第2話 ブランコ

「そっか。昨日、私が帰ってからそんなことがあったんだね」


 ブランコに座った奏の足がブラブラと揺れる。学校から雲雀丘花屋敷に向かうまでの住宅街にポツリと佇む公園は、さっぱりとした空気と寂しさで満たされていた。奏の足先から離れていく影が、伸びた雑草の色合いを濁していく。


「そう。それでこの子は、こんな落ち込んでるってわけ」


 ブランコの吊り具の部分をぐっと握り込んだままうつ向いている七海の頭を、めぐがポンポンと叩く。制服の移行期間に入っているため、めぐは夏服だ。紺色のリボンが胸元で揺れる。「うぅ」となんとも弱々しい声を出しながら、七海はその背をさらに丸くした。


「でも、七海ちゃんは、気にする必要ないんじゃないかな?」


「私もそう思うんやけどな。当の本人は、今日もしかしたら井垣さんが来ないかもしれないって心配してたみたいで」


 元気出しなさい、と今度は七海の額をめぐが人差し指で弾く。奏はぶらついていた足を止めて、七海の方へ顔を向けた。


「でも結果的に来たんだから、井垣さんはもう怒ってないはずだよ」 


「やとしても一度、怒らせたんは事実やし。謝っておきたい」


「でもなぁ。下手に謝ると逆効果かもしれんし」


「やけど、うちがしつこく井垣さんに絡んだからやもん」


 その場で相手の些細な気持ちの変化に気づかないわりに、こういうところだけは繊細だ。七海の謝りたい気持ちも分からなくないが、みなこは話が余計にこじれる気がしてならなかった。


「普通はそれでええんかもしれんけど」


「そうやな。七海の場合、火に油の可能性もあるな」


「みなこもめぐもうちを何やと思ってんの」


 冗談っぽく言った七海の声に張りはない。すっかり疲れた目元に、沈みゆく陽が暗い影を落とした。


「ごめん、ごめん。でも、なんとなくやめといた方がええ気がするから」


「でも、このままやったら向こうも気悪いやろ」


「そうなんやけどさ」


「うちは佳奈と仲良くしたいって思ってんのに……」


 そう思っているのが一方的なものであれば迷惑な話なのだが、落ち込んでいる七海にそれを告げるのはあまりに酷に思えた。この無鉄砲さは、本来彼女のいいところでもあるのだ。それを矯正しろ、とみなこは言えない。


 溜息を漏らしたみなこの横で、めぐがツインテールを指に巻きつけていた。ブランコの向こう側で灯った外灯が、不機嫌そうなめぐの顔を照らす。 


「それにしても分からんのは井垣さんやろ」


 指に絡みついた髪は、彼女が指を動かすのをやめると一気に解けていった。ツンと尖らせた唇が、罰悪そうに言葉を紡ぐ。


「あん時は私もちょっとカッてなってもたけど。……やっぱり、井垣さんがなんで怒ったんかよう分からん」


「確かにね」


「七海が悪口を言ったなら分かるけど、褒めてただけやし。話しかけて来て欲しくないなら、声かけられようが近づいて来んかったらええだけやん」


 いつも七海の方から話しかけてはいたが、めぐの言う通り近づいて来たのは佳奈の方が多かった気がする。もし話しかけられたくないなら、無視でもすればいいものなのに。佳奈の心情を理解しようとすればするほど、その真意が底なし沼の底へ沈んでいく気がしてならなかった。


「それに、前にみなこが言ってたやん。井垣さんは孤高っぽいって。私もそういうイメージあったけど、ソロに指名された時、一回断ったんやろ? あーいう性格なら、自信満々で志願してまでソロを取りに行きそうなもんやのに」


 みなこもめぐと同じことを思っていた。みなこのイメージの中の佳奈と、現実の彼女にギャップがありすぎる。


「ステージでは堂々と演奏してたもんね」


 もしかすると、自分たちは井垣佳奈という人間をまったく理解できていないのかもしれない。それに実際に接した彼女からは悪意じみたものは感じなかった。七海と揉めたあの日の別れ際に見た彼女の潤んだ瞳の色を、みなこは薄暗い公園の中に思い浮かべる。そのイメージを壊すように、めぐが奏の方へと一歩近づいた。


