはけていく。それと入れ替わりで、みなこたちはステージに上がった。この『枯葉』は一年生だけで演奏する予定の曲だ。ジャズのスタンダード・ナンバーで知名度も高く、基礎的な曲として有名で、一年生だけで演奏するのに適しているらしい。曲自体は、さすがのみなこも聞いたことがあった。


「やっぱりステージ狭いなぁ」


 ステージに上がるやいなや、七海がそんな愚痴をこぼす。「貸してもらってんのに文句を言うな」とめぐが七海を叱咤した。


「ごめんごめん」


 あまり反省のない様子で謝罪の言葉を口にしながら、七海は先ほどまで健太が使っていた椅子を片付け、自分の高さにセッティングされている椅子に置き換えた。めぐは七海の愚痴が横山に聞かれていないか、という心配をしているのだろう。怒られはしないだろうけど、手厳しい指導が待ってそうな気がする。


 とはいえ、狭いとごちる七海の気持ちも分かる。「CLOVER HIKONE」はキャパが七十人程度のライブハウスで、舞台の板の上は狭く部員全員は乗れない。だから、ビッグバンドで演奏する際は、サックスや金管は客席側に下りて演奏を行っているのだ。コンボでの編成の時こそ全員がステージに乗るのだが、それだとステージの上はかなり窮屈になる。 


「それじゃ頭から一曲通してみて。ソロは、サックス、ギター、ベース、トランペット、ピアノの順」


 演奏は佳奈のサックスから始まる。深く息を吸い込み、彼女がポニーテルを揺らせば、優しく伸びやかな音が少し埃っぽいステージに響き渡った。それを合図に、一斉に全員の音が重なる。『枯葉』はシンプルかつ落ち着いたメロディが特徴の曲だ。だからこそ、腕前差が顕著に出る。佳奈の音色は哀愁がぐっと漂う美しさがあるが、みなこたちはまだまだたどたどしい。


 先ほどまでの上級生の演奏を聞いたあとだと、どうしても見劣りしてしまうが、こうしてセッションをすれば音楽になっていることが実感できる。それが何よりも楽しかった。ソロだって、佳奈以外はまだアドリブが出来るわけもなく決まったフレーズを演奏するだけだけど。


 演奏終わり、川上の開口一番は、「悪くないよ」という言葉だった。


 不出来なのは演奏をしている自分たちが良く分かっている。少なくとも佳奈の演奏の邪魔にならないようにするのが精一杯だ。少し気を落としたこちらの反応を見て、川上は言葉を続けた。


「あー、そんなに落ち込まんでも。春先のオーディションよりも着実に上手くなってるで。けど、実力は井垣が一つも二つも抜きん出てる。コンボにも選ばれるくらいの実力はあるし。だから、それに着いていこうとみんなは必死すぎ。それが良くも悪くもバランスを崩してる。もっとリラックスして、この曲は穏やかな曲やろ? 切羽詰まった音は聞き苦しいで」


 川上のアドバイスも徐々にヒートアップしてきている。始めこそ優しい口調だが、後半はそれなりに厳しい言葉が並んでいた気がする。それもこちらを思ってくれてのことだろうけど。こちらの素直な返事を聞いて、「それから」と川上は視線を佳奈の方に向ける。


「井垣は一人で突っ走るのもええけど、もっと周りに気を配らなあかん。他の人を引っ張るのと一人で突っ走るのは違う。分かるな?」


 佳奈は素直に頷いた。七海との件の以来、佳奈は上手くなるということと向き合い始めた。それから彼女の実力はさらに伸びている気がする。


「清瀬、練習は失敗してもええんやから、ソロのところは決まったフレーズもちょっとはアレンジするように意識しいや。チャレンジせな成長できひんで」


 川上に続いて、同じく客席で演奏を聞いていた大樹がこちらに指摘を飛ばした。休憩やスタジオ練習に行く上級生が目立つ中、自分のセクションの一年生にアドバイスをするためか、知子、大樹、杏奈の三人は客席に残っていた。


「はい。でも、とっさにしようと思うと中々……」


「とっさやからアドリブなんやけどな。指はちゃんとスケールで動くようになってきてるから、気持ちのいい音の方に流れればええと思うで。演奏前にぼんやりと弾きたいメロディを意識したり、準備はなんぼでも出来るで」


「わかりました」


 大樹に言われた通り、ソロの部分のメロディを思い描いてみる。それを少しだけ変化させ音を弾ませる。頭の中で『枯葉』の切なげなメロディが表情を変えた。


「それじゃもう一回、」


「あ、私からもいいですか?」


 杏奈が川上の言葉を遮った。「もちろん」と川上が頷く。


「谷川ちゃん。ベースラインがずっと単純なままやから、曲の展開を考えたり周りの演奏を聞いてアプローチを変えていかな。ちゃんとコードを理解してるんやから、あとはチャレンジする勇気やで。ベースが曲を支えてるって意識をちゃんと持って」


「はい」


 そう返事をした奏は、杏奈の言葉に少し気圧されているように見えた。決して杏奈の口調は厳しいものではなかったのだが。奏は杏奈の言葉に対して怯えたような仕草をした。ほっそりとした顔を強張らせ、奏はベースラインの手の動きを確認していた。


「それじゃもう一回、頭から」


 再び、佳奈のサックスが震える。彼女の鳴らした優しげな音は、「大丈夫、私に着いてきて」そんな風に言っているように聴こえた。

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