第3話 梟

 フクロウの形を模した振り子時計の目が右に左に揺れ動く。みなこが設けた制限時間はあと五分。数学のノートとにらめっこをする七海の顔はいつになく真剣だ。とっくに問題を解き終わったみなこは、すっかり馴染み深い七海の部屋をぼんやりと眺めていた。


「みなこ、もう解けたん?」


「まぁねー」


 ちらりとこちらを見やり、麦茶を口に含んだ七海の視線は再びノートへと落ちていく。中間テストで赤点を取ればイベントには出られない。川上からの忠告を真摯に受け止めているのは大変結構なことだ。


 時計の針が定刻を告げ、「はい、そこまで」とみなこは手を打った。


「ムズイー」


 床に倒れ込みながら、七海は足をバタつかせた。


「まだ基礎問題やで? ほら、答え合わせするから、ノート貸して」


「なんで、こんな問題をみなこはスルスル解けるん」


「ちゃんと授業聞いているから?」


「うちも聞いてるって!」


 七海の回答に赤ペンでチェックを入れながら、先日、小スタジオで話したことを考えていた。あれから三日、特に問題は起きていない。


「みなこは数学得意でええな」


「かわりに日本史とか苦手やけどな」


「うちも日本史苦手ー」


「七海は全部やろ」


「そうやった」


 トホホ、と腑抜けた声を出しながら、七海は皿の上に乗ったスナック菓子をつまむ。部活終わりに七海の家へ寄っているので、時刻は午後八時半を少し過ぎたところ。帰れば晩ごはんが待っているみなこは遠慮したい。


「はい。こことここが間違ってる」


「うーん。どうするんが正解やったん?」


「それはXを……」


 七海に注意するべきなのだろうか。航平やめぐが言うように、自分の思い過ごしであればいい。心配事を積極的に解決しようするのはらしくないのだ。だけど、どうしてか七海と佳奈のことが頭から離れない。危険。そう書かれているはずの看板を無視して、触れてはいけないものに触れたくなる好奇心のような。不思議な衝動がみなこの心を支配していた。


「ん? みなこ?」


 気づかない間に解説をやめていたらしい。ハッ、と我に返り七海と目が合う。


「ごめん、ごめん」


「どうしたん? 私がアホすぎて飽きてる?」


「いや、そういうわけちゃうけど……なぁ七海、井垣さんとどう?」


「どうって……?」


 何を言っているのだ、と言いたげに、七海は数学の問題と向き合っている時と同じ表情を浮かべる。


「ほら、ビッグバンドの練習中とか……?」


「うまいなぁーって思うけど?」


「それだけ?」


「それだけかな? 次のイベントではソロとか任されてるし」


「へぇ、ソロね」


「っていうか。てか、私は自分のドラムのことで必死やから、他人のこと気にしてられへん」


「……そっか。自分のことで必死なんか!」


「なんでうちが苦労してることがそんな嬉しそうなん?」


「いや、そういうわけちゃうねんけど……」


 七海が自分のことで精一杯だという事実に安堵している自分がいる。そもそも、七海へのあの質問の先に、どんな答えを期待していたのだろう。もし七海が「佳奈と仲良くなりたくて、ずっと話しかけてる」と言えば、「井垣さんが嫌がってるからあまり話しかけないようにして」などと自分は言っていたのだろうか。


 ベッドの上に転がっていたクッションを掴み、七海がギュッと抱き寄せた。カバーに書かれたアルファベットがぐしゃりと歪んだ。


「んで、佳奈がなんなんよ?」


「いや、ごめん特に深い意味はないよ」


「ふーん」


 そんなことを言う権利は自分にはない。航平やめぐが言っているのはそういうことなのだ。構築前の人間関係に土足で踏み入って荒らすようなことはすべきではない。みなこの中の良心がそう告げている。


「ほら、ここもっかい解こうや。ここさえしっかり理解出来たら赤点はないから」


「こんな時間まで、ほんまありがとうなみなこ。お菓子食べてええから」


「お菓子は要らんから」


 丁重にお菓子を断り、みなこは再び時計に目をやった。左右に動くフクロウの目は、まるで問題から目をそらす誰かさんの目に似ていた。

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