「奏はビッグバンドの練習で、井垣さんのことそれなりに近い距離で見てたやろ? ソロの件のこととか。奏的にはどうなん?」


「気を使ってる感じはあったよ。井垣さんが断ったのも、先輩を差し置いてソロを吹くのは申し訳ないって言ってたし……」


 奏のまだ真新しいローファーのかかとがサラサラとした砂利にこすれる。腕を組んだめぐが、うーん、と考え込む。


「それが本音かは分からんけどな」


「私も数学のノートを川上先生に持って行く時、井垣さんが先生と話しているのを聞いてん。そこでも、先輩を差し置いて、って内容やった」


「でもね、今回はイベントだし経験を積ませるために吹いてってニュアンスだったんだよ」


「そうやったんや」


「上級生は『Rain Lilly』でソロ取ってたし。『Little Brown Jug』では普段ソロを取らない人がソロをやってたの。サックスだけじゃなく、トランペットもトロンボーンも」


 確か、トランペットは二年の美帆、トロンボーンは三年の建太がソロを取っていたはずだ。奏の話をオブラートに包まずに言えば、『Rain Lilly』で実力者がソロを取り、『Little Brown Jug』は経験値を積ませるため実力の伴わないものにソロを任せたということだ。


 めぐが不思議そうに首を捻る。


「でもさ、トロンボーンの中村先輩は三年生やろ?」


「うーん、どうなんだろう。二年の笠原先輩の方がうまいってことなのかな?」


「中村先輩は、『Rain Lilly』でドラムしないといけないからじゃない?」


 どちらのトロンボーンが上手いか、今のみなこでは判断がつかない。そもそも普段の練習場所が大スタジオと小スタジオで別れている以上、二人の演奏を聴き比べる機会は定例セッションの時くらいしかない。


「それはええとして。佳奈は『Rain Lilly』でソロが取りたかったとか?」


 めぐの推測は、彼女がかなりの自信家であるならありえる話だ。そういう性格の人の中には、どうして自分が二番手なのだ、と文句くらい言う人だっているかもしれない。


「井垣さんはそれを言いそうな雰囲気やけど、違うんやろなぁ」


 先生に懇願している時の言い方も、そういうニュアンスは含まれていなかったように思う。完全に陽が落ちて、暗くなった空をみなこは見上げる。どこからともなくやってきた蛾が、チラチラと灯る白い外灯の光の輪の外側を飛び回る。


「でもなんとなくだけど、井垣さんの気持ちも分からなくはないかな」


 ブランコの金具が、ギィッと音を立てた。白い奏の肌を夜闇色の影が侵していく。


「というと?」


「井垣さんは友達付き合いがあまり上手くないタイプなんじゃないかなって。私は転校ばかりで、気がついたら人に合わせたり無理に馴染もうとしたりすることが得意になっちゃってたけど、本来は友達を作ったりするのは苦手な方なんだ。だから、七海ちゃんみたいな積極的に来てくれるとすごく嬉しいの。……きっと井垣さんも同じ気持ちなんだけど、上手く対応出来ないんじゃないかな」


 奏の言いたいことをみなこは理解しているつもりだ。みなこだって、友達つくりが得意な方じゃない。だから七海のこういう呑気な性格には感謝している。だけど、佳奈がそんな自分と同じとは思えなかった。


「井垣さんは一人でも大丈夫なタイプに思えるけど」


「みなこちゃんがそう思うならそうかも。私のは、井垣さんがそうならいいんじゃないかなっていう願いみたいなものだから」


「願いか……」


 七海も奏も、佳奈と仲良くしたいというのが本音なんだろう。それはみなこだって同じだ。せっかく同じ部活に入ったのだから友達になりたいし、こうやって一緒に帰る中に佳奈も混じればきっと楽しいだろう。奏の言う通り、彼女もそれを願っているなら。七海のことを嫌がる本当の理由を知ることが出来れば、解決の糸口が見えるかもしれない。


「今になってみれば、みなこが心配してたことは当たってたんやな」


 後悔に近い思いが混じった溜息をめぐが漏らす。奏は目を丸くした。


「みなこちゃん心配してたの?」


「うん。なんとなくやけど」


 威張れることでもないので、小さな声でみなこは返す。それを聞いた七海が少し怒った声を出した。


「やったら、みなこが止めてくれれば良かったやんか」


「最大限の忠告はしてたやん。怒らせたのは七海のせい」


「そうやけど……」


 しゅんと七海の背中が丸くなる。「もー、いちいち落ち込まない」とめぐがその背中を強めに叩いた。


「やっぱりうちが謝らなあかんって。佳奈がなんで怒ってんのかよく分からんけど、謝らな気がすまへん」


「やからそれはまずいって」


 そもそも、どうして怒っているのか分からない相手に、取り敢えず謝ることほどの悪手はない。謝罪とは、相手の気持ちをちゃんと理解してからするべきものだとみなこは思う。


 みなこに同調するように、めぐが相槌を打つ。


「私も七海が謝るのは違うと思う。……別に怒るようなことでもないのにキレた井垣さんが間違ってるとかじゃなくて。うまく言えんけど、もっと話がこじれる気がするから。それに一度当たったみなこの勘をもう一度信じて見てもええんちゃうかなって」


「ほんならどうしろっていうん?」


 そう嘆いた七海の手のひらは、さらに強くブランコの吊り具を握りしめた。錆びた鉄が擦れる音が、寂しい公園に響く。


「なんとなく解決してくれそうな人はおるけど」


 めぐがこぼした言葉に、みなこは「そんな人おる?」と首をかしげてみた。先輩の姿を思い浮かべてみるが、こんな折り入った話を出来ると思えない。強いて言えば、みちるだろうけど。そもそも、この揉め事を上級生に相談するのは気が引ける。あまり大事にはしたくない。


 ふと意識を戻すと、三人の目がじっとこちらを向いていた。どうしてこちらを向いているのだろうか。不思議そうな顔をみなこが浮かべていると、三人はまるで示し合わせたように話し出した。


「みなこは人当たりがいいから」


「みなこちゃんなら、井垣さんとうまく話せるかも」


「みなこ、一生のお願い! ジャズ研のこれからのために」


「待って、なんで私なん?」


 腑抜けた自分の声が、梅雨の近づく湿っぽい風に溶けた。少し甘えた声色を出しながら、めぐがみなこの腕を掴む。


「なんだかんだで、みなこが一番井垣さんのこと気にかけてたやんか」


「それはどっちかというと七海のことを心配していただけで。それに奏ちゃんの方が井垣さんのこと分かってるんちゃう? 練習とかで接する時間が長かったんやし」


「私は人に合わせちゃうタイプだから、人から何かを聞き出すっていうのは得意じゃないよ」


 そう言いながら奏が目を伏せる。その表情には、ごめんねと書かれてあった。


「でも、私は井垣さんと何を話せばいいん?」


「井垣さんの気持ちをしっかりと聞いて。同時に七海に悪意がないことを伝える。あとは成り行きで。みなこなら上手くやれるって」


 その成り行きの部分が重要だろうに。甘い匂いを漂わせながら、「頑張って」とめぐがあざとく小首を傾けた。


 心配していたのは事実だし、佳奈と仲良くなりたい気持ちはみなこにだってある。人間関係に土足で入り込むのはいけないことだけど、当事者から入って来てくれと頼まれた。みなこの勘違いでなければ、両方からだ。それに、どうやら断ることは出来そうにない。


「分かったけど、期待しないでよ……」


「ありがとう! みなこー」


 渋々承諾したみなこに、七海が声を弾ませる。なんとなく腹立たしい。


「アイスおごりな」


「なんでもおごりますよ!」


「調子いいんやから……」


 何が解決したわけでもないのに、七海は勢いよく立ち上がった。悲鳴を上げたブランコは小さく揺れながら、四人の足元に黒い影を落とす。薄暗い砂利の上に出来た影たちは輪郭を失い、その境界線を曖昧なものにしていた。

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